八十二幕 人形じゃない

 そのままのんびりとした時間を孤児院で過ごし、昼食は子どもたちと一緒に食べた。
 ジルはここに来たときはいつも、時間によるけどお昼やおやつを一緒にいただいていたらしい。
 ナーディアさんや他の先生方も子どもたちもそのつもりでいたようで、それなら遠慮するのも悪いかと、ご同伴にあずかることにした。
 たくさんの人たちと食べるご飯は賑やかで楽しくて、おいしかった。

 ジルの面倒見のいいところも見れたりして、わたしはふとある未来予想図が思い浮かんでしまった。
 将来わたしたちが結婚して、子どもができたなら。
 ジルはきっと、目に入れても痛くないくらいにかわいがってくれるんだろうと。
 自分の想像に照れてしまって、挙動不審になったわたしに、ジルは不思議そうにしながらも笑った。
 はかなげでも、甘やかでも、堂々としたものでもない、余計な力の抜けた等身大のジルの笑顔。
 そんな彼の隣にいられることが、わたしはうれしかった。

 昼食を食べて少ししてから、孤児院を発った。
 他にも行きたいところがあるとジルが言ったから。
 さらに一時間以上車を走らせて、降りたのは小高い丘の上。
 目的地とするには何もないところで、わたしは首をかしげずにはいられなかった。

「少し歩こう」

 そう言ってジルはわたしに手を伸ばす。
 この近くに彼は用があるらしい。
 それなら、わたしは何も言わずについていくだけだ。
 差し伸べられた手を取って、数分ほど歩く。
 気持ちのいい風が草木を揺らし、頬をなでていく。
 眼下に知らない町が見える場所で、ジルは立ち止まった。

「あそこは……」
「僕の生まれ故郷」

 思わずこぼれた声に、ジルは端的に答えた。
 え、とジルを見上げれば、何を考えているのか読めない、けれどどこかはかなげな笑み。
 車で進んできた道から眼下の町の名前がわかるほど、わたしは地理に詳しくない。
 それでも、ジルが生まれ故郷だと言うなら、本当なんだろう。
 こんな嘘をつく理由はないし、孤児院に連れて行ってくれたことからも納得できる。
 ジルはわたしに、自分の過去を見せてくれているんだ。

「ラニアではなかったんですね」

 町の名前がわからなくても、ラニアから出たことくらいは気づいていた。
 ここは隣の領地だ。
 孤児院はラニアにあったから、ジルの生まれ故郷もラニアだと思い込んでいたけれど、違ったらしい。

「そうだよ。両親は僕を捨てるために、違う領地まで行ったんだ」

 淡々とそう語るジルに、わたしはなんと言ったらいいかわからなかった。
 前世でも現世でも、親に愛されて育ったわたしには、ジルの気持ちは本当の意味では理解できないんだろう。
 誰よりも守り慈しんでくれるはずの親から、ほんの小さなころに見放された。
 それは、普段は気にしていないようであっても、確実にジルの心の傷になっているはずだ。

「……よく、ここが故郷だとわかりましたね」

 言葉に迷って、結局口にしたのはどうでもいいような疑問だった。
 ジルがイーツ家の養子になったのは八歳のとき。孤児院で四年お世話になったと言っていたから、捨てられたのは四歳くらいのときだろう。
 町の名前や場所を覚えていなくてもおかしくはない。

「記憶力がよすぎるんだろうね。家から捨てられた場所までの道のりをすべて覚えていたんだ。あとで地図を見ながらたどってみたら、この町だった」

 なんてことはないように、ジルはネタばらしをした。
 驚くべき記憶力と空間把握能力だ。
 けれど、ジルならありえなくはない、と思ってしまう。
 兄さまと並び立つくらい優秀なジルを、わたしは近くで見てきた。
 多少人間離れしているところがあっても、今さら驚かない。

「町には行かないんですか?」
「今もまだ両親がここに住んでいるかもしれないからね。顔を合わせる可能性があるなら、行かないほうがいい。僕の容姿は目立つだろうから」
「それは……たしかにそうですね」

 丘を降りる時間を含めても、ここから車で十分程度で行けるだろう。
 そんな近くにあるのに、どこよりも遠い場所のように思えた。
 もしかしたら、あそこにジルを捨てた人たちが住んでいるのかもしれない。
 そう思うと、憎らしいような、悲しい感情に支配されそうになる。

「僕は今、実の両親がどこで何をしているのかを知らない。たぶん、調べようと思えばできるんだろうけどね。知らないままのほうが、きっといいと思ったんだ」

 ジルの記憶力ならきっと、両親の顔も名前も覚えているんだろう。
 今はどうかわからなくても、昔住んでいた場所は知っているんだから、足取りをたどっていくことはきっとそれほど難しくない。
 そう知っていて、ジルは調べることなく放置しているらしい。
 単に興味がないのか、今さらだと思っているのか。
 ジルがそう納得しているなら、わたしが言えることは何もない。

「あそこは、僕が生まれた地。僕がそこで生きることを許されなかった地」

 その声は冷え冷えとしていた。
 ジルの目は、睨むような強い視線で、町を見下ろしていた。
 なぜか、ジルが遠くに行ってしまいそうな、そんな不安がおそってきた。
 わたしはジルを引き止めたくて、つないだままだった手をぎゅっと握った。
 それに気づいたジルの瞳が、こちらに向けられる。
 真冬の海みたいな冷たい色がわたしを映し、そこにあたたかな温度が生まれた。
 笑うことを失敗したような表情は、とても人間じみたものだった。

「父も母も、悪人ではなかったと思うよ。子どもに暴力を振るったり、最終的に捨てるくらいだから、善人とは間違っても言えないけど。僕を捨てることに、少なからず葛藤もあったように見えた」

 手をつなぎ直しながら、ジルは話し始めた。
 指と指の間に入り込むぬくもりに、わたしは安心する。
 この手が放されないうちは、ジルはわたしの傍にいるんだ。
 わたしはジルの傍にいてもいいんだ。
 今だけでなく、つらい過去に寄り添うことも、望んでくれているんだ。
 そう思えたから。

「あのころの僕は、子どもらしくない、不気味な子どもだった。この世界に生まれ落ちて、僕は人間というものに興味を持ったんだ。だから観察し続けた。自分も人間だってことに、気がついていなかった。僕は、できの悪い人形みたいな子どもだった」

 過去の自分を客観的にジルは語る。
 感情を抜かして、事実だけを。
 だからこそ余計に、わたしは想像してしまった。
 無表情に両親を、ただじっと観察し続ける幼いジルを。
 それはとても不自然で、とても悲しい姿だった。

「そんな顔をしないで、エステル」

 ジルはそう言ってわたしの頬に手を添える。
 優しいぬくもりに頬をなでられ、気持ちが落ち着いていく。
 わたしはどんな顔をしていたんだろう。
 悲しいと、そう素直に告げることはできない。
 それはわたしが言っていい言葉ではないように思えたから。

「ジルは……ジルベルトは、人形じゃありません」

 だからわたしは、それだけを口にした。
 ジルは人形じゃない、人間だ。
 人と同じように喜び、人と同じように悲しむ、ジルベルトという普通の人間だ。

「そうだね、今の僕は違う。僕を変えたのは施設の人たちや養父母、アレク。そして何より、エステルだよ」

 淡い青緑の瞳が細められて、笑みを作る。
 今のジルがいるのは、わたしの存在があったからだと、ジルは言葉で、表情で、伝えてくれる。

「エステルはたぶん怒るだろうけど、僕は実の両親に捨てられてよかったと思ってる。エステルに出会えたからね。エステルに出会うために必要だったんだと思えば、僕は恨むことなく、感謝すら捧げることができる」

 眼下の町を一瞥して、ジルは正直な心情をこぼす。
 それは開き直りではなく、自分の感情をごまかしているわけでもなく、本心からの言葉のように思えた。
 たしかに、この言葉には少し怒りたくなった。
 被害者であるジルが、どうして感謝するなんて言うんだ、と。
 わたしは、ジルを捨てた両親を、一生許せるとは思えないのに。

 けれどジルの言葉が嘘ではないことは、表情を見ればわかってしまう。
 何を言っても無駄なのだということも、わかってしまう。
 ジルにとっては今さらなことなんだろう。
 両親に捨てられたことも、そのおかげでわたしに会えたのだからかまわない、なんて本気で言ってのけるほどに。

「僕を人間にしてくれたのは、エステルだ」

 やわらかな笑みに、わたしは言葉をなくした。
 ジルは本当に心臓に悪い。
 つながれた手から、頬に添えられた手から、伝わるぬくもり。
 秋の風は冷たいのに、わたしの身体はどんどん熱くなっていくような気がした。
 ジルによって、わたしは茹で上げられる。


 こんなにまっすぐ想いを向けてくる人を、わたしは他に知らない。



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