六十四幕 捕らわれてしまうことが

 夏らしい夏になった。
 毎日暑くて、ちょっとバテそうになる。
 そんな日に、わたしは進んで暑い日差しの下にいた。
 我が家の庭の、池にかかっている橋のまん中あたりで、欄干に腕を組んで乗せ、池に咲くハスを眺めている。
 うん、ハスはいいものだ。

「きれいだね」
「……そうですね」

 できるかぎり存在を意識の外に追いやっていた人物に声をかけられ、仕方なしにわたしは同意を返す。
 ちらりと隣を見やれば、ジルがわたしと同じような姿勢でハスを見ている。
 ジルは暑いのが苦手なくせに、こうして一緒にハスを見ているのはなぜなのか。
 今日が週に一度の勉強会で、早く終わったからとわたしを庭に連れ出したのは彼のほうなんだけど。
 わたしは帽子をかぶっているからまだいいとして、ジルは暑くないんだろうか。

「日陰に行きますか?」

 さすがに倒れられては困ると気を使って、わたしはそう言った。
 男にしては白い肌は、熱がこもってしまっているのか今は少し赤くなっている。

「これくらいは大丈夫」

 ジルの言葉に、わたしは彼の顔をじっと見る。
 本当だろうか? やせ我慢をしていないだろうか?
 感情を読み取りにくい微笑みからは、無理をしているのかどうかはわからない。
 目の焦点はしっかり合っているし、すぐに倒れたりだとかはしなさそうだけれど。
 大丈夫と言っているんだからとりあえずは信じよう、とわたしは最終的に判断した。

「エステルはここでハスを見るのが好きだよね」
「そうですね。三百六十度ハスに囲まれますから」

 ハスはどこから見てもきれいだけど、橋の上から周囲を見渡すのが一番好きだった。
 夏だとやっぱり日差しをさえぎるもののない橋の上は暑くて、でもそんなことも気にならないくらいきれいな光景だと思う。
 わたしがそんなことを考えていると、ジルは楽しそうに笑みを深めた。
 知っていたから、大丈夫って言ったんだろうか。
 別に、池を見れる日陰にあるベンチに座って、そこから見たってわたしはかまわないのに。
 暑いのを我慢してまで、わたしの好きな場所から花を見させようとしたんだろうか。
 日差しが強いのを気にするふりをして、わたしは帽子のつばを下げた。

「エステルの好きな花は、黄色い花が多いよね。気分が晴れるから、だったっけ」
「よく知ってますね」
「エステルのことだからね」

 得意げに笑むジルに、わたしは呆れる気持ちを隠さずため息をこぼす。
 こっちはいつ話したのか、むしろ話した事実すらも忘れているのに。
 わたしの好きな花を知っていることといい、ジルの頭は無駄にわたしの情報でしめられているようだ。

「なら、ハスだけは特別なんだね。ハスは黄色くない」
「特別と言えばそうかもしれませんね」

 黄色い花は、現世での好みだ。
 前世と同じくらい今も好きな花というと、ハスくらいしか思いつかない。
 特別だと言っても間違いではない気がした。

「エステルはどうしてハスが好きなの?」

 ジルに問われて、わたしは答えを探してみる。
 ハスが好きな理由。そんなのはいくらでもあった。

「水上に咲いている姿が、幻想的なところでしょうか」
「それだけ?」
「花は大きいのに、色がかわいらしいところも好きです」
「ふうん」

 ジルはなんだか納得していないように見えた。
 この答えだけじゃ弱いんだろうか。
 好きな理由なんて、感覚的なものばかりだ。好きだから好き、でいいじゃないか。

 別の言葉を探しながら、わたしはどうしてこんなに真面目に答えようとしているんだろうとどこかで不思議に思った。
 ただの日常会話の延長だろうに。
 でも、ジルが本気で知りたそうにしているから。
 わたしのことならなんでも知りたいとばかりに、真剣だから。
 ついわたしも真面目に考えなきゃいけないような気がしてきちゃうんだ。

「……ハスは、前にいた世界の宗教で、智恵や慈悲の象徴なんです。泥水にきれいな花を咲かせるから、だそうで。そうなるのも納得なくらい、ハスって清らかで、きれいに見えるんですよね」

 思い出したのは、前世の知識。
 わたしは別に熱心な仏教徒だったわけじゃないけど、年に一回はお墓参りに行っていたし、修学旅行の寺院めぐりはけっこう楽しんだ。
 大仏のことを調べたときのことを思い出しながら、わたしは話す。
 そういったことを知る前から、ハスはどこか清浄なもののように思っていた。
 昔の人も同じことを感じたんだ、と思うと面白くて、ハスが特別な花のように見えた。
 好きな理由なんて、ただそれだけのこと。
 きれいだから。言葉にするならそれが一番しっくりくる。

「清らかで、きれい、か……エステルみたいだね」
「……何を言ってるんですか」

 いきなり口説き始めたジルを、わたしは睨む。
 ハスの花の話をしていたのに、どうしたらそうなるんだ。

「本心だよ。僕が知っている中で一番きれいな存在は君だ。僕にとってのエステルはこの世界の象徴みたいなもの。この世界がきれいに見えるのも、エステルのおかげなんだよ」

 歯の浮くような台詞を、ジルは平然と吐く。
 頬に熱が集まっていくのがわかる。ぼぼぼっと音がしそうなくらいに。
 ジルの甘い微笑みを、見ていられない。
 うつむいて、帽子のつばで自分の顔を隠す。

「困ることを、言わないでください」

 声の震えに気づかれなかっただろうか。
 動揺させるジルが憎らしくて、動揺してしまう自分が腹立たしくて。
 どう反応を返せばいいのか、わからなくなる。

「言葉にして伝えないと、心がいっぱいになって苦しいんだ。聞き流してくれてもいいよ」
「そうします」

 答えながらも、そんなのは無理だ、と心の中で思っていた。
 聞き流したくても、ジルの言葉は流されてくれない。
 わたしの心をこれでもかというくらい揺さぶって、言葉に表せない感情をわきあがらせる。

「ごめんね。エステルが、僕の言葉を否定しなくなったから、うれしくて」

 笑みを含んだ声が降ってくる。
 顔を見なくても、ジルがどんな表情をしているのか、すごくよくわかった。

「それは……嘘じゃないのは、わかりますから」

 幼いころはジルの言葉を信じていなかったし、冗談はやめてくださいと何度もつっぱねていた。
 想いの理由を知ってからは、そうすることは難しくなっていた。
 ジルが好きなのはわたしじゃなくて光里なんじゃないか。そう考えたこともある。
 でも、ジルはいつでもまっすぐわたしに想いを向けてきていて、疑うほうが悪いことのように思えた。
 光里だって、わたしの一部だ。わたしの中に光里の欠片が存在している。
 それを含めてジルがわたしのことを好きだというなら、疑うことなんてなんにもない。

「うん、そうだね。確実に伝わっているんだよね。やっぱり言葉にするのは重要だ」

 かみしめるようにジルが言うから、思わずわたしはジルを見上げた。
 ジルは何を考えているんだろうか。
 穏やかな瞳に甘やかな色をたたえて、わたしを映している。

「エステル、好きだよ。大好き。誰よりも何よりも、君が好きだ」

 想いがいくつもの言葉にして落とされる。
 言葉の一つ一つが爆弾のように、わたしの心に衝撃を与える。
 まるで言葉に質量があるみたいだ。
 重くて、痛くて、たくさんの『好き』に埋もれてしまいそう。

「もっ、もう、わかりましたから!」

 わたしは声を上げて、ジルから目をそらす。
 きれいなハスの花を見ても、早鐘を打つ鼓動は全然治まってくれない。
 海の色の瞳は、見ていると飲み込まれそうになる。
 怖いのに、もっと見ていたいような気持ちになって、それが余計に怖い。

「聞き流してもいいって言ったのに、エステルがそうして反応してくれるのがうれしい。僕の言葉から想いを感じ取ってくれることがうれしい」

 ジルは気にした様子もなく、思いのままを語る。
 涼やかな美声は、今は砂糖菓子みたいに甘ったるい。
 わたしの心に想いを投げかけてきて、波紋をいくつも作る。
 揺れる水面のように、わたしの心は落ち着きを取り戻してくれない。

「エステルと一緒にいられるだけで、僕はしあわせなんだ」

 甘やかな声音が静かに耳に響く。
 顔を見ることはできなかった。
 きっとジルは笑っている。海の色の瞳を細めて、しあわせそうに。
 その瞳に捕らわれてしまうことが怖かった。
 今、彼を見てしまったら、自分はなんて言葉を返すのか想像もつかなかった。
 だからわたしは池に咲くハスから視線を動かさない。


 サーモンピンクのハスに、逃げるな、と叱られているような気がした。



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