七十一幕 それ相応の扱い

 唇に降ってきたぬくもりが離れる。
 神さまに愛されていると言われてもうなずけるような整った顔が、すぐ近くにある。
 きれいな、澄んだ海のような瞳が、わたしだけを映している。
 世界に二人しかいないんだと錯覚してしまいそうなほどに、あたりは静かだった。

「真っ赤だね」

 くすりと笑われ、わたしは我に返る。
 ジルの言うとおり、きっと顔は真っ赤なんだろう。のぼせたかのように全身が熱いから。
 恥ずかしくて顔を隠したいのに、ジルはわたしの頬に手を添えたままだ。
 離して、と目線で訴えてみる。言葉にしたら落ち込まれそうな気がしたから。
 ジルはわたしの考えをいつも察してくれるから、大丈夫だろうと思った。
 わたしの予想どおり手は離されて……そのまま抱き寄せられた。
 たしかに顔は隠れたけれど、これでは余計に恥ずかしい。
 だからといって腕の中から逃げる気にもなれず、わたしは仕方なくジルの胸に身体をあずけた。

「夢じゃ、ないんだよね」
「夢じゃありません」

 ジルの独り言のようなつぶやきに、わたしは間髪入れずに答えを返す。

「都合が良すぎて、夢みたいだ」

 ふふっ、とジルは笑みをもらす。
 夢だったら、こんなにドキドキしていない。
 夢だったら、こんなにしあわせを感じたりもしない。
 わたしはそう思うのに、ジルは違うんだろうか?

「……そんなに、わたしの気持ちが信じられませんか?」

 ジルが不安に思うほどに、わたしの想いは伝わっていないんだろうか。
 どうすればジルは信じてくれるんだろう。
 ジルがずっとそうしてきたように、言葉や行動で示せばいいんだろうか。
 それとも、時間をかけて思い続ければいいんだろうか。
 恋心に気づいたばかりのわたしには、わからない。
 わからないけれど、少しでも彼の不安をなくしたくて、ジルの背中に手を回した。
 ピクリと、ジルの身体がかすかに震えた。

「そうじゃない。夢かと思うくらい、うれしいってこと」

 ジルは言いながら、ぎゅっと腕に力を込めた。
 少し強く、でも痛くはないくらいの抱擁。
 それはジルの喜びが伝わってくるようなものだった。

「ねえ、エステルの口から聞きたいな。僕のことが好き?」

 う、やっぱり言わなくちゃダメですか。
 名前を呼ぶ、というのは思いつきにも近い告白の仕方だったけれど、この国ではポピュラーなものだ。
 好きだと言うよりもはっきりと想いが伝わるかな、というのは間違いではなかったと思う。
 でも、それでもジルは言わせたいらしい。

 ええい、女は度胸だ!
 深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
 声が震えないようにと願いながら、わたしは口を開いた。

「……好きです」
「ありがとう。僕も好きだよ」

 小さな小さな声でわたしが告げると、ジルはわたしの耳元で甘い声でささやいた。
 落ち着いた美声に肩が跳ねる。
 それをなだめるように、ジルはまた少し抱きしめる力を強めた。

「ジル、そろそろ離してくれるとありがたいんですが」

 わたしはポンと背中を軽く叩く。
 さすがに、ずっとこの体勢でいるのはいろんな意味でつらい。

「嫌だって言ったら?」
「……人の目もあるかもしれないのに」

 ここはシュア家の庭で、周りにはあまり高い草木はない。
 誰にも話を聞かれないように、と選んだ場所は、周りから見えやすいという欠点があった。
 目に見える範囲に人はいないけど、たとえば屋敷の二階からならここは丸見えのはずだ。

「こうしている姿を誰かに見られるのは、困ることかな?」

 そう言ったジルの声はどこかかたい。
 ああ、まただ。また不安にさせてしまった。

「困りはしないかも、しれませんが……」

 どう言えばいいんだろうか。
 わたしは別に、ジルとのことを秘密の関係にするつもりはない。
 でも、それなりの分別は必要だと思う。
 わたしとジルはまだ婚約もしていなくて、そもそもわたしはまだ成人すらしていない。
 そのことがジルは頭から抜け落ちているような気がした。

「ジル。忘れているかもしれませんが、わたしはまだ十四歳ですよ」
「そうだね。もうすぐ成人する」
「一応、子どもなので、それ相応の扱いをしてほしいんですが」

 わたしの言葉に、ジルは私の顔を覗き込める程度に身体を離した。
 完全に離してくれる気はないらしい。

「それ相応、ね」

 ジルの視線の先には、わたしの唇があった。
 その意味を正確に理解し、わたしはまた体温が上がっていく。
 キスはそれ相応の扱いなのか、とジルは言いたいんだろう。
 それを言われると、痛いというか。
 ジルにわたしの想いを信じてほしかったのと、その場の雰囲気に流されたのと。
 想いが通じ合ってからのキスのやり直しは、必要なことだったんだと思う。思いたい。

「さっきのことは、その、わたしも許しちゃったので無効にします。でも、まだわたしは子どもなんです」

 ごにょごにょと、言葉をにごしながらもなんとか伝える。
 わかってくれるだろうか。
 ジルのことが好きだからこそ、ちゃんとしたいんだ。

「子どもだろうと関係ない。……っていうのは、僕のわがままだよね」

 ジルはつぶやくように言って、それから身体を離す。
 あいてしまった距離が、離れてしまったぬくもりが寂しいなんて、言うことはできない。
 離してと言ったのはわたしのほうなんだから。

「当分はおあずけってことかな」
「……もう少しだけ、待っていてもらえませんか?」
「いいよ、待つ。あと数ヶ月くらいどうってことないよ。元々そういう約束だしね」

 わたしの言いたいことを理解してくれたらしいジルは、笑顔でそう言った。
 その表情は無理をしているようには見えない。
 わたしはジルを我慢させていないだろうか。
 つらい思いをさせてしまってはいないだろうか。
 気になるけれど、それでも譲れないこともあるんだ。

「エステルの気持ちが僕にあるってわかっているんだから、いくらでも待てるよ」

 とろけるような微笑みをジルは浮かべる。
 しあわせだ、とその顔は語っていた。
 無理はしていないのだとわかって、わたしはほっとする。

「いくらでも、は待たせませんから」
「うん」

 これは、もう意味のなくなってしまった二つの約束に変わる、新たな約束。
 期限はわたしが成人するまで。
 その期限が終わる時、わたしとジルの関係は、きっと違うものになっているんだろう。

「その時になったら。エステルのすべてをもらうよ」

 いっそ晴れやかなほどのきれいな笑顔でそう言うジルに。
 わたしの体温は、しばらく冷めることはないだろうと思った。


 これが、恋をしているということなんだろう。



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