「ジルのバカ」
わたしの言葉に、ジルは困ったように笑う。
そんな顔をしても、ダメなんだから。
「バカアホドジマヌケ、オタンコナス、ドテカボチャ、ポッポロピーマン」
「最後のはどういう意味なの」
「そんなの知りません」
つっこまずにはいられなかったらしいジルから、わたしはぷいと顔を背ける。
そんなことはどうでもいいんだ。
わたしが怒っているということを、知ってほしいだけなんだから。
「バカだバカだとは思ってましたが、こんなにバカだとは知りませんでした。もうジルはバカベルトに改名すればいいんじゃないですか。お似合いですよ」
「ひどい言われようだね」
ジルはそう言いながらも、小さく笑う気配がした。
楽しんでいるんだ、わたしの反応を。
ふつふつとこみ上げてくる怒りがわたしを支配していく。
「……ジルのバカ」
ソファに置いてあったクッションをぎゅっと抱きしめた。
まるで、それを手放したら死んでしまうとばかりに、力いっぱい。
これはジルと距離を取るためにも必要なものだった。
「機嫌を直してくれないかな、エステル」
ジルはソファに手をつき、わずかにあいていた距離を詰める。
もう片方の手でわたしの頬へと触れようとするのを、ギッと睨むことで押しとどめた。
「君はふくれっ面でもかわいいけどね。どうせなら笑顔が見たい」
それでも堪えないジルは、今度は甘くささやいて懐柔しようという作戦らしい。
「そんな言葉じゃごまかされないんだから」
恨みがましくわたしはそうつぶやく。
声が震えている自覚はある。顔だってきっと耳まで真っ赤だろう。迫力がないのは百も承知。
あんなことをされたら、どうしたって冷静ではいられない。
それでもジルに文句の三つや四つ、いやもっと言わないと気がすまなかった。
「わたしはまだ子どもなんです! ジルだってそれはわかってるでしょう!」
「うん、わかってるよ」
わたしが声を荒げても、ジルはどこ吹く風。
思いきり睨みつけているというのに、痛くもかゆくもないといった様子だ。
大人を相手に仕事をしているジルにとっては、わたしの怒りくらいどうってことないんだろう。
そうわかっていても、怒りは静まらない。
「ジルは子ども相手に欲情するんですか」
いつもなら絶対に使わない言葉を私はあえて選んだ。
自分が何をしたのか、ジルにもきちんと理解してほしかったから。
もしかしたら、すべて理解した上での行為だったのかもしれないけれど。
「エステル限定で、するね」
「……はっきりと言うようなことじゃないです、それ」
「事実だからね」
まったく悪びれないジルに、わたしはがっくりと肩を落とす。
ダメだこいつ、早くなんとかできない。
「待つって、言ったのに」
ポツリとわたしがそうこぼすと、ジルは初めて動揺したように見えた。
数瞬ほど固まって、それから情けなく眉尻を下げる。
もう一度手が伸ばされて、けれどその手はわたしに触れることなく宙をさまよった。
「ごめん。抑えが利かなかった」
その声には、少しの罪悪感がにじみ出ていた。
怒りは急速にしぼんでいってしまい、残ったのは困惑。
「理由になってません」
「そうだね」
わたしの言葉をジルは素直に認めた。
さっきまでの軽い調子はなりをひそめ、ジルの顔からは笑みが消えていた。
その表情は少しだけ、わたしの怒りの原因の直前、会話が途切れたときに似ていた。
二人きりの室内。誰にも見られる心配がないからと、好きな人のぬくもりを感じたくなる気持ちはわかる。わたしもそうだから。
軽く触れるだけの口づけも、いいのかなと思いつつ、許してしまった。
不穏な気配がしたのは、何度目かのキスのとき。
ジルの手がわたしの後頭部に手を回して、キスを深めてきた。
え、と思ったときには、口内に自分のものじゃない舌が入ってきて。
逃げる間もなく舌を絡められ、呼吸は飲み込まれた。
背中を叩いても、胸を押しても、ジルはしばらく開放してくれなかった。
やっと放してくれたときには息も絶え絶えで、わたしはすぐにジルと距離を取り、バカ、と言い放ったというわけだ。
ジルは普段、何よりも私のことを考えてくれて、わたしの思いを優先してくれる。
待つという約束が、ジルの良心と我慢の上に成り立つものだとわかっていながら、私は甘えてしまっていた。
それでいいんだと、大丈夫なんだと、ジルが言ってくれたから。
いっそ盲目的なほどに、信じてしまっていたんだ。わたしは愚かにも。
ジルだって、欲を持った一人の男だというのに。
ジルはわたしに嘘をつかない。
けれどそれは、わざとだましたりはしないという意味で。
結果的に嘘になってしまうことは、あるんだろう。
待つと言ったジルが、こうして何かの拍子に箍が外れることがあるように。
「成人するまで、キス禁止」
わたしはキッパリと、そう言ってみせた。
ジルにさらなる我慢を強いることになることを。
たとえ期間があと一ヶ月もないとしても、きっとジルは了承したくないことだろう。
「……わかった」
なのにジルは何も文句を言うことなく、少しの沈黙ののちにそれを受け入れた。
それが逆に、わたしの心に重くのしかかってきた。
悪いのは、ジルだけじゃないのに。
彼を責める権利なんて、わたしにはないのに。
「……ごめんなさい。ジルのせいだけじゃないのはわかってます。わたしだってキスしてほしかったから」
クッションを膝の上に置き、身体を丸めるようにしてうつむく。
ジルの顔が見られない。
たぶん、今の自分はすごく情けない顔をしている。
ありのままの心を告げることは、わたしにとってそんなに簡単なことではなかった。
でも、ジルにばかり責任を押しつけておくことも、わたしにはできなかった。
「加減がわからないんです。秘密にしておかないと、と思うと、これ以上はいけない気がして」
関係が進んでしまえばしまうほど、隠すことが難しいように思えた。
わたしは猫っかぶりだけれど、嘘をつくのが上手というわけじゃない。
秘密というものは、どれだけ隠そうとしてもどこからかもれてしまうものだ。
そのことを、ガーデンパーティーで流れる噂は実証している。
ここまでは大丈夫、ここからはダメ。わたしの中にもそんな明確な線引きは存在していない。
だからこそ、不安で仕方がないんだ。
「エステルは恋に不器用だからね」
ジルの声はわたしをいたわるような、優しいものだった。
うまく対処できないわたしを、仕方ないなと笑って許してくれるような。
包み込むような愛情に、わたしはなんだか泣きたくなってきた。
「会わなければ、バレる心配もないのに。でも、それも嫌なんです」
「うん、僕も嫌だよ」
顔を見たいし、声を聞きたい。話をしたいし笑い合いたいし、触れたい。
ジルにだけじゃない、わたしにだって欲はある。
だから、こうして訪ねてきてくれることをうれしいと思ってしまうし、会わずにいることなんて考えられない。
同じ気持ちなんだと言ってくれるジルの声音は甘さを含まず、ただ穏やかで、わたしをなだめてくれる。
「……もう、何が言いたかったのかわからなくなってきました」
はあ、とわたしはため息をついた。
さっきから言っていることは支離滅裂で、自分でも訳がわからない。
ジルだけのせいにはしたくない、という思いからの言葉だったはずなんだけれども。
ただ、自分の心情をこぼしただけになってしまった気がする。
「大丈夫、だいたいはわかったよ」
そう言うジルに、わたしは顔を上げる。
ジルはわたしに優しく微笑みかけてくれた。
「ようするにエステルは、恋心と理性との間で揺れているんだよね。恋するゆえの欲を抑えきれなくて、でも思うままにふるまうこともできずにいる」
そういうことなのかもしれない。
ジルの言葉には異常な説得力があった。
わたしよりもわたしのことを知っているんじゃないか、と思うほどに。
「……なんだかうれしそうですね」
にこにこと笑みを深めるジルに、わたしは眉をひそめて言った。
ジルの表情には明らかに喜色が浮かんでいる。
「理性的なエステルが悩むほどに僕のことを想ってくれているなんて、うれしくないわけないよ」
「なっ……!」
ジルの言いように、思わず言葉につまる。
たしかにわたしは感情をわかりやすく表に出すほうじゃないし、好意を伝えることも得意じゃない。
だからジルにそう思われても仕方がないのかもしれないけど。
ジルはもうちょっと、色々とひかえてほしい……!
「こうやって感情のままに僕にぶつかってくれるのもうれしい。僕はどんなエステルだって好きだよ」
しあわせそうな、とろけるような笑顔で。
そんなことを言われてしまったら、わたしはもう何も言えなくなってしまう。
ああもう、これだからジルは。
こんな人だから、わたしは彼を好きになってしまったんだ。
「……ジルには敵いそうにありません」
わたしは悔しさを隠すことなく、口を尖らせつつそう告げた。
ジルのことを好きだと自覚してから、負け続きだ。
先に惚れたほうの負け、という言葉はわたしたちには適応されないのかもしれない。
ジルはわたしの両頬を手のひらで包み込み、顔を近づけてくる。
その目はいたずらっ子のように輝いているけれど、わたしは逃げたりはしなかった。
コツン、と額と額が合わせられる。
どちらからともなく、わたしたちは笑い合った。
「キスは、禁止?」
「禁止です」
わたしは即答する。
そこは譲るつもりはなかった。
残念、とジルは笑顔のままで小さくつぶやいた。
「これくらいは、許してね」
ジルはそう言うと、わたしの額に軽く唇を落とした。
親が子に、おやすみなさいとキスをするように。
優しいだけのぬくもりを、ジルはわたしに与えてくれた。