八十一幕 過ぎ去ってからでも

「わぁ、きれーなにーちゃんとねーちゃんがいるー!」
「王子さまとお姫さまみたい!」

 子どもらしい元気な声が響いて、わたしはそちらに目を向ける。
 数人の五、六歳くらいの子どもと、それを追いかけて部屋に入ってきた十五歳前後の少年がいた。

「こら、おまえたち! すみません、ジルさん」

 少年は最初に声を上げた男の子の頭をつかんでむりやり下げさせ、自分も頭を下げる。
 来るのが一年に一度くらいの頻度でも、ジルのことを覚えているらしい。
 まあ、これだけ目立つ容姿なら当然かもしれない。

「元気なのはいいことだよ。気にしないで」

 微笑んでそう言うジルは、見るからに機嫌が良さそうだ。
 ジルは実は子どもが好きなんだろうか。
 意外な面を見たような気がする。

「なあ、ねーちゃんなんて名前?」
「わたし? エステルよ」
「エステル?」

 男の子がそう口にした瞬間、わたしはジルに引き寄せられ、抱きしめられていた。
 そうしてジルは男の子に向けて、感情の読めない笑みを見せる。

「エシィ、だよ。エステルの名前を呼んでいいのは僕だけだからね」
「ジル、子ども相手に……」
「ジルベルト、でしょ?」

 にっこり。逆らいがたい笑顔に、ジルベルト……と小さくつぶやく。
 それでよし、とばかりにジルは笑みを深くする。
 大人げないジルに、わたしはため息を禁じえなかった。
 もちろん、全部が全部本気ってわけじゃないんだろうけど、全部が冗談っていうわけでもないような気がした。

 子どもたちに連れられて庭に出て、ベンチに座らせてもらう。
 興味津々に近づいてくる子どもたちの話し相手になったり、元気に遊ぶ子どもたちを見守ったり。
 やんちゃがすぎて先生に叱られている子なんかもいた。
 場所や境遇が違っても、ガーデンパーティーで遊ぶ子どもたちとほとんど変わらない。
 平和な光景に、心が和んでいく。

「父はここに定期的に寄付をしている。僕も、それを続けたいと思ってる」

 ジルは子どもたちに目を向けながら、語りだす。
 初耳だけれど、フェルナンドさんなら不思議じゃない。
 きっと、ジルと出会わせてくれたことへの感謝の気持ちも含まれているんだろう。

「楽しい記憶も悲しい記憶も残ってる場所だ。あのころの僕は、それを感じることができなかったけど」
「感じることができなかった?」
「感情というものが理解できていなかったんだろうね。自分の心の動きを捉えられていなかった」

 どういうことだろう、と首をかしげたわたしに、ジルは説明してくれる。
 感情表現の苦手な子ども、と言うにも限度があるような、そんな子どもだったんだろうか。
 わたしには想像することしかできない。

「自分が人であることを正しく認識できたのも、孤児院に来てからだったしね」
「それは……」

 思わず絶句したわたしに、ジルは淡く微笑む。

「狭間の番人の記憶の影響が、強すぎたんだ。今よりもはっきりと覚えていたから、人である自分に違和感があったくらいだった」

 前世と今が入り混じり、どちらが自分かわからなくなる。今とは違う自分を知っているから、違和感を覚える。
 その感覚は、わたしも経験したことのあるものだ。
 でも、ジルはその何倍も複雑だったはず。何しろ前世が人間ではなかったんだから。

「ここで、僕は人というものを知った。他人を知って、初めて自分を認識した」

 普通のことを、普通に認識できずにいた。
 それがどれだけ人間として異常なことなのか、今のジルはわかっているんだろう。
 だから、過去を語りながらほろ苦い笑みをこぼすんだろう。

「他の子たちの真似をすることで、人間らしさを学んでいったんだけど、子どもっていうのは勘が鋭いからね。僕が普通とは違うことにすぐに気づいて、僕は自然と孤立していった。当時の僕は泣きもしなければ笑いもしない、不気味な子どもだったからね。今考えてみれば当然のことだ」

 たしかに当然といえばそうなのかもしれない。子どもというのは純粋で、残酷なものだから。
 けれど本人がそう言いきってしまうのは、とても悲しい。
 どうしようもないことというのは、いくらでもあるんだろうけど。
 それでも、ジルにしあわせというものをあきらめてほしくはなかった。
 もし過去に戻ることができたなら、ここでたった一人、表情に出さずに寂しがっているジルを抱きしめてあげるのに。
 無理だとわかっていても、そう願ってしまうのをやめられない。

「孤児院の先生たちは、みんな優しかった。子どもらしくない僕にも、別けへだてなく接してくれた」

 ジルの視線の先には、ナーディアさんがいた。
 きっと、ナーディアさんだけじゃない。孤児院の大人たちが、ジルに優しさを与えてくれた。
 ジルが優しさを知っているのは、人を愛することを知っているのは、孤児院でジルを慈しんでくれた人たちのおかげだ。

「つらいだけでなかったなら、よかったです」

 それ以外に何が言えるだろう。
 わたしは、ここにいたときのジルを知らない。
 まだ生まれてもいなかったから、会えるわけもない。
 寂しいね、つらいね、と、過去のジルを抱きしめてぬくもりを伝えたくても、できるわけがない。
 そのことが無性に、悔しかった。

「ここは、エステルに出会う前の僕を作ってくれた場所だよ」

 そう言いながら庭を見渡し、孤児院を見上げ。
 それからジルはわたしに向き直る。
 ジルの手がわたしの手を取り、自分の頬にあてがう。
 彼の頬と、重ねられた手から伝わってくる体温に、なぜだかほっとする。

「エステルと出会って僕は変わった。だから、今の僕と、ここで過ごしていたころの僕は違う。でも、今の僕を構成する一部でもある」

 ジルはわたしの手を動かして、自分の頬をなでさせる。
 まるで、自分の形を確認させるように。
 自分のぬくもりを刻みつけるように。

「過去の僕の居場所を、エステルに見てほしかったんだ」

 わたしが今、触れているジルは、二十三歳の、大人になったジル。
 背が伸び、髪も伸び、顔立ちは大人びて。与えられる知識を吸収し、つい先日卿家を継いだ、ジルベルト・イーツミルグ。
 過去のジルに、イーツミルグではないジルに、直接触れることは、絶対にできない。
 それでも、たとえ触れることは叶わなくても。
 過去の彼を垣間見ることくらいなら、過ぎ去ってからでもできるんだろう。
 それを今、ジルは見せてくれているんだ。

「過去のジルベルトを見せてくれて、ありがとうございます」

 わたしは自分の意思で、ジルの頬に触れた。
 片手だけじゃなく両手で包み込んで、微笑みかける。
 ジルの瞳に切なげな色が見えたかと思うと、すぐに笑み崩れた。
 それは本当に、心から満ち足りたような笑顔で。


 そんな表情をさせたのが自分だということが、わたしはすごくうれしかった。






「わ〜、にーちゃんとねーちゃんラブラブしてる〜」
「キスするかなぁ?」
「きゃー! キスなんてはしたない!」
「キスってなぁに?」
「えっとね、仲良しのあかしだよ!」
 なんて、子どもたちが覗き見ながら(あるいはガン見しながら)はしゃいでいることを二人は知らない。

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