六十一幕 恐怖の対象なんかじゃない

 魂が身体という殻から抜けていくような、浮遊感。
 自分を呼ぶ、友だちの叫び声。
 猛スピードでこちらに向かってくる、夕日を浴びたシルバーの車。
 点滅していない、青信号。
 身体をおそった、息が止まるほどの衝撃。



 ガバリと、わたしは身体を起こした。
 呼吸が荒い。冷や汗をかいている。
 関節がギシギシと痛むような気がするのは、きっと夢の影響。
 ……いや、夢じゃない。あれは現実に起きたこと。
 光里の、前世のわたしの、最期の時。

 はあ、と大きくため息をついて、気持ちを落ち着かせようとした。
 窓の外はまだ薄暗い。ちょうど夜明けごろだろう。
 もう一度眠れる気は、まったくしない。
 夢の衝撃が、まだ全身に残っていた。

「さいあく……」

 つぶやいてみても、気持ちは晴れない。
 ここ一年ほどは夢に見ていなかったから、油断していた。
 久しぶりだった分、ガツンと来た。
 寒くもないのに、身体の震えが止まらない。
 自分をぎゅっと抱きしめながら、わたしは震えがやむのを待つ。

 怖かった。
 何度も見た夢だけれど、慣れることなんてきっと一生ない。
 自分が死ぬ瞬間は、あまりにも唐突で。
 友だちの声が耳に残っている。
 青信号が、目に焼きついている。

 もう一度、わたしはため息をつく。
 前世を覚えているというのは、こういうときに厄介だ。
 消せない記憶。薄れない記憶。
 最期の時は、前世の記憶の中で一番鮮明に、残ってしまっている。
 思い出せとばかりに、こうして何度も夢に見て。
 わたしに、忘れさせてくれない。

 久しぶりに夢を見たのは、事故にあった時と同じ季節だからだろうか。
 そういえば去年夢を見たのも、このくらいの時期だった気がする。
 春の盛りが過ぎ、夏が近づいてきているこの季節。
 確かテスト前だったな、とどうでもいいことを思い出す。

 寝ることはあきらめ、わたしは紅茶を淹れることにした。
 それで少しでも気分転換になればいい。
 忘れることは、無理だろうから。
 できるだけ考えないようにしたかった。


  * * * *


 夢を見たその日に、シュア家でガーデンパーティーが開かれたりするんだから、間が悪いというか運が悪いというか。
 なぜって、夢で見たあの色と対面しなくちゃいけなくなるから。

「エステル……大丈夫?」

 開口一番に、ジルは本気で心配そうにそう言ってきた。
 そんなに顔に出ているんだろうか。
 結局あれから眠れなかったし、家族にも心配されたけれど。
 今は昼過ぎで時間も経っているし、自分では落ち着いてきていると思っていた。
 それでも、ジルにはわかってしまうものらしい。

「何がですか?」
「具合が悪そうに見えるから」
「ちょっと寝不足なだけです」

 とぼけてみても、ジルは心配そうな様子を変えず。
 仕方なく、真実の一端を口にする。

「顔色も悪いよ」

 ジルはそう言って、手を伸ばしてきて。
 彼の青緑の瞳と目が合った瞬間、恐怖がよみがえってきた。

「あっ……」

 パシッと乾いた音がして、それからわたしは自分が何をしたのか気づく。
 ジルの手を払ってしまった。
 何が起きたのかジルもすぐにはわからなかったようで、彼は目を見張り、それから一瞬だけ泣きそうな顔を見せる。

「ご、ごめんなさい!」
「こっちこそ、ごめんね」

 謝るわたしに、ジルは苦笑を浮かべる。
 違う、そうじゃない。
 さわらない約束は、こんなときには有効じゃない。
 頬に触れようとした手には、ただのいたわりしか込められていなかったことくらい、わかってる。

「違うんです、そうじゃなくて……その、怖い夢を、見て」

 考えるより先に口が動いていた。
 ジルを傷つけた。
 そのことが、夢よりも何よりも恐ろしくて。
 言い訳にすぎないかもしれないけど、少しでも事情を説明したかった。

「その影響でというか、だからジルを避けたわけではなくて」
「落ち着いて、エステル」
「……落ち着いてます」

 反射的に答えたものの、それが正しくないということは自分が一番わかっていた。
 こんな支離滅裂な説明でジルに伝わるわけがない。
 自分は落ち着いてなんていないんだろう。

「そんなに必死にならなくても大丈夫だよ。気にしてないから」

 嘘だ、と思った。
 だってジルは傷つきやすい。
 わたしのちょっとした言葉で、ちょっとした行動で、すぐに傷つく。
 その繊細な心を、傷つけたくないと思う。
 なるべくなら、笑っていてほしいと思う。
 今みたいな憂いをおびた笑みじゃなく、喜びに満ちた笑みであってほしいと。

「一番最後の瞬間の夢を見たんです」

 今はガーデンパーティー中。どこで誰が聞いているかわからない。
 だから、前世という言葉は口にしないで、意味が伝わるように言葉を選ぶ。
 察しのいいジルなら、これだけでわかるはず。

「最後に見た色は、ジルの髪と瞳の色に似ているんです。……それで、つい」

 夕日を浴びたシルバーの車体。渡れと促してくる青信号。
 思わず反応してしまうくらいには、ジルの持つ色に似ている。

「そういった形で君の記憶に残っているというのはあまりうれしくないな」
「最近は、重ねてしまうことはなかったんですけど。久しぶりに夢に見たので、思い出してしまったらしいです」

 明るい青緑の目を見て、南国の海の色だと思った。
 金にも銀にも見える髪の色を、車の色に重ねることはなくなっていた。
 もう大丈夫だと、そう思っていた。

「……触れてもいい?」

 こわごわ、といった様子で聞いてくるジルに、わたしはうなずきを返す。
 さっきはいきなりだったから、反応してしまっただけ。
 ちゃんと意識していれば、大丈夫のはず。

 ジルの手が、わたしの頭に乗せられる。
 優しくわたしの頭をなで、長い髪をすき。
 壊れやすい宝物を扱うように、慎重に触れてくるその手。
 なんだかくすぐったくて、わたしはうつむく。
 怖くない。大丈夫。
 優しい手からいたわりを感じる。
 怖かったね、もう大丈夫だよ。そう言われているように思えた。

 ピン、と髪を軽く引っぱられ、わたしは顔を上げる。
 ジルがわたしの髪を一房手に取っていて。
 そこにジルは唇を押し当て――。

「ジ、ジル……!」

 そういうことはしないって、約束……!
 わたしは自分の髪をひっぱって、ジルの手から助け出す。
 ジルは何が面白いのかにこにこと笑っている。

「やっぱりそのほうがエステルらしいよ」

 ジルの言葉に、わたしは言おうとしていた文句を飲み込んだ。
 わざと、怒らせた……?
 そうすることで元気を出させようとして?
 怒ることも、真意を問うこともできずに、わたしは黙りこむしかない。

「もう、怖くない?」

 そう言って、ジルの手がわたしの頬に伸ばされる。
 今度は払ってしまったりはしない。
 その手はわたしの恐怖をぬぐうように、ぬくもりを伝えてくる。
 その瞳はただわたしを穏やかに映すだけ。
 その髪は風になびいて、日の光を浴びてキラキラときれいに輝いていた。

「大丈夫です」

 心から、わたしはそう告げた。
 怖くなんかない。
 ジルは恐怖の対象なんかじゃない。
 ジルは、わたしを傷つけない。
 それがわかったから。

「そう、よかった」

 ジルの微笑みは、わたしを包み込むような優しいものだった。

「……ありがとう、ございます」

 聞こえるか聞こえないかくらいの声で、わたしはつぶやいた。
 ジルが優しいことは、ずっと前から知っている。
 ジルがわたしを想ってくれていることは、もうずっと、身にしみている。
 そのことがありがたいと、思ったことはこれまでにも何度かあった。
 ジルの想いがうれしいと、そう感じてしまった自分は、ずるいんだと思う。


 そんな心中は、ジルには悟られないように。
 わたしは目を閉じて、ジルのぬくもりだけを感じた。



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