五十九幕 君が幸せならそれで

 次のガーデンパーティーの日。
 リゼと話していると、わたしに向けられる物問いたげな視線に気づく。
 わたしは一つため息をついて、リゼと別れ、その視線の主へと近づいていく。

「こんにちは、ジル」
「……やあ、エステル」

 ジルはいつもどおりの笑みを浮かべることに失敗したのか、形容しがたい表情をしていた。
 口端は上がっているのに、笑っているようには見えない。
 動揺が表に出ているジルに、わたしはしょうがないなと苦笑する。
 聞きたいことがあるんだろうに、何を遠慮しているんだか。
 それとも答えが怖くて聞けないんだろうか。

「断りましたよ」

 先回りして、わたしは答える。
 ジルは目を見開く。

「どうせジルのことですから、知っていたんでしょう?」

 前のガーデンパーティーで、数日後にローリーが家に来ると、ジルに話の流れで言っていた。
 その時の何か言いたそうな顔は、今思えばローリーの想いを知っていたからなんだろう。
 だから彼が家に来ると知って、告白するつもりなんじゃと思ったんだろう。

 ローリーに想いを告げられてから、わたしは一つ納得したことがある。
 推測でしかないけど、少し前にジルの様子をおかしくさせた噂は、たぶんローリーのことなんじゃないかな、と。
 二年近く前、都でリュースとのことで嫉妬されたときを思い出す。
 リュースとわたしの年が近く、『お似合い』に見えることにジルは引っかかっていたようだった。
 普段はそんなふうには見えないけど、わたしと年が離れていることをジルなりに気にしているんだろう。
 図らずもリュースとローリーは同い年。ジルにとってはきっと地雷。

「そ、っか……」

 ジルは気の抜けたような顔をしている。それは安堵の表情にも見えた。
 よかった、と小さくつぶやいてから、重苦しいため息をつく。

「ごめん。本当なら喜ぶべきじゃないのに」
「そうですか? わたしが言うのも変ですが、恋敵が振られた場合に喜ぶのは普通じゃないかと」

 言いながら、わたしは顔をしかめる。
 相手の好意を前提に話すのは、なんだかいい気になっているようで好きじゃない。
 いまだにわたしのどこがよかったんだろうと思ったりはする。ローリーも、今まで告白してくれた人たちも。
 だからって相手の想いを否定することも失礼だろうしで……ほんと、こういうのは難しい。

「うまくは、言えないんだけど。僕はずっと、こうなってくれることを望んでいて。それは、君の選べる一つの道を、君の幸せを否定することで。誰かに取られたくないと思いながら、そう思ってしまう自分のことがひどく醜く感じられたんだ」

 まるで懺悔するように、ジルは自分の心中を語る。
 初めて聞くことだけれど、別に驚くことも、不快に思うこともなかった。

「人間って、えてしてそういうものだと思いますよ」

 少なくとも、わたしはそう思う。
 わたしだってイリーナさんの存在を知ったとき、やっぱりうらやましいと思ってしまった。
 もし兄さまが兄じゃなかったら。恋をしても許される相手だったら。
 そう考えてしまったことは一度や二度じゃない。
 兄じゃなかったら、そもそも前世を共有することもなかったんだろうけど。
 そうしたら恋をしたかなんてわからない。前提からして崩れてしまう。
 それでも、理屈じゃ説明できない醜い感情は、消してしまうことはできなかった。

「僕は、君が幸せならそれでよかったはずなのに……」

 じっと、ジルはわたしを見つめる。
 その視線を受けながら、わたしは考える。
 ただ相手の幸せだけを願うなんて、それは恋と呼べるんだろうか?

「本当に?」
「ひどいな。疑うの?」

 そう言って少しだけジルは笑った。自嘲気味ではあったけれど。

「その言葉を信じるには、普段のジルの行動は行きすぎてます」
「自分に正直なだけだよ。エステルの幸せを一番に願っていることは本当」
「……そうですか」

 嘘には聞こえなかったから、とりあえず納得しておく。
 うまく言ったもんだな、とは思ったけど。

「でも、わからなくなってくるな。僕以外の誰かとの幸せだとしたら、壊したいと思ってしまいそうな自分が怖い」

 ジルはくしゃりと顔をゆがめる。
 泣きそうにも見える表情。海の色の瞳は、波を立てるように揺れている。
 どうしてジルがそんな顔をするのか、わたしにはわからない。
 自分が悪だとでも思っているんだろうか。

 わたしからすれば、ジルの考え方は当然なように思える。
 見ていられるだけでしあわせ、というのも一つの恋ではあるけれど、たいていはもっと深い欲が絡む。
 一緒にいたい。自分を好きになってほしい。他の人を見ないで。
 恋は甘いだけじゃない。強くて切ない思いがあってこその恋愛なんだろう。
 前世と現世でわたしが知っている恋というのは、そういうものだ。

「いつから僕はこんなによくばりになったんだろうね」
「最初からじゃないですか? だって、人ってそういうものでしょう」

 それが普通なんだと、わたしは思う。
 ジルは人間ではなかった前世があるから、戸惑っているのかもしれない。
 欲というものを知らなかった記憶が残っているから、自分の感情が醜く思えるのかもしれない。

「君に出会って、僕は欲を知ったんだ」

 ずっと独りでいた狭間の番人は、光里に出会って変わり、わたしに出会って人間らしくなった。
 今はもう、ジルは狭間の番人じゃない。
 残滓のような記憶を持った、ジルベルトという一人の青年。
 人間らしく恋をして、人間らしく欲に惑う。
 その変化を与えたのは……わたし、なんだ。

「ねえ、エステル」

 ジルはわたしの名前を呼んで、手を伸ばしてきた。
 その手はわたしの髪を絡め取り、すっと引いた。
 長い髪がジルの指の間を通って、わたしの背に戻っていく。
 まるで、わたしの心はまだ、ジルの元にはないことを表すように。

「叶うことなら僕の手で君を幸せにしたい」
「別にわたしは、誰かにしあわせにしてほしいなんて思っていません。ちゃんと自分でしあわせになります」

 今だって、家族がいて友だちがいて、しあわせじゃないわけじゃないし。
 しあわせっていうのは、自分で築いていくものだと思っている。
 恋をする相手がジルだろうと、他の誰かだろうと、わたしはちゃんとしあわせになる。
 わたしはそういう心意気でいた。

「僕はその障害にならない?」
「なりませんよ」

 不安そうなジルに、わたしは断言した。
 どれだけジルが邪魔をしようと、わたしは根性でしあわせになってやる。
 それに……なんだかんだで、ジルはわたしに甘い。
 本当にわたしのしあわせの邪魔をすることはないだろうと、なぜだか信じられた。

「なら、傍にいさせて」

 願いというには必死な、懇願。
 ダメだと言ったらどこか遠くに消えていってしまいそうな、そんなはかない笑みを浮かべている。
 まったく、これだからジルは面倒だ。
 どうしてこんなに……まっすぐ、わたしに想いをぶつけてくるんだろう。
 受け取ることは、まだできないというのに。

「……断り入れなくたっていつも傍にいるじゃないですか」

 ため息混じりに、わたしはそれだけ言った。
 婉曲的にしか、傍にいてもいいのだと、伝えられない。
 はっきり伝えてしまえば、それはそのまま答えになってしまうから。


 あいまいな言葉しか選べない自分が、少し嫌になった。



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