勉強会が終わるだいたいの時間は、前もって兄さまから聞いておいた。
その時刻よりも余裕を持って、わたしはジルを捕まえるために玄関で待ち伏せしていた。
部屋の前と迷ったけど、そのあとの移動のことを考えてこっちを選んだ。
やがて、足音と共に姿を表したジルは、わたしを見て少しだけ目を見張った。
「逃げないでくださいね」
すかさず、わたしはジルに向けてそう言った。
何しろジルには前科があるんだから。
二年と少し前、都で色々あったあとに、ジルは徹底的にわたしを避けた。
それはジルが熱を出して寝こむまで続いたんだから、今回もそうなってもおかしくないと思っていた。
「逃げないよ」
「本当ですか?」
念入りに確認するわたしに、ジルはかすかな笑みを見せた。
よかった、怒りはもう治まっているようだ。
これならきちんと話せるかもしれない。
「逃げたいな、と思わなくもなかったんだけど。そうしたら二年前から成長していないことになるし、今回は君から会いに来てくれるとはかぎらなかったし、ね」
「……来ちゃいましたけど」
「そうだね、驚いた。てっきり君にはもう少し時間が必要かと思ってたよ」
その言いようからすると、逃げるつもりはなかったけど、しばらく距離を置くつもりはあったらしい。
時間はたしかに必要だった。自分を落ち着けるために。
だからこそあの日はパーティー会場に戻らなかったんだし、ジルもそのことは薄々気づいているはずだ。
もっとも、わたしが自分の想いを自覚したことまでは、知らないだろうけど。
「場所を移しましょう」
わたしはそう告げて、玄関から外に出た。
誰にも話の内容を聞かれる心配のないところというのは、案外少ない。
一番安全なのはわたしの部屋だけど、もうすぐ成人する身で男性を部屋に誘うのはあまりよろしくない。
なら庭の視界の開けた場所ならいいだろうと、それもあってわたしは玄関で待ち伏せしていたのだ。
おとなしくわたしのあとをついてくるジル。
隣に並ばないのは、ジルなりにこの間のことを反省しているからだろうか。
それとも単に、今のわたしとの距離感をつかみかねているんだろうか。
「何か、言うことはないんですか?」
周りには低い草花しかない場所で、わたしはジルに問いかけた。
数日前のことを言っているのだと、ジルになら伝わるだろう。
「謝ってほしい?」
わざとなのか、怒りをあおるような聞き方に、わたしはむっとしてしまう。
「ジルのしたことは、許されないことです。それくらいはわかっているでしょう」
「わかっているよ。それでも、謝りたくないと言ったら、君は怒る?」
一応、悪いとは思っているらしい。
その上で謝りたくないのだと言うジルに、わたしは困惑する。
どうして謝りたくないんだろうか。
謝って、そこで終わりにしたくないから?
そんな考えがふと浮かんでくる。
あの時、わたしは勝手なことを言って、きっとジルを傷つけてしまったんだと思う。
だからといって、むりやりキスしたことを正当化できるわけじゃない。
それはジルもわかっているはず。
なのに謝りたくないというのは、謝ることで問題を解決させたくないから。
そこにある、もっと根本的な問題を、わたしに見てほしいから。
そういうことなのかもしれない。
本当に自分は謝ってほしいんだろうか。
それよりも、もっと欲しい言葉があるんじゃないだろうか。
謝罪よりも大切なことが、あったはずだ。
「……どうして、キスしたんですか?」
疑問は、自然と口からすべり落ちた。
待たないでと言ったとき、ジルは身をかたくしていた。
言われたくなかったことなのだと、今ならわかる。
どうして、それほどに動揺したのか。どうして、口づけという行為におよんだのか。
謝ってもらうよりも、その答えを知りたかった。
「なんでもいいから、君に刻みつけたかったんだ」
ジルの微笑みは、どこかはかなげだった。
「待たないでって、君は言った。それって、君への想いを捨てろってことと同じだよね。そんなことができるわけない。捨てられるほどの想いじゃないんだって、君に知らしめたかった」
あの時の言葉を重く受け止めていたジルに、わたしは面食らった。
そこまで深くは考えていなかった。
ただ、待たせていることがとてつもない罪悪のように思えたのだ。
キープくんという、自分にとって都合のいい存在にジルをしてしまっていたのだと、自分がひどく卑しく感じられて。
衝動のままにジルに言葉を投げかけた。
その結果があの口づけだったのだとしたら、なんというすれ違いだろう。
「エステル、僕は君が好きだよ。この気持ちは一生変わらない」
海の色の瞳が、射るようにわたしを見つめている。
まっすぐ向けられる想いが、熱量を持ってわたしの胸に押し寄せる。
ジルが好きなのだと自覚してからの、初めての告白。
今まで経験したことがないくらい、鼓動が早鐘を打つ。
ジルにまで聞こえてしまうんじゃないだろうかと、変なことが気になった。
「簡単に、一生だなんて言わないでください」
「簡単じゃないんだけどね」
目を合わせていられなくて、わたしはうつむく。
ジルが息をついた気配がした。
「ジルがそんなだから、わたしは……」
ジルに甘えてしまうのに。
それを、悪くないと、心地いいと思えるようになってしまったのに。
自覚した想いをなかったことにはできない。
覚悟を決めないといけない。
わたしは勢いよく顔を上げる。
「エステル?」
わたしの様子がいつもと違うことに気づいたのか、ジルが不思議そうにわたしの名前を呼ぶ。
そうだ、とわたしは気づく。
この想いを伝えるのに、一番いい方法があるじゃないか。
それは過去何度かジルに提案されて、冗談じゃないとつっぱねてきたこと。
今なら、呼べる。
「ジルベルト……」
想いを込めて、彼の名前を。
目と目を合わせて、しっかりと。
声は震えてしまっていたかもしれない。ささやくような小さな声になってしまったかもしれない。
それでも、ジルの耳には届いたはずだ。
「……え」
ジルの目が大きく見開かれる。
「ジルベルト」
もう一度、今度はちゃんとした声の大きさで。
聞き間違いではないんだと、わかるように。
音に込めた想いを、受け取ってもらえるように。
「待って、エステル。それはどういう意味で……どんな思いを込めて、呼んでいるの? 言ってくれないと、都合のいいように解釈したくなる」
焦っているようにいつもより早口なジル。
めずらしい様子に、動揺してくれているのだとわかって、うれしくなる。
「わかりませんか?」
問いかけながらも、わたしの胸はバクバクと鳴っている。
ジルの想いは知っている。
ジルがわたしが想いを返すことを待っているのだと知っている。
それでも、告白というのは緊張するものだ。
大きな期待と、ほんの少しの不安。
わたしはきちんとジルに想いを伝えられているだろうか。
ジルはわたしの想いを受け取ってくれるんだろうか。
「僕が、エステルと呼ぶのと同じだと。同じだけの想いを向けてくれているんだと。そう、思ってもいいの?」
おそるおそる、といった様子で、ジルは確認する。
その言葉に、わたしはこくんとうなずいた。
ジルの頬が赤く染まっていくことに、喜びを感じる。
正直、ジルと同じだけの想いを抱いているのかは、あまり自信はない。
何しろわたしはまだ自覚したばかりで、対するジルの想いは年季が入っている。
それでも好きだという気持ちは嘘ではないし、ジルと同じくらいの想いを返せるようになれればとも思っている。
きっと、それでいいんだと思う。
「……夢でも見ているのかな」
「人の一世一代の告白を、勝手に夢にしないでください」
口元を手でおおいながら、二年前に見舞いに行ったときと同じようなことを言うジルに、わたしも同じ言葉を返した。
一世一代の告白というには、言葉足らずだったのは否めないけれど。
それでも、ジルへの想いを伝えようと努力したつもりだ。
「触れてもいい? 夢ではないと確かめたいんだ」
いまだに赤い顔のまま、ジルはそう言ってきた。
夢だなんて本気でそう思っているんだろうか。
それほどに、わたしの想いは信じがたいものなんだろうか。
不安があるのなら、それを取り除いてあげたい。
ジルが、わたしを甘やかしてくれるように。
わたしもジルに優しくしたい。
「どうぞ」
わたしは自分から一歩、ジルに近づいた。
ジルの手がわたしの髪をすき、それから頬にそっと触れる。
うぶ毛をなぜるような感触はくすぐったく、思わず肩をすくませる。
親指が、わたしの唇をなぞった。
数日前のキスを思い出して、頬が熱くなってくる。
そのことに気づいたのか、ジルが微笑む。
それは本当にうれしそうなもので、わたしの心まであたためられる。
「キスをしても、許される?」
吐息のようなその言葉に。
わたしは目を伏せることで、答えた。
二度目の、触れるだけの口づけは、わたしにしあわせという言葉の意味を教えてくれた。