七十五幕 贈られた想いごと

「エステル、久しぶり」
「……二人きりは、たしかに久しぶりですね」

 ジルの言葉にわたしは苦笑する。
 会うだけなら、数日前にガーデンパーティーで顔を合わせているし、一週間前にも少しだけど話をした。
 二人きりになれる機会は案外少なくて、実を言うと想いを通わせてから初めてのことだけれど。
 まぶしいくらいの笑顔に、どれだけうれしいんだと失笑したくなりつつも、自分も人のことを言えないのでやめておいた。

 今日はジルと兄さまの勉強会の日。
 現在、夕食を我が家で食べることになったジルと二人、わたしの部屋でくつろいでいるところです。
 ……本当は、二人きりで密室はよくないとわかってはいる。
 一応両思いではあるけど、そのことは誰にも秘密にしているし。
 どこから噂が立つかなんてわからないから、用心したほうがいいことはわかっている。
 でも、たまには誰の目も気にしなくてすむような、本当の二人っきり状態を楽しみたいと思ってしまうのは、おかしくないはずだ。

 幸か不幸か、まだわたしは成人前。
 子どもということで多少のことは大目に見てもらえる年だ。
 それを利用しない手はない、というふうに考えるくらいには、わたしは腹黒いらしい。
 早く大人になりたい、と思いながらも自分の年齢を利用できるんだから、ちゃっかりしているなぁと自分でも思う。

「最近忙しそうですね。何かあるんですか?」

 いつも本音でぶつかってくるジル相手ということもあり、探りを入れることなく直球勝負で行く。
 最近、ジルと会う機会が減った、ような気がする。
 という疑惑が確信に変わったのは、勉強会のあとにわたしに会いに来ることが減っていることに気づいたからだ。
 シュア家での勉強会ののち、夕食を一緒に取るかどうか関係なく、ジルはよくわたしに顔を見せに来た。
 それはもう、以前のわたしにしてみればうざったいくらいに。
 なのに今は、わたしに会いに来ることも、シュア家で夕食を共にすることも減っている。

 思い返してみれば、それは両思いになってからではなく、兄さまの誕生日よりも少し前くらいからのことだった。
 最近わたしがジルと会った回数を気にするようになったから、それが発覚したというだけのこと。
 なら、わたしとのあれやこれやは関係なく、別の事情があってのことなんだろう。

「あるといえばある、かな」
「わたしには話せないこと、ですか?」

 あいまいにごまかそうとするジルに、わたしは詰め寄る。
 ソファの隣に座っているジルは、距離を近づけたわたしに苦笑を返した。

「ちゃんと話すよ。だから、もう少し待っていて」

 ずるい、と思った。
 そんな困ったような顔をされたら、これ以上は何も聞けない。
 本当は、思い当たることがないわけじゃない。
 卿家の跡継ぎであるジルが忙しいだなんて、一番可能性の高い理由は子どもにだってわかるようなものだ。
 もし、予想が当たっていたなら。
 たしかにわたしはまだ、口をはさめる立場ではないのかもしれないけれど。
 それでも、秘密にしておくようなことではない、とわたしは思うのに。

「なんだかんだでジルは秘密主義者ですよね。前世のことだって、うっかり口をすべらせなかったら、ずっと隠していたんじゃないですか?」

 不満をそのまま口にすることはできずに、わたしは違う話にすり替えた。
 ジルが狭間の番人だと知れたのは、都にいたときに動揺したジルがこぼした言葉があったからだ。
 それまでそうであると匂わすことすらしなかったんだから、言うつもりはなかったんだろうとわたしは考えていた。

「そうかもしれないね。僕は、ただのジルベルトとしてエステルに見てほしかったから」

 ジルはどこか遠い目をして、そう言った。

「狭間の番人だったことも含めて、ジルはジルです。わたしの中に光里がいるように」

 光里とエステルは別人だけれど、エステルの中に光里は存在している。
 そのことを今さら否定するつもりはないし、否定できるような根拠もない。
 幼いころは自分が二人いるようで不安になったりもしたけれど、今では光里を内包した自分を受け入れている。
 ジルも、そうであってほしいとわたしは思う。

「……うん、そのとおりだ」

 やわらかくて、なぜか泣きそうにも見えるはかない笑み。
 たまに、ジルはそんな表情でわたしを見る。
 彼がどんな思いを抱えているのか、わたしにはわからないけれど、ぎゅっと胸がしめつけられるような心地がした。

「ねえ、名前を呼んでよ」
「ジル、ベルト?」

 急なお願いに戸惑いながらも、彼の名前を素直に口にした。
 狭間の番人には、たぶん名前なんてなかったんだろう。
 名前を呼ぶ、という行為はそれだけで、ジルベルトという人間の存在の証明になるのかもしれなかった。

「もっと」

 ジルの手がわたしをかこうように、ソファの背もたれと肘かけに置かれる。
 逃げ場のなくなったわたしは、ただジルを見上げる。

「ジルベルト」

 わたしが名前を呼ぶと、ジルはふっと微笑んだ。
 背もたれに置かれていた手が、わたしに伸ばされる。
 頬に触れ、軽くあごを持ち上げて、

「ジルベル……っ」

 もう一度呼ぼうとした名前は、ジルの唇に吸い込まれていった。
 ピタリと、呼吸すら逃さないとばかりに合わせられた唇。
 胸がドキドキとうるさいくらいに鳴っている。
 待つという約束に、こういうことは含まれていないんだろうか。
 けれど拒む気も起きずに、わたしは身動きできずにいた。
 今は二人きりだからいいだろう、と自分に言い訳をしながら。

「エステル、愛してる」

 唇を離すと、ジルはわたしをそっと抱きしめた。
 かみしめるように、一音一音を大切にするように言うものだから、何も言葉が出てこなくなった。
 ジルの想いは、深くて重い。
 そのすべてを受け止めることは、まだできていないのかもしれない。
 少しでも、取りこぼしてしまうことのないように。
 少しでも、ジルへ想いを返せるように。
 わたしもジルのことを好きだと伝えるように、背中に回した手に力を込めた。

 どれくらいの時間、そうしていただろう。
 たぶん、たった数分のことなんだろうけれど、静謐で濃厚な空気に、わたしは身じろぎすらできなかった。
 あと三十分もすれば、きっと夕食の準備が整う。
 こうしてゆっくりしていられるのもそう長くはないはずだ。
 何か話し忘れていることはないだろうか、と考え、一つ思い浮かんだことがあった。

「ジル……ベルトは、わたしにプロポーズする気なんですよね」

 わたしの言葉に、ジルはゆっくりと身体を離す。
 その顔には微笑みをたたえている。
 急な質問だったと思うけれど、驚いたり気分を害したりはしていないらしい。

「何? まだ待ってほしい?」
「いえ、確認しただけです」

 ジルに気持ちを伝える前、これからのことは二人で考えていこうと、そう決めた。
 だからこその確認だ。
 ジルがどうするつもりでいるのか、わたしはどうしたいのか。
 それを、一緒に考えていけたらいいと思う。

「許されるなら今すぐにでも。……睨まなくてもわかってるよ。君はまだ成人していないからね」

 眼光を鋭くしたわたしにジルはくすっと笑みをこぼした。
 ジルもわたしの年齢を考えるくらいの常識は持ち合わせていたらしい。
 子ども同士や家同士の婚約ならまだしも、個人にプロポーズするのに成人前というのはいただけない。
 ジルとわたしはそれでなくても八歳も年が離れているんだから、そこのところはしっかりしないと、あらぬ噂が立ったら大変だ。 
 あらぬ噂も何も、ジルが変態でロリコンなのは、事実でしかないんだけれど。

「賢いエステルならわかっているよね。僕がいつ告げようとしているのか」
「……たぶん、そうだろうとは思っています」

 プロポーズをするなら、きっとわたしの十五歳の誕生日だ。
 それ以上は、ジルは待つ気はないだろう。
 約束の有効期限は、わたしが大人になるまでなんだから。

「別に、保留にしてもいいよ。いずれ受けてくれるならね」

 微笑みを崩すことなく告げられた言葉に、わたしは眉を寄せた。
 誕生日にプレゼントを贈ってプロポーズした場合、暗黙の了解というにははっきりとしすぎた決まりがある。
 プレゼントを受け取ってその場で身につければ、承諾。
 受け取るだけで何もしなければ、保留。
 ジルは、わたしにプレゼントを受け取ってもらえるだけでいい、と言ったのだ。
 でも、わたしは……。

「わたしは、ちゃんとジルベルトのことが好きです」

 ジルの瞳をまっすぐ見つめて、わたしは言った。
 彼からの贈り物なら、みんなの見ている中で身につけたい。
 プレゼントと共に贈られた想いごと、きちんと受け取って、想いを返したい。

「うん、わかってる」

 本当だろうか、とわたしは少し疑いたくなった。
 ジルは、わたしの想いを見くびっているような気がする。
 それはたしかに、わたしが幼児のときから続く、どう贔屓目に見ても変態なジルの想いには敵わないかもしれないけれど。
 わたしはジルが、ジルベルトが大好きで、誰よりも大切で、彼をしあわせにしたいと、そう思っているのに。


 想いが全部、そのまま伝わってしまえばいいのに。
 ジルの海の色の瞳を見つめながら、わたしはそんなことを考えていた。



前話へ // 次話へ // 作品目次へ