切ない思いを、そのまま言葉にすることはできない。
それは、ジルを傷つけることになるかもしれないから。
だったらどうすればいい?
わたしだけじゃ駄目なんだと、ジルの周りには他にも大切なものがあるんだと。
どうすれば、伝えることができるんだろう。
息を吐いて、息を吸う。
何度かくり返して心を落ち着かせる。
大丈夫、ジルはわかってくれる。
「一つ、約束してくれますか?」
わたしの言葉に、ジルはわずかに目を見張った。
唐突すぎるのは自分でもわかっている。
それでも言わずにはいられなかった。
小さく、けれどたしかにジルはうなずいてくれた。
それなら、言葉を尽くそう。
わたしなりの言葉で、ジルに伝えよう。
声が震えないようにと、もう一度深呼吸をした。
「わたしだけを見ないでください」
はっきりと、わたしは思いを音にする。
「わたしを大事にしすぎて、わたし以外を排除しようとしないでください。ジルベルトの周りには他にもいろんな人がいます。あなたのことが好きな人、あなたのしあわせを願う人、あなたと一緒にいて楽しいと思ってくれる人。そんな人たちのことを、絶対に忘れないでください」
イーツ家の人たち、兄さまを筆頭にわたしの家族、エレさんや、ジルのお友だち。
みんな、ジルのことを大切に思ってくれている。
わたしだけを見ていたら、もったいない。
何より、狭い世界に収まってしまっては、きっとジルがしあわせになれない。
わたしはジルに、もっと広い世界を見てほしい。
もっと多くのしあわせに気づいてほしい。
そう、願っているから。
「わたしを通してでもいいので、周りを見てください。親を、友だちを、知り合いを。あなたを取り囲む人たちを」
わたしが言いきると同時に、ジルは瞳を伏せた。
告げられた言葉を反芻するように。
数秒にも、数分にも思える時間が流れた。
ゆっくりと目を開いたジルは、わたしに微笑みかけた。
「わかっているつもりだよ」
その声にはなんの気概もなかった。
ただ、事実をそのまま口にしたような調子だった。
「僕にとって、エステルは特別すぎて。エステルにもらったものが多すぎて、たまに忘れそうになるけど」
微笑みが、苦笑にすり変わる。
ジルは握ったままのわたしの手に目を落とし、手に力を込めた。
痛くはないけれど、絶対に離れないほどの力。
それは何かを確かめているように思えた。
「エステルと僕の二人だけで、世界を完結させちゃいけないんだよね」
「当然です」
世界に二人だけ、なんて神話やSF小説でもあるまいし。
わたしにはジル以外にも大切なものがたくさんある。
それは決して悪いことではなく、むしろいいことだと思っている。
大切にしたいものがたくさんあればあるほど、日々を満ち足りた気持ちで過ごせるから。
「うん、大丈夫。アレクも、他の友だちも、……今の両親も、いるから。エステルと僕だけの世界に閉じこもってしまったりはしないよ」
いつも、どんなときでも、ジルの言葉には嘘がない。
大丈夫だと言うなら本当に大丈夫なんだろう。
それはこれからのジルを見れば、わかることだ。
こんなときに変かもしれないけれど、養父母と言わなかったことに、わたしは安堵した。
ジルにとって両親とは、自分を傷つけるだけの存在だったんだろう。
だから、なかなか親だと認められずにいた。他人なんだと、線引きしていた。
そうして自然とあいてしまった距離は、きっと少しずつ縮めることができるだろう。
ジルが、ちゃんと周りに目をやることができるなら。
理解し合うための努力を怠らないのなら。
「それを聞いて安心しました」
「エステルは僕思いだね」
にこり、とジルは笑う。
わたしは恥ずかしがる心を奮い立たせて、ジルの手を少し強い力で握り返す。
「言ったでしょう、わたしはジルベルトが好きなんです。少々危ういところのあるジルベルトという人間を、大切に思っているんです」
合わせた目から、つないだ手から伝わればいい。
わたしがどれだけジルを想っているのか、ということが。
それはまだ、ジルが向けてくれる想いには足りないのかもしれないけれど。
いつか同じだけの想いを返せるようになる、という自信が、わたしにはあった。
「わたしがジルベルトをこの世界につなぎ止めるというなら、とことん足かせになってあげます。覚悟しておいてくださいね」
「頼もしいな」
笑顔で告げれば、ジルの笑みが少し崩れた。
泣きそうにも見える表情に、この人が好きだ、とわたしは実感する。
わたしを守ると言ってくれたジルを、わたしが支えていきたい。
迷いもためらいもなく、心からそう感じた。
「ありがとう、エステル。君のおかげで僕はこの世界を愛しいと思える。僕に関わってくれる人たちを、大切だと、そう思える」
大げさだ、とは言えなかった。
ジルの危うさを知っているから。
わたしだけじゃないとしても、ジルにとってわたしが一番であることはわかっているし、わたしがいなかったらどうなるのかは想像もしたくないだろう。
それくらい、大切に思われていることを、今のわたしは充分に理解している。
ジルはわたしの手を掲げ持って、指先に口づけを落とした。
ひゃっと声をもらしたわたしを見て、ジルはおかしそうに笑った。
なんですかその顔は。しょうがないじゃないですかいまだに慣れないんだから。
ジルはスキンシップが好きなんだろう。今までの経験からすると。
過剰な触れ合いに慣れるには、もう少しの時間が必要になりそうだ。
「エステルを好きになってよかった」
満ち足りた表情で、ジルは言う。
わたしこそ、好きになってくれてありがとう。
ジルがわたしを全肯定してくれるから、わたしはわたしでいられている。
前世は前世って思えるのも、ジルのおかげでもあるのかもしれない。
好きになってもらえて、うれしい。
わたしもジルを好きになれてよかったと思っている。
そんなふうに、素直に言葉にするのはどうしても照れくさくて。
伝わりますように、と思いながら、ジルの手をぎゅっと握った。