七十七幕 もっと笑ってくれたなら

 ガーデンパーティーが終わって、人のいなくなったシュア家の庭。
 かたむき始めた日の光を浴びた草木は、キラキラと輝いているように見える。
 きれいだな、と素直に称賛が浮かんでくる。
 四季折々の花々が計算され尽くした配置で咲き誇り、花を引き立てるように生いしげる緑が目に優しい。
 わたしの大好きな、誇りにすら思う、我が家の庭。
 ぼんやりと眺めているだけで、心が満たされていくように感じる。

 もっとも、そう感じるのが庭のおかげだけじゃないことも、わたしはもう知っている。
 わたしの隣には今、ジルがいる。
 ガーデンパーティーが終わっても帰らなかった、お客さま。
 話がしたいと言ったのは彼のほうなのに、一向に口を開こうとしない。
 だから二人でこうして、ベンチに座って庭を眺めているわけなんだけど。
 一緒にいられるだけで、こんなに心が浮き立つだなんて、少し前だったら想像もできなかった。
 庭がきれいに見えるのは、ジルが隣にいるからでもあるんだって、認めざるをえない。

 気持ちを落ち着けるように、わたしは小さく息をつく。
 ジルはわたしに話があると言った。
 けれど二人きりになってからも、ジルは話し出そうとはしない。
 それだけ話しにくいことなんだろうか。

 一つ、思い至ることがないわけじゃなかった。
 ちゃんと話すから、もう少し待っていて、と以前言われたことがある。
 もしそれを今ここで、話すつもりなのだとしたら。
 そしてその内容が、わたしの予想しているものなのだとしたら。
 わたしから話を振ってあげたほうがいいのかもしれない。

「もうすぐジルの誕生日ですね」

 まずは遠回しに、とわたしは話題を選ぶ。
 ジルの誕生日まであと二週間もない。
 庭に向けられていた視線がこちらを向き、ジルは苦笑を浮かべた。

「エステル、名前」
「……ジルベルト、の」

 やっぱり、いまだに慣れない。
 二人きりのときは、といつも思っているんだけれど。
 十年以上も呼び続けていた呼称を変えるというのは、思っていたよりも難しかった。

「そうだね、祝ってくれる?」

 話を戻したジルは、そう聞いてくる。
 その言い方だとわたしがいつも祝ってないみたいだ。
 毎年、誕生日当日やその前後の日に、おめでとうと言っている。
 何か贈りものをしたことはほとんどないけれど、それは別に不義理でもなんでもなく、普通のことだ。

「毎年ちゃんと祝ってるじゃないですか」
「今年は、去年までとは違うからね」

 くすりとジルは微笑んで、わたしの髪を一房手に取った。
 その髪に軽く口づけられて、わたしは出そうになった悲鳴を飲み込む。
 何が去年までと違うのか、わざとジルは行為で示したんだろう。
 そうしてわたしが取り乱すのを見て、心底うれしそうな顔をするんだから、たちが悪い。
 これくらいのことで動揺させられてしまうことに腹が立つけど、どうにもできない。
 ジルを好きになってしまった時点で、わたしの負けなのかもしれない。

「……含みを持ったものじゃなければ、贈るのもやぶさかじゃありません」

 せめてもの反撃に、わたしはそう答えた。
 まだ成人していないのだから、特別な意味のこもった贈りものなんてできるわけがない。
 ジルだってそのことはきちんとわかっているはずだ。

 よくある贈りものといえば、花かお菓子だろうか。
 一般的に、手元に残らないものがいいとされている。
 心ばかりの品ですから、お返しは気にしないでくださいね。という、どこか日本人の感性にも近い考えがそこにはある。
 だから、自分の誕生日にプレゼントをもらったからといって、相手の誕生日に何か贈らなきゃいけないという決まりもない。
 わたしもほぼ毎年ジルに何かしらもらったけれど、わたしからはたった一回、しかも罰ゲームで仕方なく贈ったことしかない。

「なら、花がいいな」

 ジルのリクエストに、わたしは今庭に咲いている花を思い浮かべた。
 キクが見頃ではあるものの、前世での仏花のイメージが強いせいで誕生日に贈りたいとは思えない。
 コスモスはまだぎりぎり咲いているけれど、ジルの誕生日まで保つだろうか。
 おとなしく花屋に行って見繕ったほうがよさそうだ。

「そもそも花を贈るっていうのは求愛の意味を持っていたんだよ。今では祝福や祝賀のイメージが強いけれど」
「聞いたことがあります。誕生日に花を贈る意味が今とは違っていたと」

 時と共にそのものの示す意味合いが変わっていくことは、よくあることだ。
 誕生日にアクセサリーを贈ることがプロポーズの意味を持つのだって、何十代も前の大公さまが起源になっているんだから、それより前にはそんな意味合いはなかったはず。
 日本語だって時代によって言葉の意味が変わったりしていたものね。

「だから、当日には君の想いのこもった花が欲しいな」
「……わかりました」

 期待を込めた瞳に耐えきれず、わたしは渋々ながらうなずいた。
 真っ赤なバラでも贈ればいいんだろうか。たしかに秋バラの季節だけれど。
 さすがにそこまで大胆になれる気はしない。

「もう一つ、望んでもいいなら、欲しいものがあるんだ」
「なんですか?」

 微笑みながらも、どこか緊張した面持ちをしているジルに、わたしは問いかける。
 わたしに贈れるものなら、贈ってあげたいと思う。
 ジルがプレゼントと共に想いをくれたように、わたしも想いを込めて贈りたい。

「次の誕生日に、僕は卿家を継ぐよ」

 なんでもないことのように、ジルは言った。
 その言葉を理解するのに少しの時間を必要とした。
 さぁっと、風が庭を渡る。
 どこからかキンモクセイの香りが届いて、わたしは我に返る。

 卿家を継ぐと、間違いなくジルはそう言葉にした。
 最近のジルの忙しそうな様子に、もしかして、とは思っていたけれど。
 予想はしていたとはいえ、驚かないわけがない。
 まだジルは二十三歳。家を継ぐにしては若い。
 でも、フェルナンドさんの年を考えてみれば、ちょうどいいのかもしれない。
 父さまよりも十歳近く年上のフェルナンドさんは、たしかそろそろ六十になるはず。定年退職というものはこの世界にはないけれど、退役を願っても不思議じゃない。
 ジルは家を継ぐための勉強を終えているんだから、問題はないんだろう。

「ご褒美が欲しい。誕生日に、きちんと卿としてふるまえたなら」
「まだ終わってもいないのに、ご褒美ですか」
「自信はあるからね」

 穏やかに微笑むジルに、気負っている様子はない。
 たしかに彼なら大丈夫だろう。
 ジルの優秀さは兄さまからも父さまからも聞いているし、噂でも知っている。
 都に行ったときにも、リュースが何か言っていたように思う。
 ジルが家を継ぐことに、不安なんてない。
 彼はきちんと、責任を背負える人だ。

「何が欲しいんですか? どうせ、物ではないんでしょう?」
「さすがエステル、よくわかってるね」

 くすくすと、何が面白いのかジルは笑う。
 十年以上も傍にいれば、ジルの物欲の薄さくらい誰だってわかるというものだ。

「エステルの時間を、一日ちょうだい。一緒に行ってほしいところがあるんだ」

 時間……と、わたしは口の中でつぶやく。
 なるほど、物より思い出か。
 想定外だったけれど、ジルらしいリクエストかもしれない。

「デートの約束、ですか?」
「そうだね。ダメかな?」
「断るようなことじゃないでしょう。いいですよ」

 わたしが承諾すると、少し不安そうだったジルはふわりと笑った。
 本当にうれしそうな笑顔。
 そんな顔をされると、もっと喜ばせたくなってしまう。
 もっと笑ってくれたなら、わたしもうれしいんだろうと、そう思えて。
 それでもそんなことを言葉にできるほど、わたしは素直にはなれないから。

「どこに行くつもりなんですか?」

 不言実行、とばかりにデートの内容を探ることにした。

「それは、当日まで内緒」

 ジルは人差し指を口元で立て、何を考えているのかわからない笑みを浮かべた。
 こういう表情をするときは、良からぬことを考えていることが多い。
 大丈夫だろうか、と少しだけ不安になった。

「何か用意とかは?」
「その身一つあれば、充分」

 問いを重ねてみても、望んだ答えは得られず。
 わたしはこれ見よがしにため息をついた。

「……これ以上聞いても答えてくれそうにないですね」

 当日まで内緒、とジルが言うのなら、本当に当日まで教えてくれるつもりはないんだろう。
 言い出したら聞かないのはわかっている。
 事前に準備が必要な場所でもないようだし、ここはわたしが折れるしかない。

「そのとおり。ただ、エステルにとってはあまり楽しい場所ではないかもしれない、かな」

 そう言ってジルは苦笑をこぼす。
 そのどこか複雑そうな表情に、めずらしいな、とわたしは思った。
 表情そのものも、楽しい場所ではないということも。
 わたしが言うのも変かもしれないけれど、ジルはわたしのことが好きだ。
 だから、わたしと一緒に出かけるなら、わたしが楽しめる場所を選びそうな気がした。
 それをわざわざ、あまり楽しい場所ではない、というようなところに連れて行くのなら。
 きっと、ジルにとって思い入れのある場所なんだろう。
 わたしと一緒にそこに行くことに、何か意味があるんだろう。

「それでも、楽しみにしてますから」

 どこに行くのかわからないわたしには、そう言うしかなかった。
 わたしは、ジルが連れて行ってくれるというなら、どこでもいいから。
 ジルと一緒にいるのなら、どこにいたってきっと楽しいから。
 そんな思いを込めて、ジルの瞳を見つめた。

「うん、僕も楽しみだよ」

 海の色の瞳が優しく揺らめく。
 その微笑みに、嘘はないように見えた。
 だから、きっと大丈夫。


 ほんの少しの不安と、期待に、胸が高鳴るのを感じた。



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