五十七幕 変化していくもの

 『待つ』の意味が違うと教わった、とはいえ。
 それから別にジルとの関係が変わるようなことはなかった。
 変わらなかったというよりも、変えようとはしなかった、というほうが正しいかもしれない。
 あれはあくまでエレさんの見解で、実際にジルがそう考えているのかはわからない。可能性はものすごく高いと踏みつつも。
 だからといって、わたしは確認する気にはなれなかった。
 そんなことしようものなら、どんな凶悪な蛇がヤブから飛び出してきてもおかしくないと思ったから。
 臆病だな、とそんな自分を情けなくも思うんだけれど。

 もしジルが長期戦覚悟でいるなら、それがわかるのはわたしが成人してから。
 だから今は、とりあえず脇に置いておこう。
 どっちにしろ答えは出さなきゃいけないものなんだし。
 まずはその答えのほうをどうにかしないといけない。

 恋は頭で考えるものじゃない。
 そうエレさんは言っていた。
 それはわたしの少ない実体験からも納得のできる言葉だったし、現在進行形で恋をしているエレさんの言うことなら間違いはないだろう。
 頭で考えちゃいけないなら、どうすればいい?
 それは考えなくても簡単にわかった。恋は心で感じるものだ。

 前世のわたしはいざという時には勘に頼っていた。
 その癖は今にも引き継がれていて、困ったときは直感の語るままに行動している。
 違うのは、それが最後の最後の手段、というところ。
 光里のときよりも長考することが多く、慎重になっている。
 この考え癖のせいで、まだ猶予のあるジルとのことはずっと頭で考えてきてしまったんだろう。

 気づかせてくれたエレさんに感謝しながらも、わたしの心はまだ答えを教えてくれない。
 だから少しでも感じる努力をしようと、わたしはジルへの感情を思い返してみることにした。
 子どものころから、移り変わってきた彼への想い。
 その変化は、わたしと彼が積み重ねてきた関係そのもののように思えたから。

 小さいころは、正直言って子どもを口説くジルの神経が信じられなかった。気色悪いとすら思っていた。
 冗談だろうか? ただのネタだろうか? とも疑って、というか半ばそう決めつけて、彼のことを苦手視していた。
 兄さまを好きになってしまったことを見破ったジルが恐ろしかった。
 それなのに態度を変えることなく、甘い言葉を吐く彼が、何を考えているのかわからなかった。

 九歳の誕生日にプレゼントをもらったとき、冗談だと思っていたものが形になって目の前にさらされて、心の底から驚いた。
 ついで、子どもに何プロポーズなんてしてるんだ、と怒りがわいた。
 ジルに悪評が立つんじゃないかってわたしが気にしなくちゃいけないこともいい気分ではなかった。
 けれどそれより、ジルの想いが本当なのかもしれないと知れて、わたしは動揺した。
 だってわたしは、まだ十にも満たない子どもだったから。
 わたしに向けられたジルの底知れない想いを、怖いと感じた。

 たしか十歳の夏だったと思う。ハスが咲いていたから。
 兄さまと喧嘩をして落ち込んだジルを、わたしが慰めたことがあった。
 些細な事件だったけれど、あの時初めてちゃんとジルを見たようにわたしは思えた。
 慰めたことだけじゃなく、わたしがこの世界にいることにありがとう、とジルは言っていた。規模が大きすぎると思ったから覚えていた。
 ジルの前世を、ジルの想いを知った今なら、その言葉の重みがわかる。
 あの時から、いや、それ以前からずっと、ジルは本気だったんだ。

 十一歳、十二歳の誕生日に、またプレゼントをもらった。
 正直、わたしは対応に困った。
 捨てられないプレゼント。返せない想い。
 兄さまへの恋もだんだんと苦しくなっていたこともあって、憂鬱な思いは消えなかった。
 そんなとき、都に行くことになって。
 あそこで、様々な転換期を迎えたんだ。

 リュースと出会って、仲良くなり、そのことにジルが嫉妬して。
 行動に移したジルに動揺して、わたしは彼を拒んで。
 それによってジルは心情を吐露し、秘密を知るきっかけになった。
 兄さまが恋をしたのも、都でのことだった。

 都から帰ってきて、すぐにでも話そうと思っていたのに、ジルはわたしを避けだした。
 風邪を引いたジルの見舞いに行って、実感したのは、彼の危うさ。
 求められることをうれしいと、そう思ってしまった自分の心。
 どうしてそんなにわたしが世界の中心にいるんだろう。
 その疑問に答えてくれたのは、それからすぐのこと。
 彼が、元は狭間の番人だったから。

 ジルの秘密を知って、想いのありかを知って。
 それからはもう、前のように簡単に彼を拒むことができなくなってしまった。
 ジルの想いを疑うことがなくなって、真正面から向けられる想いに戸惑いを覚えて。
 子どもだから、という言い訳がかろうじての最後の砦。
 それすらも成人するまでしか通用しないものだ。

 そんな状況をある意味で悪化させたのが、イリーナさんの登場。
 都での兄さまの謎の行動の理由を知らしめてくれたイリーナさん。
 朗らかでかわいらしい兄の想い人の存在が、わたしの失恋を決定づけた。
 ジルはわたしを案じて、夜にわたしの部屋に忍び込み、優しく抱きしめてくれた。
 初めから終わりの見えていた恋。叶えるつもりもなかった恋。やっと終わらせられると、喜びもしたけれど。
 だからって、悲しくないかというと、そうじゃなかった。
 わたしはジルにすがりついて、思いきり泣いた。
 ジルはよくがんばったねと、わたしの頭をそっとなでてくれた。
 あの時わたしはたしかに、ジルのぬくもりに癒してもらったんだ。

 それからはもう、秘密を知ってから以上にジルへの態度が軟化せざるをえなかった。
 わたしを一番に想ってくれるジル。わたしを優先してくれるジル。
 重たいほどの想いを、少なからずうれしいと思えてしまって。
 子どもだから、という言い訳の中には、成人するときにはジルを好きになっているかもしれない、という可能性が隠れているのだと、気づかされてしまう。
 噂になっているのは困るが、それは周囲に勝手に決めつけられるのが嫌だという気持ちから来ているもので。
 ジルとの仲を完全に否定できるのか、今の自分にはわからない。

 好意を隠しもしないジルに、苦手意識のようなものはいまだに多少ありつつも、嫌悪感は特にない。
 むしろ好きか嫌いかでいえば好きに近いんだろう。
 たとえばの話、家のためにジルと結婚しろと言われれば、嫌々ながらもうなずけるくらいにはジルに好意は持っている。
 ちなみにその『嫌々ながら』は、相手がジルだということが嫌だというより、自分の意思関係なく相手を決められることへの不快感のほうが強い。
 そう思うと、自分は着実にジルにほだされていたんだなぁと改めて気づく。
 幼いころなら、ジルと結婚なんて鳥肌ものだっただろうに。

 気持ちなんて、何年もあればこうして変化していくもの。
 少しずつ、ジルとの距離を減らしていくわたしの心。
 来年のわたしの気持ちがどこを向いているのか、そんなの来年のわたしにしかわからない。
 恋が考えるものじゃなく、感じるものなのだとしたら。


 答えは、そのときになってみないとわからないんだろう。



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