やらなきゃいけないことがあるなら、延ばし延ばしにしていてもいいことは一つもない。
そうわかっていながらも、わたしは現状維持を続けていた。
けれど、今日こそは、覚悟を決めよう。
そこまで気負うことでもないのかもしれないけど、わたしにはそれくらい勇気のいることだった。
「うう……でも、やっぱり……う〜ん」
棚の前で、わたしはうなる。
覚悟を決めたはずなのに、それは簡単に揺らいでしまう。
そんなに難しいことではないはず。ただ、必要なものを取り出すだけ。
その必要なものが、とんでもないものなんだけれども。
できることなら一生そのままにしておきたい、と過去に願ったもの。
けれど今は、そのままにしておくわけにはいかなくなったもの。
ここにそれをしまったときとは、抱いている想いが違う。
わたしは、ジルが好きだ。
その気持ちはもう変えようがないし、変えたくもない。
だから……。
「……よし!」
気合を入れてから、わたしは棚の奥に手を伸ばす。
棚から取り出したのは、大きさの違う三つの箱。
中身は見なくても知っている。ブレスレットとネックレスと髪飾り。
過去にジルからもらった誕生日プレゼント。
わたしはそっと箱を開けてみる。
どれも、数年前に見たときとほとんど変わっていなかった。
少し銀がくもっているような気はするが、磨けば元通りになるだろう。
直射日光を浴びていないことと、棚の中の湿度がそれほど高くなかったことがよかったのかもしれない。
これらを棚の奥にしまったとき、次に目にするのは、ジルの想いに応えられるようになったときだとわかっていた。
一生、取り出すことはないかもしれないとすら考えていた。
けれど今、わたしはジルのことが好きで、ジルの想いに応えたいと思っている。
過去に彼からもらったプレゼントを、手入れしようと思い立つくらいに。
三つのアクセサリーには同じ意匠が使われている。
わたしの瞳と同じ色の宝石でできた、花びらが五枚の花。
それ以外にも共通するところもあって、最初からセットで作られたようにすら見える。
そんなわけがないのは、贈られた年を考えればわかるんだけど。
デザインをそろえられるってことは、間違いなくオーダーメイドということで。
ジルの本気具合に、今さらながらため息をつきたくなる。
わたしはその三つのアクセサリーを、鏡台のところまで持っていく。
アクセサリーの管理や手入れを他の人に任せるほど、わたしは何もできないお嬢さまじゃない。
鏡台の引き出しにしまってあった磨き布を取り出して、くもりが気になるところを磨いていく。
きれいになっていくアクセサリーを見ていると、感慨深くなってくる。
まるで、これを贈られたときのジルの想いを、時を超えて受け取ったかのような。
九歳の誕生日。十一歳の誕生日。十二歳の誕生日。
今よりも子どもだったわたしに向けられた、ジルの想い。
それを目の当たりにしているようで、磨きながらも頬に熱が集まっていくのを感じる。
「あのころから、本気だったなんて……」
子ども同士ならいざしらず、八つも年が離れているのだから、普通なら考えられないことだと思う。
変態だと、ロリコンだと思ってしまうのも仕方のないことだ。
でも、わたしは知ってしまったから。
狭間の番人だったジルの、深すぎる孤独を。焦がれ続けたひかりを。
その想いを否定することなんて、わたしにはできない。
ジルが狭間の番人の記憶に思いを引きずられてしまうのは、仕方のないことなんだろう。
だって、普通の人間なら絶対に耐えられない。
自分以外何も存在しない場所で、永遠にも近い時をただ無為に過ごすだなんて。
前世でも普通の人間だったわたしや兄さまよりも、より強く深く、前世の記憶が根づいてしまっている。
ごく一部の人に執着して、その他のものには興味が薄いのも、それが関係しているのかもしれない。
ジルはとても繊細で、人として危ういところを持っている。
傷つけたくない。彼の心を守りたい。
そのためにわたしは、どうすればいいんだろうか?
こうして彼にもらったアクセサリーを手入れするだけでなく。
ジルにもらった想いそのものを大切にしたいと、わたしは心から思う。
「コンコン。エステル、いる?」
どこか間の抜けた声と共に、扉が開かれた。
ノックの音を真似て口にしたその人は、鏡台の前に座っているわたしに目をとめると、返事を待つことなく部屋に入って来た。
すぐに我に返ったわたしは、出したままのアクセサリーをどうしようか一瞬迷ったけれど、磨き布と一緒に鏡台に置くだけにした。
「あら? そんなアクセサリー、持っていたかしら」
当然、それに気づかないわけない彼女は、不思議そうに首をかしげる。
宝石や銀、意匠から、わたしが自分で買えるような代物ではないと一目で見抜いたんだろう。
わたしは覚悟を決めて、彼女をまっすぐ見据える。
「お話したいことがあるんです、母さま」
「……真面目なお話のようね」
わたしの緊張した様子に気づいたのか、母さまも真剣な表情になる。
母さまが訪ねてきたのは、話があるからあとで部屋に来てほしいと言ってあったからだ。
気を落ち着けようとアクセサリーを磨いていたけれど、これを取り出したのは、他の意味もあったのかもしれない。
この三つのアクセサリーは、これから話すことにも関係しているから。
贈られた彼の想いを、母さまに見せたかったのかもしれない。
母さまとわたしは話をするためにソファに対面して座る。
一つ息をついてから、わたしは口を開く。
「わたし、ジルが好きなんです」
自分と同じ色の瞳を真正面から見ながら、わたしは自分の想いを正直に話した。
初めに話すなら、母さまにしようと思っていた。
ジルとのことは、家と家とのことじゃない。個人的なことだ。だから父さまにはわたしからは言わない。
ジルの友人である兄さまに話すことも考えたけれど、それは照れが勝って無理そうだった。
友だちに話すよりも先に、家族に話しておきたかった。
わたしなりのけじめのようなものかもしれない。
母さまは何度か目をまたたかせ、あらまぁ、とつぶやく。
たいして驚いているように見えないのは気のせいだろうか。
ぎゅっと握った手が緊張で少し汗ばんできた。
「賢い子だと思っていたけれど、そんなところでまで早熟なのね」
感心するように言う母さまに、わたしは苦笑いを浮かべることしかできない。
それだけですか。それだけですませていいんですか。
もっとこう、他に言うことはないのかな。
そんな考えが顔に出ていたんだろう。
母さまは急に表情を改めた。
「もう、決めてしまったのね」
「はい」
「想いを通わせてそれで終わりではないのだと、あなたならわかるわよね」
「はい。その先を、わたしは望んでいます」
迷うことなく、わたしは母さまに言葉を返した。
答えはもう決まっていたから。
わたしは、ジルと共にある未来を望んでいる。
それはきっとつらいことも苦しいこともあるだろう。
ジルはいずれ卿家を継ぐ。わたしはそれを支えられる存在にならなければいけない。
家のことばかりでなく、互いの想いがすれ違うこともあるかもしれない。
それでも、一緒に乗り越えていけたらいい。苦楽を共にできるのは、それだけでしあわせなことだろうから。
前世の自分なら、こんなに早く将来を決めることなんてなかっただろう。
何しろわたしはまだ十四歳。前世なら中学三年生だ。
前世よりも結婚年齢の早い、子どものころに婚約することもめずらしくないこの国で生まれ育ったから。
今のわたしだから、ジルとの未来を考えられる。
そのことがうれしくて、どこか誇らしい。
「なら私は、がんばりなさいとしか言えないわね。あなたの母として、あなたたちの幸せを願っているわ」
ふわりと、母さまはやわらかな笑みを見せてくれた。
もう五十近いのに、その美貌は衰えることを知らない。恐ろしいくらいに。
きれいで、茶目っ気のあるところがかわいらしく、わたしたち子どものことを大切に思ってくれている、自慢の母だ。
「ありがとう、母さま」
わたしは素直にお礼を言うことができた。
反対されることはないだろうとは思っていたけれど、それでも不安はあったらしい。
緊張がほぐれて、肩の力が抜けていく。
「でもそう、やっぱりジルくんなのね。大丈夫よ、コンラートは少しごねるかもしれないけど、ジルくんなら折れるしかないわ。アンジェと縁続きになれるのね〜、うれしいわ」
「母さまがはしゃいでどうするの……」
うきうきとし始めた母さまに、わたしは思わず笑ってしまう。
母さまはジルの養母のアンジリーナさんと仲がいいから、喜ぶのもしょうがないのかもしれないけど。
いくらわたしがそう望んでいると言ったからといって、わたしはまだ成人もしていないのに気が早いと思う。
「もしかして、そのアクセサリーはジルからの?」
鏡台に置かれているものに目をやって、母さまは聞いてきた。
まあ、このタイミングで見覚えのないアクセサリーを手に持っていたら、バレるよね。
「ええ、ずいぶん前にもらったものですが」
「あらあら。私たちが知っているのは一回分なのだけれど。ジルもうまくやったものね」
一回分でも知られていたらうまくやったも何もないと思ったりするのは、わたしだけだろうか。
というか、やっぱり知っていたんだ、父さまと母さま。
そっとしておいてくれたのはうれしいけど、なんだかいたたまれない。
「次は、ちゃんと身につけてあげなさいね」
ふふっと、“次”がいつになるのかわかっているかのように母さまは微笑む。
勝てないなぁとわたしは思った。
「……そのつもりです」
ジルが、想いと共に贈ってくれたなら。
わたしは今度こそ、それを身にまとうことができるんだろう。
ジルに心からの想いを返すことが、できるんだろう。