六十二幕 奇跡のようなこと

『やっとか』
「やっとです」

 電話の向こうから聞こえてくるリュースの声に、わたしは同じ言葉を返す。
 今のは、兄さまとイリーナさんが婚約したことの報告への感想だ。

『去年婚約して、今ごろには結婚していてもおかしくないと思っていたぞ、俺は』

 たしかに、わたしもゆっくりだなぁとは思った。
 イリーナさんがラニアに来たのは、一昨年の秋の初め。
 半年以上もあれば、お互いの気持ちを十分に確かめ合えただろうに。
 結局それから一年も経ってからの婚約。やっとと言われてもしょうがない気もする。
 でも、兄さまもきっと無為に時間を過ごしていたわけじゃないんだろう。
 兄さまとイリーナさんにとって、大切な猶予だったんだと、そう思う。

「そう言わないでください。兄さまだって色々と心の準備が必要なんですよ」

 まだ卿家を継いでいない身、というのも関係しているかもしれない。
 自分はまだ半人前だと兄さまは思っているんだろう。
 実際のところ、兄さまとジルはもう卿家を継ぐための勉強はほぼすんでいて、今は流動的な情報を週に一回確認しているだけ。
 つまりはいつでも卿家を継げる状態になっているわけだ。
 兄さまが結婚したら、ちょうどいいとばかりに卿の座を譲られるかもしれない。

『別に誕生日にこだわる必要もないのにな』

 リュースの言葉はそのとおりで、誕生日以外の日にプロポーズしちゃいけないわけじゃない。
 誕生日しかダメなんて決まりがあったら、一年に一度しかチャンスがないんだから大変なことになる。
 誕生日にアクセサリーをプレゼントしてプロポーズするのは、たしかずいぶん昔の大公さまが起源だったはず。
 つまりはいわゆる流行、ジンクスのようなもの。
 人によって日にちの違うバレンタインデーみたいなものだ。

「そこはほら、男の人はみんなロマンチストですから」
『俺はそんなことないぞ』
「どうでしょうねぇ、意外と好きな子の前では変わるかもしれませんよ」
『からかいたいならちょうどいいのがいるだろう』
「兄さまはからかったらかわいそうじゃないですか」
『……俺はいいのか』

 ため息をつくリュースに、わたしはくすくすと笑った。
 電話の向こう側でうなだれているかもしれない。
 こういうところがからかいがいがあるんだけれど、リュースは自覚がないらしい。

「冗談はこのへんにしておいて、ですね」

 声色をがらっと変えて、わたしは話題を転換する。
 なんだ、というリュースの声を聞きながら、話さなければいけないことを頭の中で整理した。

「兄さまとイリーナさんの婚約は、そちらにとって問題にはならないんですか?」

 そちら、とはもちろん、王族のみなさま方のこと。もっと言えば王族を含めた王宮にとって、だ。
 その確認がしたくて、今回わたしはリュースに連絡を取った。
 この国では婚約も結婚も本人同士の意志が重要視されるから、こんなプロポーズの仕方がまかり通っているんだけれども。
 王族ともなると、本当に自由恋愛でいいのかと不安になっちゃったりもする。
 イリーナさんは直系ではないし、第二公女さまだとかは一目惚れをつき通したなんて言われているし、さすがに引き裂かれたりはしないとは思う。
 それでも、少しでも懸念はなくしておいたほうがいい。

『何も問題はないな』
「……本当ですか?」

 あっさり望む答えが返ってきて、思わず確認してしまう。
 リュースが嘘をつくとは思わないけれど、そんな簡単でいいんだろうか。

『何を心配しているのかは知らんが、イルをそちらにやったときには、父上も姉上もすでに嫁にやった心地でいたようだぞ』

 イルとはイリーナさんの愛称。
 彼女がここに来たとき……つまり一年半前にはそのつもりだったというなら。
 たしかに今さら問題になるはずもない。
 けれど、とわたしは一つひっかかることがあった。

「……イリーナさんは、ラニアに来るときには兄さまのことを話してないんでしたよね?」

 あくまでここに来た名目は公家への行儀見習い。
 兄さまが好きだからラニアに来たい、なんて言い方はイリーナさんはしなかったはず。だってそれならすぐにでも婚約していただろうから。
 話の流れで少しは出たかもしれないけど、それくらいでお互いの恋心に気づけるものなのかな。
 あの狸な大公さまならそれもありえるような気はしつつも、わたしは不思議に思った。

『本人が話さずともいくらだって知る方法はあるだろう。王族には“目”がある』

 “目”。それが何を指しているのか、一応は貴族の端くれなんだから、わからないとは言えない。
 プリルアラートみたいな平和な国でも、都となれば権謀術数はあって当然。
 基本が情報戦だから、王族も貴族も独自の情報源を持っているわけで。
 もちろん王族はその規模も大きい。前世の日本でいうなら忍者みたいなものだ。
 都に行ったときにも、きっと城のそこかしこにいたんだと思う。相手はプロだから、わたしなんかに気づかせるはずもない。
 ……ってことは、今思えばジルとわたしの仲のことを言ってきたのも、何があったか知っていたからってことだよね。
 プライバシーの侵害だ、と言いたいところだけど、そんなものが通用しないのが王宮だってこともわかってる。

「それもそうでしたね。ということは兄さまの恋心なんてバレバレだった、というわけですか。兄さまが問題のある人物だったら、イリーナさんがラニアに来ることはなかったんでしょうね」

 考えてみれば当然のことだ。
 イリーナさんがラニアに来た理由の一つが兄さまなのは誰にだってわかること。
 その兄さまの身辺調査をすることもなく、イリーナさんをラニアに送り出したりなんて、家族みたいに想っているらしい大公さまや第二公女さまがするわけがない。

『品行方正な兄でよかったな』
「そうですね」

 兄さまがしっかりした人じゃなかったら、イリーナさんは今も都で変わらず暮らしていたんだろう。
 まあ、兄さまがそんなだったらイリーナさんは好きになったりはしなかっただろうけど。

『結婚式には姉上だけじゃなく俺も呼んでくれ。ついでにラニアを見てみたい』

 そう言うリュースの声は弾んでいて、今から楽しみにしていることがよくわかった。

「兄さまに伝えておきます。来年以降のことですけど」

 何か問題が起きないかぎり、少なくとも一年は婚約期間がある。
 たとえば子どもができちゃった、とかなれば結婚を急がなくちゃいけなくなるけど。
 ……兄さまのことだから、結婚するまで手は出さないんだろうなぁ。
 うっかりそんな下世話な想像をしてしまって、わたしは自分の頭を軽く叩いた。

『本当に生真面目な兄だな』
「それが兄さまの良さですから」

 リュースの呆れを含んだ言葉に、わたしは笑顔でそう返した。
 わたしが好きになって、失恋した人は、どうしようもないくらい真面目な人。
 頼りになるけど、優しすぎるからたまに優柔不断で、でもきちんと決断できる人。
 そんな兄さまが、恋をした相手と結ばれた。
 花に重ねてしまうくらい好きな人と、共に未来を歩む約束を得た。
 しあわせなことだと思う。奇跡のようなことだと思う。


 少しだけ、うらやましくも思う自分がいることに、わたしは内心で苦笑した。



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