八十幕 ただ受け止めること

 道中は、ジルが近況を話してくれたり、わたしからも話を振ったりして、始終和やかな空気だった。
 今さらだけどジルは話し上手で聞き上手だと思う。
 ガーデンパーティーで一緒にいるときなんかも、退屈することはなかったな、と思い出す。
 口説き文句に辟易したことはいくらでもあったけどね。
 顔が良くて頭も良くて、その上一緒にいる人を飽きさせないほどの話術。そりゃあモテるのも当然だ、なんて妙に納得してしまった。

 一時間ほどそんな調子で車を走らせ、着いたのはラニアの中では栄えている街だった。シュア家にほど近い街と同じくらいの規模だろうか。
 車をあずかってもらえる場所に停め、ジルはわたしの手を取ってその街を歩いていく。
 彼の足取りに迷いがないところを見ると、初めて来る街ではないようだ。

「どこに向かっているんですか?」
「もう少しで着くよ」

 ダメ元で尋ねてみても、ジルはそう微笑むだけ。
 仕方なくわたしはジルに手を引かれるままについていく。
 やがて見えてきたのは、民家よりもお店よりも大きな建物。
 まっすぐそこに向かっているから、ジルはその建物に用があるんだろう。

 古めかしいけれど、きちんと維持管理されていることがわかる、大きな建物。
 複数人の子どもの笑い声が聞こえてくるのは、庭からだろうか。
 陽だまりのようなあたたかな雰囲気。
 わたしはすぐに、その建物がなんなのか思い当たった。
 けれどここになんの用があるのかまではわからずに、建物の前で立ち止まったジルをわたしは見上げる。
 ジルは建物を仰ぎ見ながら、細く息を吐いた。
 その海の色の瞳には、懐旧の念が浮かび上がっているように見えた。

「僕が八歳まで育った孤児院だよ。四年ほどだけど、すごくお世話になった」

 少しの沈黙ののち、語られた内容にわたしは目を丸くした。
 ここが、ジルの育った孤児院?
 それはつまり、イーツ家の養子になる前のジルは孤児だったということ。
 八つのときに養子となったことは、ずいぶん前に兄さまに聞いていた。
 それよりも前のことは、誰からも聞いていなかったけれど、普通の家で育ったものだと思っていた。
 優秀な子が請われて公家や卿家の養子になることはめずらしくはないから。
 でも、そうではなかったらしい。
 イーツ家の子どもになる前は、ここが、ジルの家で、ジルの居場所だったんだ。

 驚くわたしにジルは微笑んでみせてから、孤児院の門をくぐって、ノッカーを叩いた。
 中から女性の声が聞こえてきて、少し待っていると戸が開かれた。
 出てきたのは四十代後半くらいの優しそうな女性だった。

「どちら様で……あら、ジルじゃないの! 久しぶりねぇ」
「お久しぶりです、ディア先生」

 どうやら二人は知り合いらしい。
 先生と呼んでいるということは、ジルがここで暮らしていたときからの付き合いなのかもしれない。

「よく来たわねぇ、どうぞ入りなさいな。……後ろの方は?」

 ディア先生と呼ばれた女性は、そう言ってわたしに目を向けてきた。

「僕の大切な女性です」

 ジルは私の肩を抱くようにして、隣に並ばせた。
 紹介の文言に驚いたのはディア先生だけじゃない、わたしもだ。
 でも、ここは家からは距離が離れている場所。ここでなら、隠さなくても問題はないのかもしれない。
 ジルに文句を言うのはあとにして、とりあえずわたしはディア先生に頭を下げた。

「初めまして、エステルと申します」

 初対面の人に対して、名乗るのは基本。でも今は、姓は口にできない。
 その分、わたしは丁寧に頭を下げることにした。

「どうしましょう、こんなにうれしいことってないわ。あのジルが……」

 ディア先生は両手で口元をおおって、なんだか泣きそうな顔をしている。
 どうやらとても感情豊かな人のようだ。
 しわの数だけ優しさにあふれているような、そんな素敵な人に見えた。
 この分だと、わたしがまだ成人もしていない子どもだというのは気づかれていないんだろう。
 前世とは違って年よりも大人びて見られる自分の外見に、今だけは感謝したくなった。

「初めましてエステルさん。私はナーディアよ。あまりかしこまらないでちょうだいね」

 あたたかな笑みを向けられて、わたしもつられて微笑む。
 ディア先生改めナーディアさんは、わたしたちを招き入れ、お茶とお茶菓子を出してくれた。
 遠慮しないジルにならって、わたしもお礼を言ってからいただくことにした。
 ナーディアさんは忙しいらしく、少し雑談をしたのち、他の職員に呼ばれて行ってしまった。
 好きに中を見て回っていいけど、帰るときは一言ちょうだいね、と言い残して。
 お言葉に甘えて、お茶を飲み終わったら孤児院の庭でも見よう、ということになった。

「何度もここには来ているんですか?」
「一年に一度くらいだけどね」

 お茶を飲みながら問いかけると、予想どおりの答えが返ってきた。
 ここに来るまでのジルの慣れた様子や、ナーディアさんの言葉から、八歳のとき以来というわけじゃなさそうだと思っていた。

「ナーディアさん、あたたかな人ですね」

 わたしがそう言うと、ジルはやわらかな笑みを浮かべた。
 まるで自分が褒められたかのような顔。
 こんな表情をジルにさせる人がいるなんて、と驚き、同時にうれしく思った。
 ジルにこんな顔をさせる人は、きっとほとんどいない。
 その中に、たぶんわたしは入れていると思うんだけれど。
 少しだけうらやましいな、と感じてしまうのも素直な気持ちだった。

「そうだね。子どもたちと一緒に笑って、子どもたちのために泣く人だよ」

 ジルの言いようから、彼女のことを誇らしく思っていることが伝わってくる。
 やっぱりナーディアさんは素敵な人だ、と再認識した。

 ここは、過去のジルが過ごしていた場所。
 ナーディアさんは、過去のジルとつながりのある人。
 わたしと会う前のジルに、こんな素敵な出会いがあったことが、わたしはうれしい。

「どうしたの、エステル?」
「いえ、なんでも」

 たぶん自然と笑っていたんだろう。
 不思議そうな顔をして聞いてくるジルに、わたしはそう答えた。
 これは簡単に説明できる感情じゃない。
 ただ、過去のジルが、ここで暮らしていたときのジルが、優しさに包まれていたのだと知ることができて。
 よかった、と心から安堵しただけ。

 それと、もう一つ。
 過去のジルの居場所に連れてきてもらえたということは。
 子どものころのジルの話をもっと聞けるんじゃないかっていう期待が、どうしてもわき上がってきてしまうんだ。
 ジルはあんまり過去のことを話さない。
 それは、わたしが聞かないから、ということもあるのかもしれないけれど。
 養子になることがそれほどめずらしくないとはいえ、どうしても気を使ってしまって、今まで聞けずにいた。
 だから、養子になる前は孤児院で暮らしていたことすら知らなかった。
 もしかして、今なら、ジルの過去に触れても大丈夫なんじゃないか。
 そんなふうに思って、胸がドキドキとしてきてしまうわけだ。

「あの、ジル……ベルト」
「何?」
「ここで暮らしていたときのことを、聞いてもいいですか?」

 単なる好奇心じゃない、とは言いきれない。
 でも、好きな人のことならなんでも知りたい、と思うのは当然の欲求なんじゃないかな。

「……うん、聞いてくれるかな」

 ジルは少し複雑そうな微笑みを見せる。
 それはこれから話す内容が、決して幸福に彩られたものではないと、瞬時に察してしまえるような表情で。
 早まっただろうか、とわたしは不安になる。
 でも、ジルの言い方からすると、彼も話したくてわたしを連れてきたのかもしれない。
 なら、わたしにできることは、ただ受け止めること。
 彼の言葉を。彼の過去を。彼の心を。

 受け止めて、受け入れる。
 彼がわたしにそうしてくれるように。


 大丈夫、できるはずだ。
 わたしはジルが、ジルベルトが大好きなんだから。



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