七十幕 ジルベルト

 勉強会が終わるだいたいの時間は、前もって兄さまから聞いておいた。
 その時刻よりも余裕を持って、わたしはジルを捕まえるために玄関で待ち伏せしていた。
 部屋の前と迷ったけど、そのあとの移動のことを考えてこっちを選んだ。
 やがて、足音と共に姿を表したジルは、わたしを見て少しだけ目を見張った。

「逃げないでくださいね」

 すかさず、わたしはジルに向けてそう言った。
 何しろジルには前科があるんだから。
 二年と少し前、都で色々あったあとに、ジルは徹底的にわたしを避けた。
 それはジルが熱を出して寝こむまで続いたんだから、今回もそうなってもおかしくないと思っていた。

「逃げないよ」
「本当ですか?」

 念入りに確認するわたしに、ジルはかすかな笑みを見せた。
 よかった、怒りはもう治まっているようだ。
 これならきちんと話せるかもしれない。

「逃げたいな、と思わなくもなかったんだけど。そうしたら二年前から成長していないことになるし、今回は君から会いに来てくれるとはかぎらなかったし、ね」
「……来ちゃいましたけど」
「そうだね、驚いた。てっきり君にはもう少し時間が必要かと思ってたよ」

 その言いようからすると、逃げるつもりはなかったけど、しばらく距離を置くつもりはあったらしい。
 時間はたしかに必要だった。自分を落ち着けるために。
 だからこそあの日はパーティー会場に戻らなかったんだし、ジルもそのことは薄々気づいているはずだ。
 もっとも、わたしが自分の想いを自覚したことまでは、知らないだろうけど。

「場所を移しましょう」

 わたしはそう告げて、玄関から外に出た。
 誰にも話の内容を聞かれる心配のないところというのは、案外少ない。
 一番安全なのはわたしの部屋だけど、もうすぐ成人する身で男性を部屋に誘うのはあまりよろしくない。
 なら庭の視界の開けた場所ならいいだろうと、それもあってわたしは玄関で待ち伏せしていたのだ。
 おとなしくわたしのあとをついてくるジル。
 隣に並ばないのは、ジルなりにこの間のことを反省しているからだろうか。
 それとも単に、今のわたしとの距離感をつかみかねているんだろうか。

「何か、言うことはないんですか?」

 周りには低い草花しかない場所で、わたしはジルに問いかけた。
 数日前のことを言っているのだと、ジルになら伝わるだろう。

「謝ってほしい?」

 わざとなのか、怒りをあおるような聞き方に、わたしはむっとしてしまう。

「ジルのしたことは、許されないことです。それくらいはわかっているでしょう」
「わかっているよ。それでも、謝りたくないと言ったら、君は怒る?」

 一応、悪いとは思っているらしい。
 その上で謝りたくないのだと言うジルに、わたしは困惑する。
 どうして謝りたくないんだろうか。
 謝って、そこで終わりにしたくないから?
 そんな考えがふと浮かんでくる。

 あの時、わたしは勝手なことを言って、きっとジルを傷つけてしまったんだと思う。
 だからといって、むりやりキスしたことを正当化できるわけじゃない。
 それはジルもわかっているはず。
 なのに謝りたくないというのは、謝ることで問題を解決させたくないから。
 そこにある、もっと根本的な問題を、わたしに見てほしいから。
 そういうことなのかもしれない。

 本当に自分は謝ってほしいんだろうか。
 それよりも、もっと欲しい言葉があるんじゃないだろうか。
 謝罪よりも大切なことが、あったはずだ。

「……どうして、キスしたんですか?」

 疑問は、自然と口からすべり落ちた。
 待たないでと言ったとき、ジルは身をかたくしていた。
 言われたくなかったことなのだと、今ならわかる。
 どうして、それほどに動揺したのか。どうして、口づけという行為におよんだのか。
 謝ってもらうよりも、その答えを知りたかった。

「なんでもいいから、君に刻みつけたかったんだ」

 ジルの微笑みは、どこかはかなげだった。

「待たないでって、君は言った。それって、君への想いを捨てろってことと同じだよね。そんなことができるわけない。捨てられるほどの想いじゃないんだって、君に知らしめたかった」

 あの時の言葉を重く受け止めていたジルに、わたしは面食らった。
 そこまで深くは考えていなかった。
 ただ、待たせていることがとてつもない罪悪のように思えたのだ。
 キープくんという、自分にとって都合のいい存在にジルをしてしまっていたのだと、自分がひどく卑しく感じられて。
 衝動のままにジルに言葉を投げかけた。
 その結果があの口づけだったのだとしたら、なんというすれ違いだろう。

「エステル、僕は君が好きだよ。この気持ちは一生変わらない」

 海の色の瞳が、射るようにわたしを見つめている。
 まっすぐ向けられる想いが、熱量を持ってわたしの胸に押し寄せる。
 ジルが好きなのだと自覚してからの、初めての告白。
 今まで経験したことがないくらい、鼓動が早鐘を打つ。
 ジルにまで聞こえてしまうんじゃないだろうかと、変なことが気になった。

「簡単に、一生だなんて言わないでください」
「簡単じゃないんだけどね」

 目を合わせていられなくて、わたしはうつむく。
 ジルが息をついた気配がした。

「ジルがそんなだから、わたしは……」

 ジルに甘えてしまうのに。
 それを、悪くないと、心地いいと思えるようになってしまったのに。
 自覚した想いをなかったことにはできない。
 覚悟を決めないといけない。
 わたしは勢いよく顔を上げる。

「エステル?」

 わたしの様子がいつもと違うことに気づいたのか、ジルが不思議そうにわたしの名前を呼ぶ。
 そうだ、とわたしは気づく。
 この想いを伝えるのに、一番いい方法があるじゃないか。
 それは過去何度かジルに提案されて、冗談じゃないとつっぱねてきたこと。
 今なら、呼べる。

「ジルベルト……」

 想いを込めて、彼の名前を。
 目と目を合わせて、しっかりと。
 声は震えてしまっていたかもしれない。ささやくような小さな声になってしまったかもしれない。
 それでも、ジルの耳には届いたはずだ。

「……え」

 ジルの目が大きく見開かれる。

「ジルベルト」

 もう一度、今度はちゃんとした声の大きさで。
 聞き間違いではないんだと、わかるように。
 音に込めた想いを、受け取ってもらえるように。

「待って、エステル。それはどういう意味で……どんな思いを込めて、呼んでいるの? 言ってくれないと、都合のいいように解釈したくなる」

 焦っているようにいつもより早口なジル。
 めずらしい様子に、動揺してくれているのだとわかって、うれしくなる。

「わかりませんか?」

 問いかけながらも、わたしの胸はバクバクと鳴っている。
 ジルの想いは知っている。
 ジルがわたしが想いを返すことを待っているのだと知っている。
 それでも、告白というのは緊張するものだ。
 大きな期待と、ほんの少しの不安。
 わたしはきちんとジルに想いを伝えられているだろうか。
 ジルはわたしの想いを受け取ってくれるんだろうか。

「僕が、エステルと呼ぶのと同じだと。同じだけの想いを向けてくれているんだと。そう、思ってもいいの?」

 おそるおそる、といった様子で、ジルは確認する。
 その言葉に、わたしはこくんとうなずいた。
 ジルの頬が赤く染まっていくことに、喜びを感じる。
 正直、ジルと同じだけの想いを抱いているのかは、あまり自信はない。
 何しろわたしはまだ自覚したばかりで、対するジルの想いは年季が入っている。
 それでも好きだという気持ちは嘘ではないし、ジルと同じくらいの想いを返せるようになれればとも思っている。
 きっと、それでいいんだと思う。

「……夢でも見ているのかな」
「人の一世一代の告白を、勝手に夢にしないでください」

 口元を手でおおいながら、二年前に見舞いに行ったときと同じようなことを言うジルに、わたしも同じ言葉を返した。
 一世一代の告白というには、言葉足らずだったのは否めないけれど。
 それでも、ジルへの想いを伝えようと努力したつもりだ。

「触れてもいい? 夢ではないと確かめたいんだ」

 いまだに赤い顔のまま、ジルはそう言ってきた。
 夢だなんて本気でそう思っているんだろうか。
 それほどに、わたしの想いは信じがたいものなんだろうか。
 不安があるのなら、それを取り除いてあげたい。
 ジルが、わたしを甘やかしてくれるように。
 わたしもジルに優しくしたい。

「どうぞ」

 わたしは自分から一歩、ジルに近づいた。
 ジルの手がわたしの髪をすき、それから頬にそっと触れる。
 うぶ毛をなぜるような感触はくすぐったく、思わず肩をすくませる。
 親指が、わたしの唇をなぞった。
 数日前のキスを思い出して、頬が熱くなってくる。
 そのことに気づいたのか、ジルが微笑む。
 それは本当にうれしそうなもので、わたしの心まであたためられる。

「キスをしても、許される?」

 吐息のようなその言葉に。
 わたしは目を伏せることで、答えた。


 二度目の、触れるだけの口づけは、わたしにしあわせという言葉の意味を教えてくれた。



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