八十六幕 しあわせなんだ

 卿として、イーツ家当主としての役割を、ジルはきちんと果たしているらしい。
 ガーデンパーティーで聞こえてくる声は、どれもジルの手腕を称賛するもの。
 あとは経験さえ積めば立派な卿になるだろう、という認識をほとんどの人に持たれているようだ。
 さすがだな、と思いつつも、無理をしていないかは心配だった。
 ガーデンパーティーで顔色を確認したかぎりでは、大丈夫そうだったけれど。
 ジルはちゃらんぽらんに見えてけっこうしっかりしている。でも、驚くほどに繊細だ。
 心配することしかできない自分が、歯がゆかった。

 その日は特にどうということもない日だった。
 来客があったのは知っていた。
 もしかしたらジルかもしれない、と期待もしていた。
 でも。

「届けものだ」

 まさか兄さまがわたしの部屋に彼を届けに来るとは、思ってもいなかった。

「兄さま、それはジルに見えるんですが」
「ジル以外の何物でもないな」

 わたしの言葉に兄さまは大真面目にそう返す。
 これはボケなの? つっこむべきなの?
 軽く混乱しながら、わたしは兄さまに首根っこをつかまれたジルに目をやる。

「届けもの、ですか?」

 ジルはものじゃない、人間だ。
 それは当然兄さまもわかっているだろう。
 ここで問題となるのは、どうして兄さまがジルを連れてきて、ジルのことを“届けもの”だと称したのかだ。

「ああ。それとも、迷子を連れてきたとでも言うべきか」
「迷子になんてなったつもりはないんだけど」

 聞き捨てならなかったのか、ジルが口を挟んだ。
 たしかにれっきとした大人が迷子扱いは、情けないものがある。

「なっているだろう。エステルのところに行くべきものを、私の元へと来たんだからな」

 兄さまの鋭い言葉に、ジルは反論できないようだった。
 わたしのところに行くべきものを?
 じゃあジルが今日訪ねてきたのは、わたしに会うためだったんだろうか。

「おまえは友人に会いに来たことになっているんだ。友人の家のどの部屋にいてもおかしくはない」

 兄さまのその発言は、ジルがわたしの部屋にいることを容認するものだった。
 そこでわたしは気づいた。
 どうやら兄さまはわたしたちの関係を知っているようだ、と。
 ジルが話したのか、兄さまが気づいたのかはわからない。
 隠し通せるとは思っていなかったし、元から隠すつもりもなかったのでどっちでも別にいいんだけども。
 ただ、どうしたって照れを感じずにはいられないわけで。
 動揺が顔に出ていないことを願った。

「私は部屋に戻る。エステル、任せた」
「はい、兄さま。……あの」

 ジルを部屋に押し込んでから出て行こうとした兄さまを、わたしは呼び止める。
 なんて言ったらいいのか、わからないけれど。
 それでも伝えたい思いがあった。

「ありがとうございます」

 ジルを連れてきてくれて。
 ジルとのことを、認めてくれて。
 二つの意味が込められていることに、兄さまはきっと気づいてくれるだろう。

「いや」

 兄さまはかすかに笑みを浮かべてくれた。
 妹のしあわせを考えてくれている、兄の顔をしていた。
 ポンポンと、兄さまはわたしの頭をなでて、その場から去っていった。
 言葉で語らないあたり、兄さまらしい。

「で、ジル、どうかしたんですか?」

 室内に二人きりとなってから、わたしはジルに向き直る。
 ジルは少し気まずそうに身動ぎした。
 いつもの彼らしくなくて、わたしは一歩ジルに近づく。

「別に、どうということはないんだけど」
「少し顔色が悪いようですが」

 ごまかそうとするジルに、見たままを告げる。
 ジルは元から男にしては白い肌だけれど、今はそれ以上に顔から血の気が引いている。
 何かがあったのは間違いないように見えた。

「ねえ、エステル……甘えてもいい?」

 ジルのその声は、かすかな不安と共に、すでに甘えを含んでいた。
 彼がこうもわかりやすく甘えてくるのはめずらしい。
 どちらかと言えば、ジルはわたしをからかって、反応を楽しむことが多かった。
 それがジルなりの甘え方なんだろうと思っていた。
 いつもどおりではいられないほどに心が弱っているというなら、甘えさせてあげたい。

「どうやって、ですか?」

 でも、どうしていいのかわからなかったから、方法を聞いてみた。
 ジルは少しだけ迷うように視線を泳がせ、それからわたしに目を戻す。

「抱きしめさせてほしいんだ」

 ある意味では想定の範囲内の答えだった。
 たしかに、人のぬくもりというのは安心するものだ。
 何かによって心がすり減っているジルがそれを求めることは、自然なことかもしれない。
 きっとそれは、他の誰でもなく、わたしでなくてはいけないんだろう。

 照れをどうにか追いやって、わたしはジルに歩み寄る。
 寄り添うくらいまで近づいて、ジルを見上げる。
 どうぞ、という言葉の代わりに。
 わたしの無言の返事が伝わったのか、ジルはうれしそうに微笑んだ。
 ジルの手が持ち上がって、わたしの背中に回される。
 強くはない、けれど弱くもない力で、抱きしめられる。

「うん、エステルはここにいる。エステルのいるここが、現実」

 うわ言のように、ジルは小さくつぶやいていた。
 聞かせるつもりの言葉ではなかったのかもしれない。
 それでも聞いてしまったからには、その意味を考えずにはいられない。
 現実を確認しなければいけないようなことが、あったということだろうか。
 ここ以外のどこを現実だと錯覚したというのか。
 そちらが現実だったとしたら、絶望してしまうような世界だったのか。

「もう大丈夫。ありがとう」

 ぬくもりが離れていく。
 それを寂しいと思ってしまう自分がいる。
 見上げれば、海色の瞳が穏やかにわたしを映している。
 顔色はいまだに悪いけれど、表情はいつもの余裕を取り戻してきているように見えた。

「……怖い夢でも、見たんですか?」

 思いつきをそのまま言葉にしてみる。
 現実ではない現実というと、それくらいしか思いつかなかった。

「当たり。情けないことにね」

 ジルはそう言って苦笑する。

「怖いというのとは、少し違う。遠い過去の夢だよ」

 狭間の番人の記憶のことを指しているのだと、すぐに気づいた。
 伏せられた瞳は、夢の内容を思い返しているのか悲しげに揺れている。

「光も闇もない、自分以外何も存在していない場所で、ただじっと、役目を終えることだけを考えていた。役目を終えて、自分が消えゆく時を待っていたんだ」

 淡々とした声は、逆に押し込められた思いを感じさせた。
 人でなかった記憶は、人であるジルには重く苦しいものだろう。
 どれだけ消してしまいたくても、捨てられない記憶。
 自分とは違うのに、過去の自分。
 わたしの持つ前世の記憶よりも複雑で困難なものなのだと、それくらいは理解できる。

「そんな夢を見た日には、決まって君に会いたくなる。あのころ焦がれ続けた僕のひかりに」

 ジルはわたしの瞳を覗き込んだ。
 まるで、そこに光る星を探すように。

「わたしは、ジルのひかりになれていますか?」
「充分なほどに」

 震える声で告げた問いに、返ってきたのは力強い肯定と笑顔だった。

「君が僕の世界を照らしてくれるから、僕は世界を美しいと思える。空も、大地も、人々も。君のおかげで、あのとき知らなかった感情で胸がいっぱいになる」

 そう語るジルは、本当に満ち足りた表情をしていた。
 ジルの世界の中心には、今も昔も変わらずわたしがいるんだろう。
 中心近くに、今は他にも大切な存在があるということを、わたしは知っている。
 大切なものを増やすための最初の一が、わたしだったということなのかもしれない。

「なら、よかった」

 わたしはほっとしてジルに笑いかけた。
 わたしがいることで、ジルに与えられているものがある。
 そのことを純粋にうれしいと思った。

「表情があるのもいいものだよね」

 ジルは言いながら、わたしの頬に指をすべらせる。
 笑みの形になっていた顔は、きっとそれだけで朱に染まったはずだ。
 過剰反応してしまうのが悔しい。

「わたし、表情に乏しいつもりはないんですが」

 むくれた顔を作って言うと、ジルはふっと楽しそうな笑みをこぼした。

「あのとき、僕は君の魂に触れていたようなものだったからね。肉体っていう外枠がない分、考えていることも感じていることも全部むき出しだった。感情がころころと変わって楽しかったのを覚えてるよ」

 いつのことを言っているのかはわかる。光里が次元の狭間に落ちたときのことだろう。
 ジルよりもさらにつかみどころのなかった狭間の番人のことは、忘れたくても忘れられない。
 そんなふうに見られていたのか、と思うと恥ずかしいような怒りたいような。
 過去のことだから、今さら怒るつもりもないけれど。

「今は、君が何を考えて何を感じているのか、言葉や表情から知るしかない」
「それが当たり前なんです」
「そうだね。僕も人としてそれが普通だって理解してるし、納得してる。記憶として残っている感覚のほうを、異常だと認識してる」

 人ではない者の感覚というのは、どういったものだったんだろうか。
 わたしには想像することしかできない。
 心は直接見えるものではなく、言葉や表情から推し量るのはわたしにとっては当たり前のこと。
 ジルの覚えている感覚というものは、ジルの人としての生活を邪魔してはいないだろうか。
 そんな不安が胸にわき上がってきた。

「だからね」

 答え合わせをするように、ジルは笑みを深めた。
 頬に添えられた手が、すっと頬をなぞった。

「君の表情をうかがう楽しさを知っている僕は、間違いなく人なんだなぁと思って」
「……うれしいの?」

 ジルの声音と表情から、わたしはそう推測した。
 喜びのにじんだ声。くもりのない笑顔。
 なんのかげりもない様子に、不安は消えていく。

「この上なくうれしくて、しあわせなんだ」

 ジルはわたしと瞳を合わせて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
 ああ、大丈夫だ。
 わたしはそう確信できた。
 ジルは、わたしに嘘をつかないから。


 この人は、まぎれもなくしあわせなんだ。



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