夢だったんだろうか、と日が経つごとに、僕は思うようになっていた。
実際に記憶をなぞるように、何度も同じ夢を見て。
名前を呼んでくれた声を、心震えるような口づけを、腕に収まったぬくもりを、たしかに覚えているはずなのに。
それすら思い込みかもしれないと、日に日に不安になっていく。
アレクを理由にでもしてシュア家を訪ねればいいものを、踏ん切りがつかずに。
結局、エステルも招かれているだろうガーデンパーティーの日になるまで、僕は悶々とした気持ちを引きずることになった。
エステルの姿を目に止めた瞬間、期待と不安で胸が壊れそうなほどに鳴るのを感じた。
彼女は、僕をどんな目で見るんだろうか。
いつもと変わらない、困惑と呆れを含んだ瞳?
できることなら、あの時のように、愛しい者を見るような瞳でもう一度僕を映してほしい。
夢ではなかったのだと、信じさせてほしい。
焦がれるような思いでエステルをじっと見ていると、視線に気づいたのか彼女がこちらを向いた。
目と目が合うと、彼女は大きな瞳をさらに見開き、それから。
すべらかな頬が、熟した果実のように染まっていく。
恥じらうように視線がそらされ、けれど再度こちらをちらりと見る。
僕のことを気にしながらも、どうしたらいいのかわからない。
彼女の反応は、そう言っているように僕には思えた。
その反応に後押しされるように、僕はエステルへと近づいていく。
距離が縮まるほどに、エステルの緊張が伝わってくる。
それは僕を厭うゆえのものではなく、むしろその逆。
決して外されない視線と、赤らんだ頬が、彼女の気持ちを教えてくれる。
「こんにちは、エステル」
「……こんにちは、ジル」
正式名を呼ばれなかったことを、少しだけ寂しく思う。
けれど今がガーデンパーティー中で、周りに人がたくさんいることを考えれば、仕方のないことだろう。
もう少しだけ待って、とエステルはあの時も言っていたのだから。
「寝ても覚めても、君のことを想っていたよ。エステルは?」
今までと同じようでいて、少しだけ違う甘い言葉を口に乗せた。
エステルに答えを求めるそれは、不安の現れでもある。
どんな答えが返ってきてもよかった。彼女の反応は、あれが夢ではなかったのだと明確に伝えてくれているから。
それでも、エステルの口から聞きたいと思ってしまったのは、甘えかもしれない。
エステルは湯気が出そうなほどに顔を真っ赤にした。
慣れているはずの口説き文句に、わかりやすいほどに反応してくれるのがうれしい。
胸元で握りしめられた小さな手は、かすかに震えている。
その手の下では、僕と同じように鼓動が早まっているんだろうか。
そうであればどれだけしあわせなことか。
「さすがに、寝ているときは、何も考えられません」
赤い顔のまま、エステルはそう返してくる。
その答えは、『起きているときはジルのことを考えていた』とも取れるもので。
否定するときはいつも容赦のないエステルだから、期待してしまう自分を止められなかった。
「ほんの少しの時間でもエステルが僕のことを考えてくれていたなら、それだけでしあわせだけどね」
僕が微笑んで本心を言葉にすれば、エステルは困ったように眉をひそめる。
エステルの手が、迷うようにさまよい。
そして、僕の袖をそっとつかんだ。
「……少しじゃ、ないです」
目の前にいる僕にしか聞き取れないだろう声で、エステルは告げる。
恋情を宿した瞳。恥じらうように染まった頬。精いっぱいの想いを伝えてくれた唇。
僕は、まだ夢の中にいるような心地だった。
けれど夢は一夜で覚めるものだ。
ならばこれは、正真正銘、夢ではなく現実なんだろう。
エステルは本当に、僕を好いてくれているんだろう。
愛を得ることを、あきらめていたわけではない。
いつかは、その星を宿した瞳を、僕だけに向けてほしいと思っていた。
僕と同じだけの、とまでは言わないから、僕が抱く想いと同質のものを、エステルにも返してほしいと。
それは、夢にも近い希望だった。
いつかは、と願いながら、それが現実になったときのことを想像したことがなかった。
想いを返されるということが、これほどに心を満たしてくれるものなのだと、僕は知らなかった。
この幸福を、どう言い表せばいいのかわからない。
胸にじんわりと広がっていく熱が、僕を灰になるまで燃やし尽くしてしまうのではと思えた。
周囲の目も声も、何も気にならなくなってくる。
ここには彼女と自分しかいないのだと錯覚しそうなほどに、僕には最初からエステルしか見えていない。
「そんな顔をされると、人目も考えずに口づけたくなる」
「やめてください」
半ば本気の言葉に、即座に返ってくる拒否。
こういうところは変わっていない、と僕は苦笑をこぼした。
変わっていないところがあるからこそ、変わった態度が、変わった想いが浮き彫りになってくる。
表情から、まなざしから伝わってくる思慕の情が、僕の胸に熱を灯す。
「わかってるよ。だから、あまりかわいいことは言わないでね」
そうでなければ、自分がどんな行動に出るかわからない。
自制心にはあまり自信がない。
それはエステルにむりやりキスをしてしまったことからも察せられるというものだ。
「いつもどおりでいいよ。そのままのエステルが好きなんだ」
僕はエステルをエスコートして、周りに人の少ない場所の席につかせる。
立ったままで話していては、乱入者が現れる可能性があるから。
ずっとというわけにはいかないだろうけれど、しばらくはエステルの時間を独り占めしたかった。
「いつも、どんなふうにしていたのか……わからなくなってしまって」
膝の上で手を組んで、うつむきながらそう言うエステルは、思わずこの場からさらってしまいたい衝動にかられるほどにかわいい。
彼女の戸惑いさえも、僕への想いから生まれるものであるなら、うれしいと思ってしまうのは不謹慎だろうか。
「周りに、おかしいって思われるかもしれないのに。それは嫌なのに。……いつもどおりが、難しいんです」
伏せられた瞳からは、自分への苛立ちすら感じられる。
自分を制御できないことに困惑しているのだろう。
好きという想いは、しごく簡単に自らの平常心をうばってしまう。身体も、心も、自分の思いどおりにはならない。
長いこと恋に惑わされてきた僕にとっては当たり前のこと。
けれど、忍ぶ恋しかしてこなかったエステルには、初めての経験なのかもしれない。
「好きに言わせておけばいいと思うよ。噂なんてものは、たいていはいい加減なものなんだから」
ガーデンパーティーというのは、よくも悪くも情報の飛び交う場だ。
その情報は玉石混交で、嘘も脚色も混じり放題。
そこから正しい情報を取り捨て選択できる眼が必要となる。
もっとも、嘘とわかっていながらまるで真実のように語る愉快犯も多いのだけれど。
「エステルがしたいようにすればいい。僕の言葉に反応するのが面倒なら、無視したっていいんだ」
「そんなこと……できません」
「エステルは優しいね」
すでにエステルの想いを確信している僕は、今までのように邪険に扱われようと、傷ついたりはしない。
それでも彼女は僕のことを考えてくれている。
元々エステルはお人好しな面があり、どんなに僕のことをうっとうしく思おうと、無視という手段に出ることはなかった。
彼女の気遣いが、自分に向けられる優しさが、うれしくて仕方がない。
「いつもはもっと上手に猫をかぶれるんですよ」
「知ってるよ」
エステルはとても猫っかぶりだ。
愛想笑いはお手のもの。思ってもいない社交辞令もするりと口から出てくる。
それは前世の記憶があり、精神年齢が高いせいもあるだろう。
「……思えば、最初からジルの前では猫なんてかぶれてませんでしたね」
ため息混じりに、エステルはこぼした。
「そうだね。ほとんど僕のせいだろうけど」
「自覚はあったんですね」
じとりとした目が向けられる。
それは恋の相手を見るものにしては、甘さの欠片もないものだった。
その無遠慮なまなざしに、僕は思わず笑った。
「その調子だよ。遠慮しないで文句を言っているほうが、エステルらしい」
「それじゃあわたしがいつも文句ばかり言ってるみたいじゃないですか」
「言わせているのは僕だから、気にしなくてもいいよ」
これでも自分の言動が普通ではないことくらい理解していた。
常識的なエステルが文句を言いたくなるのは当然のこと。
そうわかっていながらも、言動を改めるつもりはまったくもってなかった。
「文句でもなんでも、エステルからもらえるものならうれしいんだ」
心の底から、僕はそう言った。
僕の心には、エステルからもらったものばかりが積み重なっている。
喜怒哀楽。愛おしく思う気持ちに、寂しさ、嫉妬。
エステルといるだけで心が浮き立ち、エステルを想うだけで胸が熱くなる。エステルと会えないときのつらさすら、会えたときの喜びを助長する。
僕を僕たらしめるものはすべて、エステルからもらったものだといっても過言ではないかもしれない。
「……マゾですか」
「エステル限定で、そうかもしれないね」
嫌そうな顔でつぶやくエステルに、僕は笑みを向ける。
その言葉が照れ隠しでしかないことくらい、見ればわかる。
うっすらと染まっている頬に手を伸ばすと、ピクリとエステルは身体を震わせた。
けれど、僕の手を拒むことなく、その目は恥じらいだけを訴えてきている。
「かわいい、エステル」
こぼれ落ちた心の声に、エステルは首まで真っ赤に染め上げた。
かわいい、かわいい、僕のエステル。
愛おしさが込みあげて、言葉にできなくなる。
しあわせをかみしめるように、僕は笑みを深めた。