六十七幕 口と口がぶつかったような

 それは、わたしにとってたしかに、衝撃的だった。

「あなたがいるから、ジルが他の女性に目を向けないんだわ。はっきりしないくせにどうしてジルと一緒にいるの? いざというときの保険にでもするつもり?」

 わかりやすい感情論。自分本位の言葉選び。
 普段のわたしだったらたいして気にかけることもなかった。
 この程度は何度か言われたこともあるし、今さらだ。
 でも……このとき、わたしは少しだけ動揺してしまった。
 もちろんそれは顔には出ていなかっただろうけど。

「ジルは……ジルベルトは、あなたのものじゃないのに!」

 叫ぶような言葉に、本当にこの人はジルのことが好きなんだな、と他人事のような感想が浮かんだ。
 でも、本人の断りもなく名前を呼ぶのはいけないと思う。
 ジルが聞いたら絶対零度の微笑みを返されるんじゃないかな、きっと。
 とはいえ彼だって、わたしの許可なしに名前で呼んでいるんだけども。

 言いたいことだけを言って、彼女はその場を去っていった。
 それが賢明だ。この場を誰かに見られたら、あらぬことを噂される。
 世間の目というのは一般的に、年下に対して甘くなる。成人前ともなれば、特に。
 わたしのほうも、かわいそうに、という目で見られるのはご勘弁願いたい。
 だから、誰にも見られずにすむように、というのはわたしにとっても気が楽だ。
 すぐにパーティーに戻る気にもなれず、わたしはため息を一つついて、反対の方向に歩き出した。

 よくある片思い。よくある嫉妬。よくある八つ当たり。
 言葉にしてしまえばそれだけのことだ。
 ジルは白馬に乗った王子さまのように外見はいいし、なんだかんだで愛想も悪くない。
 もちろんそれは猫を何匹もかぶっているからなんだけど、そのことに気づくのはわたしや兄さまや、数人の友人だけ。
 物腰穏やかな美青年とくれば、当たり前ながらモテないわけがない。
 その彼がこんな子どもにばかりちょっかいかけているということを、面白くないと感じるのは一人や二人じゃなかった。

 今までも、さっきみたいに直接言われたことは何度かある。
 遠回しな嫌味ならいくらでも経験ずみ。
 エレさんが防波堤の役割を担ってくれているとはいえ、そういったものが完全になくなるということはなく。
 子ども相手に大人げない、なんて恋に忠実な女性の頭にはないらしい。まあその言い訳が通じるのもあと数ヶ月のことなんだから当然かもしれない。
 実害はないので適当に受け流してきていたんだけれども、今回は少し、困ったことになった。

『いざというときの保険にするつもり?』

 動揺させられた言葉は、それだった。
 ジルに想いを返すことなく、また決定的に拒むこともしないわたしの態度は、そう見られてもおかしくないのかもしれない。
 もちろん、わたしにそのつもりはない。
 けど、そのつもりがなくてもやっていることは変わらない。
 わたしは知らないうちに、ジルをキープくん状態にしていたわけだ。

 ……違う。わたしはまだ、答えを見つけられていないだけ。それに、先に待つって言ったのはジルのほうだ。
 そうわかってはいても、なんだか言い訳のようにも聞こえてしまって。
 もやもやとしたものが残るのを感じる。

「エステル?」

 その聞き覚えのある声に、わたしは一瞬固まる。
 振り返ればそこには、いつもと変わらないジルがいた。
 ガーデンパーティーが始まったときには、まだジルは来ていなかった。
 だからこそ彼女はジルに見つからずにわたしを捕まえることができたんだけど。
 パーティーを抜けている間に、ジルも到着していたらしい。
 なんてタイミングの良さなんだろうか。

「姿が見えなかったから探しに来たんだ。……どうかした?」

 海の色の瞳が心配そうに細められる。
 気遣いしか浮かんでいない瞳に、わたしは罪悪感がわき上がってくる。

「先に戻っていてください」

 反射的に口をついて出てくるのは、そんな冷たい言葉。
 違う。言わなきゃいけない言葉はそれじゃない。
 わかってはいても、波立っている感情を抑えられない。
 今なら余計な言葉も言ってしまいそうな気がした。

「気分転換がしたいなら付き合うよ」
「そうではなくて……」
「一緒にいさせてもくれない?」

 ジルは寂しそうな微笑みを浮かべて、わたしを見つめた。
 そんな顔をしないでほしい。
 今はまだ、平常心を保てそうにないのに。
 ジルのちょっとした言葉で、ちょっとした表情で、揺らぐ自分がいるのに。

「ジルは、そうやって、わたしが答えを出すまで……わたしが拒絶をしても、わたしのことを好きでいるつもりですか?」
「そうだね。エステルが許してくれるかぎりは」

 痛みをこらえるような顔をしながらも、ジルは肯定する。
 どうしてそんな、わたしのことが好きなんだろう。
 もちろんその答えは知っている。ジルが元狭間の番人だから。
 逆に言えば、知っているだけで、全部理解しているとは言えない。
 今のジルはただの人間だ。
 私に関わらない道を選ぶことだって、できるはずなのに。
 どうしてそんなに、かたくなにわたしだけを見ようとするんだろう。
 ジルがそんなだから、わたしはジルに甘えてしまうのに。

「……待たないでください」

 小さなつぶやきが、口からこぼれた。

「わたしだけだなんて顔をして、わたしのことを待たないで。わたしは、あなたの望む答えを出せないかもしれないのに」

 わたしは足元を見ながら、自身の思いを吐露した。
 キープくん、という言葉が頭の中を回る。
 前世で何度か聞いたことがある言葉。わたしにはなじみのないものだと思っていた言葉。
 そんなものに、いつのまにかわたしはジルをおとしめてしまっていた。

「……それでもいいよ」

 ジルの声音はかたかった。感情を感じさせないほどに。
 それは感情を抑えているからだと、そのときのわたしは気づけなかった。
 気づけずに、ただ自分の主張のために声を荒げた。

「わたしが嫌なんです! お願いだから、待たないで!」
「――エステルッ!」

 せっぱつまったような声に思わず顔を上げる。
 と、痛いくらいの力で手首をつかまれ、思いきり引かれた。

 口と口がぶつかったような、そんな口づけ。
 唐突すぎて、わたしは何も考えることができなかった。
 衝撃が去る前に、唇は離れていく。
 睨むように向けられた海の色の瞳に、目を丸くした自分が映っている。
 それが近づいてきて、気づいたときにはもう一度口づけを落とされていた。

 そこでやっと、わたしは身体を動かすことを思い出した。
 つかまれていないほうの手でジルの胸を押すけれど、びくともしない。
 口づけから逃れようとしても、いつのまにか後頭部を固定されていて動けない。
 やわらかい唇の感触が嫌に鮮明で、恥ずかしすぎて泣きたくなった。
 生あたたかい舌に下唇を舐められて、肩が跳ねる。

「ジッ……」

 声をあげようとしたその隙に、ジルの舌が口の中に入ってくる。
 舌を一瞬だけ絡ませられ、わたしはジルの胸をドンと思いきり叩いた。
 それ以上ジルの舌が口内で動くことはなく、ようやく身体が離れていく。
 ジルの瞳にはいまだに、消えない熱情が灯っていた。
 怖くて、目をそらしたくて。でも、できなかった。

「約束、破ってごめん。でも、待たせてくれなかったのはエステルだ」

 激情を抑えているかのような、低い声。
 思わず身体が震えた。
 ジルを怒らせてしまった。わたしの言葉が。
 ドライアイスのような、火傷しそうなほどに冷たい瞳の色が怖かった。
 二つの約束を同時に破ったというのに、悪いのはわたしだと、その目は言っていた。

 何を言ったらいいかわからなくて。何も言えなくて。
 動くことすらできずにいると、ジルはふいと視線をそらした。
 ため息を、一つ。
 それからわたしの顔を見ることもなく、わたしの肩を捕らえていた手を離す。

「……先に戻ってる」

 それだけ言い残し、本当にジルはその場を去っていった。
 あとに残されたわたしは、混乱の最中に叩き落されていた。

 ジルが、約束を破った。
 待つという約束。触れないという約束。
 そのどちらもを破って、わたしにキスをした。
 キス。口づけ。接吻。
 そうだ、わたしは……ジルとキスをしてしまったんだ。

 誰かに見られていたらどうしようだとか、そんなことを考える余裕はなかった。
 ただただ、ジルにキスをされたという事実が、どうしようもなく……恥ずかしかった。
 まだ、顔が熱い。熱が冷めやまない。
 自分の口元を両手でおおった。
 どうしよう。どうすればいいんだろう。次に顔を合わせたとき、どんな反応をすれば。
 そんなことが頭の中で右に左に飛び交う。
 混乱が少し治まってきたころ、ふと、わたしは気づいてしまった。

 ……嫌じゃなかった。

 むりやりにキスをされたというのに、ジルに対しての嫌悪感はまるでなかった。
 本当に一瞬だったけれど、舌まで絡められたというのに。
 ただ恥ずかしくて、どうしたらいいのかわからないというだけで。
 好きでもない相手とキスをするなんて、嫌に決まっている。
 身体の関係だとかと割り切れる大人の女性なら別かもしれないけれど、わたしにはそんなのは絶対に無理だ。
 それなら、どうして嫌じゃなかったんだろう?

 嫌いではない、どちらかと言えば好きな、傷つけたくないと思うくらいには大切な存在。それだけじゃ、キスをする相手にはならない。
 それは……つまり。
 わたしは、ジルのことが……。


 考えても考えても出なかった答えが、そこにあった。



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