毎日少しずつ暑くなっていく。
夏真っ盛りまであと少し、という日、屋敷内を歩いていたわたしは意外な人物と出くわした。
兄さまと同じくらい背が高い、父さまよりも年かさの男性。
イーツ家のご当主さま、フェルナンドさんだった。
「あ……こんにちは」
「こんにちは」
わたしが作法どおりに礼をすると、フェルナンドさんも軽く頭を下げた。
彼の動作には品があって、にじみ出る品格というのはこういうものを言うのか、とわたしは思った。
「父さまにご用事ですか?」
それくらいしかフェルナンドさんがここにいる理由が思いつかなくて、わたしは聞いてみた。
今では週に一回に減っている勉強会という名の情報交換の場も、今日ではなかったから。
「いや、用事はもうすんだ。これから帰るところだ」
「そうですか、お疲れさまです」
もう一度礼をして、わたしはその場でフェルナンドさんを見送ろうとした。
けれどフェルナンドさんは立ち止まったまま動かない。
帰るところだって言っていたはずなのに、どうしたんだろうか。
「よければ、少し話をしないか?」
「わたしでよければ喜んで」
フェルナンドさんの提案に、拒否する理由もないわたしは微笑んで答えた。
考えてみれば、フェルナンドさんと一対一でお話をするのは、初めてだ。
奥さんのアンジリーナさんとはガーデンパーティーの席で何度か話したことがあるけど、フェルナンドさんはいつも父さまや他のおじさま方と一緒にいたから。
そう考えると、にわかに緊張してきた。
親しみやすい父さまと違って、フェルナンドさんは堂々としているというか、貫禄がある。
わたしなんかに話し相手が務まるんだろうかって、心配になってきた。
「もうエステル嬢も十四か。来年には成人だね」
「はい。あっというまな気がします」
初心者向けの世間話に、わたしはほっと胸をなでおろす。
いきなり小難しい話をしたりはしないだろうと思っていたけど、間違いじゃなかったらしい。
「成人すれば、きっと求婚が後を絶たないだろう。シーラによく似た君なら」
フェルナンドさんの言葉に、わたしは返答に困った。
お世辞だとわかっているから、肯定も否定もできず、あいまいに微笑む。
後半の言葉にだけ、やっぱりそうなんだ、と納得しつつ。
髪の色が父さまに近いことを除けば、わたしは母さま似らしい。
鼻筋だとか、細かいパーツは父さまに似ていると言われたことも少しはあったけど。
全体的に見ると、母さまの若いころにそっくりなんだとか。
写真を見せてもらっても、自分ではいまいちわからなかったから、他の人の言うことを参考にするしかない。
「誰か、心に決めた相手はいるのかな?」
唐突な質問に、わたしは軽く目を見開く。
それからすぐに、首を横に振った。
「いえ、わたしにはまだ早いです」
「そうか」
父さまに負けず劣らず、この人も婉曲的なやりとりは苦手らしい。
何について話したいのか、だんだんとわかってきた。
ジルとのことを話題に出したいんだろう。
けれど、どう言われるのかは、正直予想がつかなかった。
フェルナンドさんが、ジルとわたしとの仲に賛成なのか反対なのかわからないからだ。
反対されたところでわたしが困るわけじゃないんだけども。
……いや、もしわたしがジルのことを好きになることになれば、後々困ることになるのか。
と、そこまで考えて、その可能性がわたしの中に存在していることに驚いた。
とっさに考えが及んでしまうくらいには、可能性は低くないということだから。
「息子と仲良くしてくれているようだね」
はい、と返すのもなんだか変な気がして、わたしは微笑みで応えた。
ガーデンパーティーのたびに一緒にいるのは見知っているだろうし、フェルナンドさんも答えは求めていないんだろう。
「ジルベルトは……不器用な子でね。人との距離を、必要以上にあけてしまう。親だというのに、私もあれとの距離を測りかねている」
フェルナンドさんは寂しそうな笑みを見せた。
あまり表情の変わらない彼には珍しく、何を考えているのかわかりやすい顔。
あいてしまっているジルとの距離を、今さらどうしたらいいのかわからないんだろう。
方向性は違うけれど、この人もジルと同じくらい不器用みたいだ。
親不孝者が、とわたしは心の中でジルをなじった。
「あの子が心を開いているのは、君とアレクシス君くらいだろう」
「そんなことは……」
ない、とは嘘でも言えなかった。
長い時を共に過ごしている彼のほうが、わたしよりもよく知っているだろうから。
「君の選択権を奪おうというつもりはない。それでも私は君に、あの子を頼むと、そう言いたい」
フェルナンドさんの言葉は重たかった。
ずしん、とわたしの胸の奥に響いてきた。
四分の一ほどの年齢の小娘に、真剣に頼み事をするフェルナンドさん。
真剣だからこそ……わたしも誠意を持って答えないといけない。
嘘も、ごまかしも、許されない。
「わたしには、まだ決められません」
誠実そうな深い緑の瞳から、目をそらさずにわたしは言った。
血がつながっていないんだから当然だけれど、髪も瞳も、ジルとは違う色。
それでも、やっぱり家族だから、似ているところはあると思う。
たとえば、わたしをまっすぐ見つめるその瞳だとか。
わたしの言葉を待ってくれる、気遣いだとか。
「ジルのことを大切に思う気持ちは、あります。それがどういった感情から来るのか、わたしは決めかねています」
できるかぎりの真心を込めて、わたしは言葉を紡ぐ。
ジルのことをどう思っているのかなんて、今だってはっきりしていない。
嫌いじゃない。どちらかと言えば好き。大切で、傷つけたくなくて。わたしに向けられる気持ちをうれしいと感じる。
わかっているのは、それだけ。
「無理だと言われないだけ、重畳と思おう」
フェルナンドさんは、ふっと微笑んでそう言った。
穏やかで、どこかジルの笑顔と似ているように見えた。
ジルのしあわせを願う人が、ここにいる。
そのことがうれしくて、切なくて、わたしの胸を熱くさせた。