唇に降ってきたぬくもりが離れる。
神さまに愛されていると言われてもうなずけるような整った顔が、すぐ近くにある。
きれいな、澄んだ海のような瞳が、わたしだけを映している。
世界に二人しかいないんだと錯覚してしまいそうなほどに、あたりは静かだった。
「真っ赤だね」
くすりと笑われ、わたしは我に返る。
ジルの言うとおり、きっと顔は真っ赤なんだろう。のぼせたかのように全身が熱いから。
恥ずかしくて顔を隠したいのに、ジルはわたしの頬に手を添えたままだ。
離して、と目線で訴えてみる。言葉にしたら落ち込まれそうな気がしたから。
ジルはわたしの考えをいつも察してくれるから、大丈夫だろうと思った。
わたしの予想どおり手は離されて……そのまま抱き寄せられた。
たしかに顔は隠れたけれど、これでは余計に恥ずかしい。
だからといって腕の中から逃げる気にもなれず、わたしは仕方なくジルの胸に身体をあずけた。
「夢じゃ、ないんだよね」
「夢じゃありません」
ジルの独り言のようなつぶやきに、わたしは間髪入れずに答えを返す。
「都合が良すぎて、夢みたいだ」
ふふっ、とジルは笑みをもらす。
夢だったら、こんなにドキドキしていない。
夢だったら、こんなにしあわせを感じたりもしない。
わたしはそう思うのに、ジルは違うんだろうか?
「……そんなに、わたしの気持ちが信じられませんか?」
ジルが不安に思うほどに、わたしの想いは伝わっていないんだろうか。
どうすればジルは信じてくれるんだろう。
ジルがずっとそうしてきたように、言葉や行動で示せばいいんだろうか。
それとも、時間をかけて思い続ければいいんだろうか。
恋心に気づいたばかりのわたしには、わからない。
わからないけれど、少しでも彼の不安をなくしたくて、ジルの背中に手を回した。
ピクリと、ジルの身体がかすかに震えた。
「そうじゃない。夢かと思うくらい、うれしいってこと」
ジルは言いながら、ぎゅっと腕に力を込めた。
少し強く、でも痛くはないくらいの抱擁。
それはジルの喜びが伝わってくるようなものだった。
「ねえ、エステルの口から聞きたいな。僕のことが好き?」
う、やっぱり言わなくちゃダメですか。
名前を呼ぶ、というのは思いつきにも近い告白の仕方だったけれど、この国ではポピュラーなものだ。
好きだと言うよりもはっきりと想いが伝わるかな、というのは間違いではなかったと思う。
でも、それでもジルは言わせたいらしい。
ええい、女は度胸だ!
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
声が震えないようにと願いながら、わたしは口を開いた。
「……好きです」
「ありがとう。僕も好きだよ」
小さな小さな声でわたしが告げると、ジルはわたしの耳元で甘い声でささやいた。
落ち着いた美声に肩が跳ねる。
それをなだめるように、ジルはまた少し抱きしめる力を強めた。
「ジル、そろそろ離してくれるとありがたいんですが」
わたしはポンと背中を軽く叩く。
さすがに、ずっとこの体勢でいるのはいろんな意味でつらい。
「嫌だって言ったら?」
「……人の目もあるかもしれないのに」
ここはシュア家の庭で、周りにはあまり高い草木はない。
誰にも話を聞かれないように、と選んだ場所は、周りから見えやすいという欠点があった。
目に見える範囲に人はいないけど、たとえば屋敷の二階からならここは丸見えのはずだ。
「こうしている姿を誰かに見られるのは、困ることかな?」
そう言ったジルの声はどこかかたい。
ああ、まただ。また不安にさせてしまった。
「困りはしないかも、しれませんが……」
どう言えばいいんだろうか。
わたしは別に、ジルとのことを秘密の関係にするつもりはない。
でも、それなりの分別は必要だと思う。
わたしとジルはまだ婚約もしていなくて、そもそもわたしはまだ成人すらしていない。
そのことがジルは頭から抜け落ちているような気がした。
「ジル。忘れているかもしれませんが、わたしはまだ十四歳ですよ」
「そうだね。もうすぐ成人する」
「一応、子どもなので、それ相応の扱いをしてほしいんですが」
わたしの言葉に、ジルは私の顔を覗き込める程度に身体を離した。
完全に離してくれる気はないらしい。
「それ相応、ね」
ジルの視線の先には、わたしの唇があった。
その意味を正確に理解し、わたしはまた体温が上がっていく。
キスはそれ相応の扱いなのか、とジルは言いたいんだろう。
それを言われると、痛いというか。
ジルにわたしの想いを信じてほしかったのと、その場の雰囲気に流されたのと。
想いが通じ合ってからのキスのやり直しは、必要なことだったんだと思う。思いたい。
「さっきのことは、その、わたしも許しちゃったので無効にします。でも、まだわたしは子どもなんです」
ごにょごにょと、言葉をにごしながらもなんとか伝える。
わかってくれるだろうか。
ジルのことが好きだからこそ、ちゃんとしたいんだ。
「子どもだろうと関係ない。……っていうのは、僕のわがままだよね」
ジルはつぶやくように言って、それから身体を離す。
あいてしまった距離が、離れてしまったぬくもりが寂しいなんて、言うことはできない。
離してと言ったのはわたしのほうなんだから。
「当分はおあずけってことかな」
「……もう少しだけ、待っていてもらえませんか?」
「いいよ、待つ。あと数ヶ月くらいどうってことないよ。元々そういう約束だしね」
わたしの言いたいことを理解してくれたらしいジルは、笑顔でそう言った。
その表情は無理をしているようには見えない。
わたしはジルを我慢させていないだろうか。
つらい思いをさせてしまってはいないだろうか。
気になるけれど、それでも譲れないこともあるんだ。
「エステルの気持ちが僕にあるってわかっているんだから、いくらでも待てるよ」
とろけるような微笑みをジルは浮かべる。
しあわせだ、とその顔は語っていた。
無理はしていないのだとわかって、わたしはほっとする。
「いくらでも、は待たせませんから」
「うん」
これは、もう意味のなくなってしまった二つの約束に変わる、新たな約束。
期限はわたしが成人するまで。
その期限が終わる時、わたしとジルの関係は、きっと違うものになっているんだろう。
「その時になったら。エステルのすべてをもらうよ」
いっそ晴れやかなほどのきれいな笑顔でそう言うジルに。
わたしの体温は、しばらく冷めることはないだろうと思った。
これが、恋をしているということなんだろう。