八十四幕 わたしだけを見ないで

 切ない思いを、そのまま言葉にすることはできない。
 それは、ジルを傷つけることになるかもしれないから。
 だったらどうすればいい?
 わたしだけじゃ駄目なんだと、ジルの周りには他にも大切なものがあるんだと。
 どうすれば、伝えることができるんだろう。

 息を吐いて、息を吸う。
 何度かくり返して心を落ち着かせる。
 大丈夫、ジルはわかってくれる。

「一つ、約束してくれますか?」

 わたしの言葉に、ジルはわずかに目を見張った。
 唐突すぎるのは自分でもわかっている。
 それでも言わずにはいられなかった。

 小さく、けれどたしかにジルはうなずいてくれた。
 それなら、言葉を尽くそう。
 わたしなりの言葉で、ジルに伝えよう。
 声が震えないようにと、もう一度深呼吸をした。

「わたしだけを見ないでください」

 はっきりと、わたしは思いを音にする。

「わたしを大事にしすぎて、わたし以外を排除しようとしないでください。ジルベルトの周りには他にもいろんな人がいます。あなたのことが好きな人、あなたのしあわせを願う人、あなたと一緒にいて楽しいと思ってくれる人。そんな人たちのことを、絶対に忘れないでください」

 イーツ家の人たち、兄さまを筆頭にわたしの家族、エレさんや、ジルのお友だち。
 みんな、ジルのことを大切に思ってくれている。
 わたしだけを見ていたら、もったいない。
 何より、狭い世界に収まってしまっては、きっとジルがしあわせになれない。
 わたしはジルに、もっと広い世界を見てほしい。
 もっと多くのしあわせに気づいてほしい。
 そう、願っているから。

「わたしを通してでもいいので、周りを見てください。親を、友だちを、知り合いを。あなたを取り囲む人たちを」

 わたしが言いきると同時に、ジルは瞳を伏せた。
 告げられた言葉を反芻するように。
 数秒にも、数分にも思える時間が流れた。
 ゆっくりと目を開いたジルは、わたしに微笑みかけた。

「わかっているつもりだよ」

 その声にはなんの気概もなかった。
 ただ、事実をそのまま口にしたような調子だった。

「僕にとって、エステルは特別すぎて。エステルにもらったものが多すぎて、たまに忘れそうになるけど」

 微笑みが、苦笑にすり変わる。
 ジルは握ったままのわたしの手に目を落とし、手に力を込めた。
 痛くはないけれど、絶対に離れないほどの力。
 それは何かを確かめているように思えた。

「エステルと僕の二人だけで、世界を完結させちゃいけないんだよね」
「当然です」

 世界に二人だけ、なんて神話やSF小説でもあるまいし。
 わたしにはジル以外にも大切なものがたくさんある。
 それは決して悪いことではなく、むしろいいことだと思っている。
 大切にしたいものがたくさんあればあるほど、日々を満ち足りた気持ちで過ごせるから。

「うん、大丈夫。アレクも、他の友だちも、……今の両親も、いるから。エステルと僕だけの世界に閉じこもってしまったりはしないよ」

 いつも、どんなときでも、ジルの言葉には嘘がない。
 大丈夫だと言うなら本当に大丈夫なんだろう。
 それはこれからのジルを見れば、わかることだ。

 こんなときに変かもしれないけれど、養父母と言わなかったことに、わたしは安堵した。
 ジルにとって両親とは、自分を傷つけるだけの存在だったんだろう。
 だから、なかなか親だと認められずにいた。他人なんだと、線引きしていた。
 そうして自然とあいてしまった距離は、きっと少しずつ縮めることができるだろう。
 ジルが、ちゃんと周りに目をやることができるなら。
 理解し合うための努力を怠らないのなら。

「それを聞いて安心しました」
「エステルは僕思いだね」

 にこり、とジルは笑う。
 わたしは恥ずかしがる心を奮い立たせて、ジルの手を少し強い力で握り返す。

「言ったでしょう、わたしはジルベルトが好きなんです。少々危ういところのあるジルベルトという人間を、大切に思っているんです」

 合わせた目から、つないだ手から伝わればいい。
 わたしがどれだけジルを想っているのか、ということが。
 それはまだ、ジルが向けてくれる想いには足りないのかもしれないけれど。
 いつか同じだけの想いを返せるようになる、という自信が、わたしにはあった。

「わたしがジルベルトをこの世界につなぎ止めるというなら、とことん足かせになってあげます。覚悟しておいてくださいね」
「頼もしいな」

 笑顔で告げれば、ジルの笑みが少し崩れた。
 泣きそうにも見える表情に、この人が好きだ、とわたしは実感する。
 わたしを守ると言ってくれたジルを、わたしが支えていきたい。
 迷いもためらいもなく、心からそう感じた。

「ありがとう、エステル。君のおかげで僕はこの世界を愛しいと思える。僕に関わってくれる人たちを、大切だと、そう思える」

 大げさだ、とは言えなかった。
 ジルの危うさを知っているから。
 わたしだけじゃないとしても、ジルにとってわたしが一番であることはわかっているし、わたしがいなかったらどうなるのかは想像もしたくないだろう。
 それくらい、大切に思われていることを、今のわたしは充分に理解している。

 ジルはわたしの手を掲げ持って、指先に口づけを落とした。
 ひゃっと声をもらしたわたしを見て、ジルはおかしそうに笑った。
 なんですかその顔は。しょうがないじゃないですかいまだに慣れないんだから。
 ジルはスキンシップが好きなんだろう。今までの経験からすると。
 過剰な触れ合いに慣れるには、もう少しの時間が必要になりそうだ。

「エステルを好きになってよかった」

 満ち足りた表情で、ジルは言う。
 わたしこそ、好きになってくれてありがとう。
 ジルがわたしを全肯定してくれるから、わたしはわたしでいられている。
 前世は前世って思えるのも、ジルのおかげでもあるのかもしれない。

 好きになってもらえて、うれしい。
 わたしもジルを好きになれてよかったと思っている。
 そんなふうに、素直に言葉にするのはどうしても照れくさくて。


 伝わりますように、と思いながら、ジルの手をぎゅっと握った。



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