卿として、イーツ家当主としての役割を、ジルはきちんと果たしているらしい。
ガーデンパーティーで聞こえてくる声は、どれもジルの手腕を称賛するもの。
あとは経験さえ積めば立派な卿になるだろう、という認識をほとんどの人に持たれているようだ。
さすがだな、と思いつつも、無理をしていないかは心配だった。
ガーデンパーティーで顔色を確認したかぎりでは、大丈夫そうだったけれど。
ジルはちゃらんぽらんに見えてけっこうしっかりしている。でも、驚くほどに繊細だ。
心配することしかできない自分が、歯がゆかった。
その日は特にどうということもない日だった。
来客があったのは知っていた。
もしかしたらジルかもしれない、と期待もしていた。
でも。
「届けものだ」
まさか兄さまがわたしの部屋に彼を届けに来るとは、思ってもいなかった。
「兄さま、それはジルに見えるんですが」
「ジル以外の何物でもないな」
わたしの言葉に兄さまは大真面目にそう返す。
これはボケなの? つっこむべきなの?
軽く混乱しながら、わたしは兄さまに首根っこをつかまれたジルに目をやる。
「届けもの、ですか?」
ジルはものじゃない、人間だ。
それは当然兄さまもわかっているだろう。
ここで問題となるのは、どうして兄さまがジルを連れてきて、ジルのことを“届けもの”だと称したのかだ。
「ああ。それとも、迷子を連れてきたとでも言うべきか」
「迷子になんてなったつもりはないんだけど」
聞き捨てならなかったのか、ジルが口を挟んだ。
たしかにれっきとした大人が迷子扱いは、情けないものがある。
「なっているだろう。エステルのところに行くべきものを、私の元へと来たんだからな」
兄さまの鋭い言葉に、ジルは反論できないようだった。
わたしのところに行くべきものを?
じゃあジルが今日訪ねてきたのは、わたしに会うためだったんだろうか。
「おまえは友人に会いに来たことになっているんだ。友人の家のどの部屋にいてもおかしくはない」
兄さまのその発言は、ジルがわたしの部屋にいることを容認するものだった。
そこでわたしは気づいた。
どうやら兄さまはわたしたちの関係を知っているようだ、と。
ジルが話したのか、兄さまが気づいたのかはわからない。
隠し通せるとは思っていなかったし、元から隠すつもりもなかったのでどっちでも別にいいんだけども。
ただ、どうしたって照れを感じずにはいられないわけで。
動揺が顔に出ていないことを願った。
「私は部屋に戻る。エステル、任せた」
「はい、兄さま。……あの」
ジルを部屋に押し込んでから出て行こうとした兄さまを、わたしは呼び止める。
なんて言ったらいいのか、わからないけれど。
それでも伝えたい思いがあった。
「ありがとうございます」
ジルを連れてきてくれて。
ジルとのことを、認めてくれて。
二つの意味が込められていることに、兄さまはきっと気づいてくれるだろう。
「いや」
兄さまはかすかに笑みを浮かべてくれた。
妹のしあわせを考えてくれている、兄の顔をしていた。
ポンポンと、兄さまはわたしの頭をなでて、その場から去っていった。
言葉で語らないあたり、兄さまらしい。
「で、ジル、どうかしたんですか?」
室内に二人きりとなってから、わたしはジルに向き直る。
ジルは少し気まずそうに身動ぎした。
いつもの彼らしくなくて、わたしは一歩ジルに近づく。
「別に、どうということはないんだけど」
「少し顔色が悪いようですが」
ごまかそうとするジルに、見たままを告げる。
ジルは元から男にしては白い肌だけれど、今はそれ以上に顔から血の気が引いている。
何かがあったのは間違いないように見えた。
「ねえ、エステル……甘えてもいい?」
ジルのその声は、かすかな不安と共に、すでに甘えを含んでいた。
彼がこうもわかりやすく甘えてくるのはめずらしい。
どちらかと言えば、ジルはわたしをからかって、反応を楽しむことが多かった。
それがジルなりの甘え方なんだろうと思っていた。
いつもどおりではいられないほどに心が弱っているというなら、甘えさせてあげたい。
「どうやって、ですか?」
でも、どうしていいのかわからなかったから、方法を聞いてみた。
ジルは少しだけ迷うように視線を泳がせ、それからわたしに目を戻す。
「抱きしめさせてほしいんだ」
ある意味では想定の範囲内の答えだった。
たしかに、人のぬくもりというのは安心するものだ。
何かによって心がすり減っているジルがそれを求めることは、自然なことかもしれない。
きっとそれは、他の誰でもなく、わたしでなくてはいけないんだろう。
照れをどうにか追いやって、わたしはジルに歩み寄る。
寄り添うくらいまで近づいて、ジルを見上げる。
どうぞ、という言葉の代わりに。
わたしの無言の返事が伝わったのか、ジルはうれしそうに微笑んだ。
ジルの手が持ち上がって、わたしの背中に回される。
強くはない、けれど弱くもない力で、抱きしめられる。
「うん、エステルはここにいる。エステルのいるここが、現実」
うわ言のように、ジルは小さくつぶやいていた。
聞かせるつもりの言葉ではなかったのかもしれない。
それでも聞いてしまったからには、その意味を考えずにはいられない。
現実を確認しなければいけないようなことが、あったということだろうか。
ここ以外のどこを現実だと錯覚したというのか。
そちらが現実だったとしたら、絶望してしまうような世界だったのか。
「もう大丈夫。ありがとう」
ぬくもりが離れていく。
それを寂しいと思ってしまう自分がいる。
見上げれば、海色の瞳が穏やかにわたしを映している。
顔色はいまだに悪いけれど、表情はいつもの余裕を取り戻してきているように見えた。
「……怖い夢でも、見たんですか?」
思いつきをそのまま言葉にしてみる。
現実ではない現実というと、それくらいしか思いつかなかった。
「当たり。情けないことにね」
ジルはそう言って苦笑する。
「怖いというのとは、少し違う。遠い過去の夢だよ」
狭間の番人の記憶のことを指しているのだと、すぐに気づいた。
伏せられた瞳は、夢の内容を思い返しているのか悲しげに揺れている。
「光も闇もない、自分以外何も存在していない場所で、ただじっと、役目を終えることだけを考えていた。役目を終えて、自分が消えゆく時を待っていたんだ」
淡々とした声は、逆に押し込められた思いを感じさせた。
人でなかった記憶は、人であるジルには重く苦しいものだろう。
どれだけ消してしまいたくても、捨てられない記憶。
自分とは違うのに、過去の自分。
わたしの持つ前世の記憶よりも複雑で困難なものなのだと、それくらいは理解できる。
「そんな夢を見た日には、決まって君に会いたくなる。あのころ焦がれ続けた僕のひかりに」
ジルはわたしの瞳を覗き込んだ。
まるで、そこに光る星を探すように。
「わたしは、ジルのひかりになれていますか?」
「充分なほどに」
震える声で告げた問いに、返ってきたのは力強い肯定と笑顔だった。
「君が僕の世界を照らしてくれるから、僕は世界を美しいと思える。空も、大地も、人々も。君のおかげで、あのとき知らなかった感情で胸がいっぱいになる」
そう語るジルは、本当に満ち足りた表情をしていた。
ジルの世界の中心には、今も昔も変わらずわたしがいるんだろう。
中心近くに、今は他にも大切な存在があるということを、わたしは知っている。
大切なものを増やすための最初の一が、わたしだったということなのかもしれない。
「なら、よかった」
わたしはほっとしてジルに笑いかけた。
わたしがいることで、ジルに与えられているものがある。
そのことを純粋にうれしいと思った。
「表情があるのもいいものだよね」
ジルは言いながら、わたしの頬に指をすべらせる。
笑みの形になっていた顔は、きっとそれだけで朱に染まったはずだ。
過剰反応してしまうのが悔しい。
「わたし、表情に乏しいつもりはないんですが」
むくれた顔を作って言うと、ジルはふっと楽しそうな笑みをこぼした。
「あのとき、僕は君の魂に触れていたようなものだったからね。肉体っていう外枠がない分、考えていることも感じていることも全部むき出しだった。感情がころころと変わって楽しかったのを覚えてるよ」
いつのことを言っているのかはわかる。光里が次元の狭間に落ちたときのことだろう。
ジルよりもさらにつかみどころのなかった狭間の番人のことは、忘れたくても忘れられない。
そんなふうに見られていたのか、と思うと恥ずかしいような怒りたいような。
過去のことだから、今さら怒るつもりもないけれど。
「今は、君が何を考えて何を感じているのか、言葉や表情から知るしかない」
「それが当たり前なんです」
「そうだね。僕も人としてそれが普通だって理解してるし、納得してる。記憶として残っている感覚のほうを、異常だと認識してる」
人ではない者の感覚というのは、どういったものだったんだろうか。
わたしには想像することしかできない。
心は直接見えるものではなく、言葉や表情から推し量るのはわたしにとっては当たり前のこと。
ジルの覚えている感覚というものは、ジルの人としての生活を邪魔してはいないだろうか。
そんな不安が胸にわき上がってきた。
「だからね」
答え合わせをするように、ジルは笑みを深めた。
頬に添えられた手が、すっと頬をなぞった。
「君の表情をうかがう楽しさを知っている僕は、間違いなく人なんだなぁと思って」
「……うれしいの?」
ジルの声音と表情から、わたしはそう推測した。
喜びのにじんだ声。くもりのない笑顔。
なんのかげりもない様子に、不安は消えていく。
「この上なくうれしくて、しあわせなんだ」
ジルはわたしと瞳を合わせて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
ああ、大丈夫だ。
わたしはそう確信できた。
ジルは、わたしに嘘をつかないから。
この人は、まぎれもなくしあわせなんだ。