七十九幕 どこに行くのだとしても

 ジルの誕生日から、早くも半月ほどが過ぎた。
 卿家を継いだばかりのジルはとても忙しいようで、個人的に会う暇なんてまったくなかった。
 ガーデンパーティーでは何度か顔は合わせたものの、そこですら一言二言ほど言葉を交わすくらいしかできなかった。
 どうやらフェルナンドさんが仕事を見ていてくれているらしく、気分的には楽ではありつつも逆にプレッシャーがかかるのだとか。
 そう語るジルは多少顔色は優れなかったものの、ほとんどいつもどおりに見えた。
 彼らしくがんばることができているなら、それでいい。
 時には無理をする必要があることだってある。
 耐えられないほどの無茶をしていないなら、ジルならしばらくすれば勝手をつかむはずだ。
 けろりとした顔をして、これくらいできて当然とばかりに仕事をこなすようになる日も、遠くはないだろう。

 それだけ忙しいものだから、デートの約束も日取りを決めるまでが長かった。
 わたしのほうは比較的融通が利くから、用事がある日だけ除外し、あとはジルの都合のいい日でいい、と伝えておいた。
 そうして一緒に出かける日が決まったのが、つい数日前。
 休みを取るのに多少の無理はしたらしいけれど、この日にしよう、とパーティー中にこっそり告げてきたジルは満面の笑顔だった。
 二人きりになる機会がまったくなかった半月が、やっと報われたような気がした。

 でもって今日はその当日なわけなのですが。
 迎えに来る、と言われたわたしはおとなしく部屋で待っていることもできず、約束の時間の二十分前から玄関をうろうろしていた。

「落ち着きなさいな、エステル」

 そう声をかけてきたのは母さまだ。
 今日、ジルと二人で出かけることは、母さまにはすでに伝えてある。
 父さまにも言うべきか迷ったけど、母さまが「私に任せて」と言ったので、ここは甘えることにした。
 いつも出かけるとき、誰とどこに行くのか、いつごろ帰ってくるのかを伝えておくのは母さまにだけだ。必要だと母さまが判断すれば、父さまにまで話が行く。
 父さまはいつも仕事で部屋にこもっているから、何も言わなければ単に友だちと遊びに行ったものだとでも思うんじゃないかな。
 どう父さまに伝えるのかはわからないけれど、母さまに任せておけば心配はないだろう。

「ねえ母さま、どこか変なところはありませんか?」
「エステルはいつもかわいいわよ」

 自分の姿を見下ろしながら尋ねると、母さまはニコニコ笑顔でそう言った。
 母さま、それは親の欲目です……。
 兄さまにでも聞けば少しは客観的な意見が聞けるのかもしれないけど、兄でありジルの友人である兄さまにデートに着ていく服を確認してもらうというのは、さすがに恥ずかしい。
 たぶん大丈夫なはず、とわたしは自分を励ました。

 人の訪れを知らせる音が鳴り響いたのはそんなときだ。
 いつもなら使用人がドアを開けてお客さんを迎えるんだけど、今ドアの近くにいるのはわたしと母さま。
 しかも誰が訪ねてきたのかわたしは知っている。約束の時間にたまたま他の人が来たのでなければ、だけれど。
 だからわたしは迷うことなくドアを開け、その人を迎え入れた。
 彼はドアを開けたのがわたしだったことに少し驚いた顔をし、それからふんわりと笑った。

「おはよう、エステル」
「……おはようございます」

 家族以外でわたしの名前を呼ぶ、唯一の人。
 ジルに挨拶を返しながらも、自分の頬に熱が集まっていくのがわかる。
 初めてのデート。家まで迎えに来てくれた想い人。
 これで照れない人間がいたら、それは恋というものを知らない人だけだと思う。

「今日もかわいいね。その服も似合ってるよ」

 さらりとジルは褒めてくれた。こういうところは本当にマメだ。
 今日のわたしの服装はクリーム色の膝丈のワンピースに、落ち着いた緑色の厚手のカーディガン。首にはオフホワイトのレース編みのショールを巻いている。
 ガーデンパーティーなんかで着ている服よりも動きやすさを重視し、街に溶け込むために簡素なデザインのものを選んだ。
 お世辞みたいなものだとわかっていても、褒められると悪い気はしないものだ。
 いつもよりも幾分かラフな格好のジルだって格好いいですよ、と言い返すことができればいいんだけど、残念ながらわたしはそこまで素直にはなれない。

「おはようございます。エステルを一日お借りします」
「どうぞ、行ってらっしゃい。コンラートには私から言っておくわ」
「よろしくお願いします。夕食の時間までには必ず帰しますので」
「あらそう、律儀なのね」

 ジルと母さまはにこやかに語らう。
 二人とも笑顔なのに、なんだか静かな攻防戦を見ている気分だ。
 おかしい、この二人に争う要因はないはず。
 気のせいだろうか? とわたしは首をかしげるしかない。

「楽しんでくるのよ、エステル」
「はい、行ってきます」

 こちらを向いた母さまに、わたしも微笑んで答える。
 ジルに手を取られ、そのまま家をあとにした。
 門を出て、どこに向かうのかジルに聞こうとしたところで、見覚えのある車が見えてきた。

「今日は車で移動するよ。バスだと人目もあるからね」

 ジルの言葉にわたしはなるほどと納得した。
 この近辺を通っているバスを使うとなると、顔見知りと出くわす可能性も低くはない。
 その点、車なら周囲の目を気にしなくてすむし、好きなところに行ける。
 いいことだらけというわけです。

「それもそうですね。安全運転でお願いします」
「了解」

 微笑んで答えてから、ジルはわたしを乗せるために車のドアを開けてくれた。
 車に乗り込んだわたしは、初めて乗るジルの車に、つい車内をきょろきょろと見てしまう。
 この世界の車は、前世の車とはところどころ違っている。どこがどう違うのかと聞かれると応えられないけれど。
 技術の違いなのかもしれないし、外国車と日本車の違いなのかもしれない。
 光里も車に詳しかったわけじゃないから、前世でよく乗っていた父親の車とは違う、ということくらいしかわからない。

「シルヴィアさんにはもう話してあるんだね」

 運転席に座ったジルが、こっちに視線を向けて言う。
 少し話しただけで、母さまがわたしたちのことを知っているとわかったらしい。
 相変わらず敏いな、と思いながら、わたしはうなずいた。

「こういう場合、まずは女親を味方にしておくものなんですよ」
「味方になってくれそう?」
「さっきのでわかったでしょう? アンジリーナさんと縁続きになれる日を心待ちにしてましたよ」
「だろうと思った」

 ため息混じりのわたしの言葉に、くすりとジルは笑う。
 あんまり笑いごとじゃないような気がするんだけれども。
 まだ婚約すらしていないのに。それどころかわたしは二ヶ月後にやっと成人するというのに。
 笑ってすませられるジルが少しうらやましい。彼がそんなだからこそわたしがしっかりしないとといけないんだろうか。
 もちろんジルがしっかりしていない、というわけではないけどね。

「ねえ、エステル」

 ジルの声に、わたしは隣に目をやる。
 海の色の瞳と視線が絡む。密室だからか、少しの気恥ずかしさがわき上がった。

「今日一日は、僕のことをちゃんと名前で呼んでほしいんだ」

 思いもよらない提案に、わたしは目を丸くした。
 ちゃんと名前で、ということは、ジルベルトと呼べということだろう。
 それは、わたしたちが特別な関係であることを、周囲に明確に示すことになる。

「……行く場所にもよります」

 慎重に、わたしはそう答えた。
 すげなく却下できるほど、わたしはジルに対して非情にはなれない。
 状況が許すなら名前を呼びたい、と思ってしまうくらいには、わたしはジルのことを想っている。

「エステルを知る人がいない場所。性を名乗りさえしなければ、誰も気づかないよ」

 ジルは淡く微笑む。
 何を考えているのかわからない笑み。
 わたしにすら感情を隠そうとするジルに、少しだけ苦い思いを感じてしまう。

「遠くまで行くんですか?」
「そうだね。エステルが思っているよりは、ずっと遠いと思うよ」

 わたしの問いかけに答えたジルは、どこか遠くを見据えるような目をしていて。
 あいまいな答えに、不満を覚えるよりも先に、不安が胸に広がっていく。
 ジルはわたしをどこに連れて行こうとしているんだろう。
 そこにはいったい何があるというんだろう。
 目的地を教えてくれないのはどうしてなんだろう。
 いくつも浮かび上がってくる疑問を尋ねていいものなのかもわからない。
 せっかくの二人きりでのお出かけなのに、最初からこんなことで大丈夫なんだろうか。

 でも、わたしはもう、決めている。
 これから先を、ジルと一緒に歩んでいくことを。
 それなら、どこに行くのだとしても、わたしはジルについていくだけだ。
 名前を呼んでほしいと言うなら、それを叶えるだけだ。

「わかりました、ジルベルト」

 わたしが彼の名前を口にすると、ジルはうれしそうな笑みを見せる。
 その表情だけは心からのものだとわかるから、不安は少しだけ消えてくれた。

「行こうか、エステル」

 ジルの言葉に、わたしはうなずくことで答えた。


 車が、わたしの知らない場所へと向かって、走り出す。



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