僕の目の前には、シュア家の当主でありエステルの父でもある、コンラート・シュアクリール卿。
彼とある話をつけるために、僕はシュア家に来ていた。
今日、ここに僕がいることを、エステルは知らない。
彼女は知らなくてもいい。これは、僕が乗り越えるべきものだから。
彼の後ろの、窓から見える鮮やかな紅葉が目に入ってくる。
エステルが前世を過ごしていた土地では、紅葉は秋の風物詩だったらしい。
気候の穏やかなこの国では、葉が色を変えるのは秋ではなく冬。
前世は前世だとわかっているけれど、今でもたまに混乱するのだと前に言っていた。
彼女の話を思い出し、緊張を忘れて自然と微笑みが浮かんできた。
「それで、ジル。話とは?」
コンラートさんの声は、いつもより低く響いた。
どことなくわざとらしく聞こえてしまうのは、柔和な人となりを知っているからだ。
どうやら彼もいささか緊張しているらしい。
「エステルとの結婚のお許しをいただきに来ました」
かしこまるべきか、いつもどおりで通すべきか。
わずかに逡巡し、結局中途半端な言葉遣いになってしまった。
知らない仲でもないのだし、彼相手には変な小細工はしないほうがいいのかもしれない。
「け、結婚?」
コンラートさんの声は面白いほどに彼の動揺っぷりを物語っていた。
「はい。正確には、求婚する許しをいただきに、でしょうか」
まだ、エステルからはっきりとした答えはもらっていない。
プレゼントは受け取ってもらえるだろう、という程度にしか自信が持てない。
彼女の僕への恋心を疑っているわけじゃない。
それでも、結婚というものは一つの契約であり、誓約。
どこまで気持ちが固まっているのか、それが変わることのないものなのか、僕にはわからない。
だから僕にできるのは、ただ自分の想いを伝えることだけ。
一心に、愛を乞うことだけだ。
「……本気なのかい?」
「本気です。エステルの成人の日に、伝えようと思っています」
エステルの誕生日は半月後に迫っている。
すでにプレゼントも用意してあると言ったら、コンラートさんはどんな顔をするだろうか。
「なんというか……急な話だね」
コンラートさんはそう言ってため息をついた。
それは明らかな困惑を含んでいて、僕は少しだけ申し訳なくなった。
「僕にとっては急でもなんでもありませんよ。コンラートさんも、まったく予想していなかったというわけではないでしょう?」
僕の気持ちなんてとっくの昔からわかっていたはずだ。隠しもしていなかったのだから。
ただの冗談だと、そう捉える人が少なからずいたことは知っている。
けれど目の前のこの人は違うだろう。
僕の本心を見誤るほど、コンラートさんは鈍くはない。
感情を表に出すことが苦手で、人付き合いが得意とは言えない父と、年齢を超えた友情を育める人なのだから。
驚いているのは、予想よりも早かったからだろうか。
たしかに、エステルの成人したその日にというのは、急ぎすぎなのかもしれない。
八つも年齢差があるのだから、あまりいい顔をしない人もいるだろう。
きっとエステルだってもう少し猶予が欲しいに違いない。
そうわかっていても、僕はもう、これ以上は待てなかった。
僕とエステルをつなぐ絆を、形にしたい。
確かな約束がないと、安心できない。
「じゃあ、一ヶ月ほど前に一緒に出かけたのは、君か」
唐突に変わった話に、僕はすぐになんのことだか思い至った。
一ヶ月ほど前。それはエステルに、僕の育った孤児院と僕の故郷を見せた日だ。
「ええ。シルヴィアさんからはなんと?」
「相手は告げずに、デートだと。娘に詳しく聞こうとすれば嫌われるからやめておけと。……どうせ相手は、待っていれば自分から会いに来る、と」
苦々しい顔で語られた内容に、僕は苦笑をこぼす。
なるほど、あの人らしい言葉運びだ。
まず最初に混乱を誘い、相手にとって避けたい事柄を告げることで動きを封じ、最後に飴を与える。
そう言われてしまっては、コンラートさんはエステルに何も問うわけにはいかなかっただろう。
実のところシルヴィアさんは、コンラートさんよりも卿に向いているのではないかと思ってしまうことがある。
エステルはしっかりと彼女の血を受け継いでいるということか。
「さすがシルヴィアさんですね。そのとおりに、のこのこと自分から来てしまいました」
結局、誰よりも僕の本気をわかっていたのは、シルヴィアさんだったらしい。
ガーデンパーティーではエステルの傍にいることもめずらしくなく、エステルに愛を告げる僕を間近で見ていたこともあったのだから、当然なのかもしれない。
「ジル、君はいつから娘のことを好きでいてくれてたんだい?」
コンラートさんのその問いは、僕の本心を推し量るためのものだろう。
ごまかしてしまおうか、と一瞬考えなくもなかった。
正直に答えたところで、信じてくれるとはかぎらない。頭がおかしいんじゃないかと思われればもっと悪い。
きっと僕なら、彼をだますことも、話をすり替えることもできる。
それでも……偽ることなく答えようと思ったのは、彼の瞳がどこかあたたかかったから。
コンラートさんは、友人の父として、父の友人としても、僕をかわいがってくれた。
僕が本音で語ることを、彼は望んでいる。
なら僕は、どう思われたとしても、ありのままを告げるだけだ。
「……いつからなのか、と問われたら、初めからとしか答えようがありません」
そう。初めてエステルと瞳を覗き込んだ時から。
僕は彼女に囚われてしまっていた。
大事だ、と瞬間的に思った、すべての始まりの時と同じように。
「初めから? たしか君と娘が顔を合わせたのは、まだ娘が二歳かそこらのことだったはずだけれど」
「好きの意味は時と共に変わってきました。けれど想いの始まりは、たしかにあの出会いにありました。あの時僕は、エステルにひかりを見たんです」
あの、光も闇も存在しなかった世界で、一瞬感じたひかりを今も覚えている。
エステルは、そのたった一瞬のひかりを、永遠のものにしてくれる。
彼女がいれば、それだけで僕の世界は輝いた。
まぶしいほどに色鮮やかな日々を、エステルは僕に与えてくれる。
幸福という言葉の意味を、僕に教えてくれる。
「にわかには信じがたい話だね」
コンラートさんの反応は、予想できていたものだった。
初めから冗談のつもりなどなかったと知れば、誰もが僕の正気を疑うだろう。
幼児が好きなのかと、そういう趣味なのかと穿った見方をする人も当然いるだろう。
僕が好きなのは子どもではなくエステルだ。
そう告げたところで、あまり意味がないことはわかっている。
エステルはまだ子どもだ。それは変えようのない事実。
これが、僕とエステルの年が近かったのなら、問題はどこにもなかった。
十を数える前に婚約することだってある国なのだから。
差があるからこそ、僕の異常性が際立ってしまう。
自分が人としてどこかおかしいのはずいぶんと前からわかりきっていたことだ。
エステルを世界の中心に置いている考え方も、エステルへの異常なほどの執着心も。
たとえば僕は、エステルのためならためらうことなく人を殺められるだろう。悪に手を染めても罪悪感すら持たないだろう。
彼女の言葉を借りるなら、いつもは猫をかぶっているだけで、実際の僕は狂人と言われても否定できないような人間だ。
エステルに相応しくない、と思われても仕方がないかもしれない。
だからといってあきらめられるわけもないのだけれど。
「……エステルはね、あまりわがままを言わない子なんだ」
いきなり、コンラートさんはそんなことを話し出した。
彼はいったい何が言いたいんだろうか。
わからないながらも、僕は静かに彼の話に耳をかたむけた。
「ほんの幼いころに、身体が弱くて私たちに心配をかけてしまったせいかもしれない。私たちに気遣われるのをよしとしないんだ」
エステルがそうなってしまったのは、大本をたどれば僕のせいだ。
狭間の番人だった僕と顔を合わせたことで、エステルは前世を思い出した。
たった二歳のエステルの脳はその記憶に耐えられなかった。
調子を崩し、一年以上もの間、家族に心配をかけた。
エステルが人の顔色をうかがうのが得意なのは、元の性格もあるだろうけれど、そうした環境で育った経緯があるからだろう。
自分は大丈夫だから、心配しないで、と。
人に弱さを見せることが、人に甘えることが、エステルは苦手だ。
「考えてみれば、あの子はジルには最初から遠慮なく接していたね」
ふっとコンラートさんは笑みをこぼす。
僕のことを邪険にするエステルでも思い出しているんだろうか。
小さなころから、エステルは僕に対して容赦がなかった。
それは僕の言葉を冗談だと受け止めていたからでもあるんだろう。
僕の本気を知ってからは軟化した部分もあったから。
遠慮のなさは、相変わらずだったけれど。
「君にだけは、いくらでもわがままを言っても大丈夫だと、そう思っているように見えたんだ」
ダークブラウンの瞳が、優しく和む。
娘を慈しむ父の目をしている。
「ジル。君はエステルのわがままを、すべて受け止めてくれるのかな」
「もちろんです。それが僕の望みでもあります」
ずっと、エステルのすべてが欲しいと望んでいた。
それは彼女のわがままも含め、すべて。
他の誰にも言えないわがままを、僕だけに告げてくれたなら、どれほどにうれしいことだろう。
ジルのバカ、と言われたのは、つい最近のこと。
声音は刺々しく、けれどどこか甘えるような響きがそこにはあった。
きっかけは、不安と焦りに後押しされた深い口づけ。
キスは禁止と言っておきながら、僕への想いを語るエステルはかわいらしく、不安は消えてなくなり、ただ愛しさだけが募った。
あれも、わがままの一つなのかもしれない。
相手が僕だったから、ああして遠慮なく罵倒できたんだろうから。
「彼女の幸福は僕が守ります。ジルベルトの名に誓って」
僕の名が誓約を表すというのなら、それは僕にとって唯一の人のための誓いだ。
エステルを必ず幸せにする、という誓い。
彼女を、彼女のわがままを、彼女の弱さを、彼女の心を、すべて包み込めるように。
エステルを守る。エステルごと、彼女の生まれ育った地を、彼女がこれからを幸福に過ごす地を、守る。
それは、今の僕にならできるはずだ。
「エステルを、よろしく」
短い言葉に、万感の思いが込められているようだった。
エステルの幸福を僕に託してくれた喜びは、言葉にできるものではなかった。
だから。
「ありがとうございます」
僕はただ、深く頭を下げた。
エステルへの想いを認めてくれたこと。求婚を許してくれたこと。エステルの幸せを何よりも考えてくれていること。
この親の元に生まれ、愛されて育ったエステルを、さらに幸せにするというのは難しいことかもしれない。
そんなふうに考えてしまうくらいに、コンラートさんもシルヴィアさんも素敵な人だ。
エステルの幸福な未来のために、僕はできるだけのことをしよう。
それが、僕のしあわせにもつながるのだから。