五十六幕 待っているのは

 次の日に早速エレさんに電話して、相談したいことがあると話した。
 エレさんは頼られたことがうれしいのかとても積極的で、近いうちにわたしの家に来てくれることになった。
 本来なら相談するわたしのほうが出向くのが礼儀だと思ったけど、自分が行くというエレさんの強い希望があったからだ。
 その代わりにと、エレさんは一つリクエストをよこした。母さまとわたしが作った紅茶のパウンドケーキが食べたいと。
 母さまの作るお菓子がおいしいのは、シュア家のガーデンパーティーに来たことがある人ならみんな知っている。
 なるほど、と思いながらわたしはそれを承諾した。

 そして今日、エレさんは来た。
 わたしの部屋でお茶をしながら、少し惚気話を聞いたりして。
 紅茶のケーキにエレさんは瞳をキラキラと輝かせていて。
 それからすぐに本題に入って、わたしはジルとのことを色々と省きながら話した。
 子どもだからとつっぱねてきたこと。待つと言われたこと。けれど最近それでいいのかと思い始めていること。
 ジルにほだされてきていることを自覚しながらも、答えを出せるか自信がないこと。
 どう思いますか? とわたしが聞くと、エレさんは瞳を閉じて考え込む。
 数秒後、きれいな新緑の瞳に見つめられて、わたしはドキッとした。

「つまりエシィちゃんは、待ってと言ったにもかかわらず、期限が迫ってきて今さら怖気づいている。ということかしら?」

 キパッ、とエレさんはわたしの話を要約した。
 そこには一切の容赦がなく、否定を許さない響きがあった。
 わたしは急に自分が情けなくなる。
 エレさんの言葉はたしかに的を射ていて、うなずけるものだったから。

「うっ……そのとおりかもしれません」
「別にそれが悪いとは言ってないわよ。待たせることができるのはいい女の証拠だもの」

 エレさんはニッコリときれいな笑顔をたたえている。
 なんだか経験論という感じがするのは気のせいですか。
 もしかして、エレさんも待たせていたんだろうか。現在の婚約者を。
 ご愁傷さまです、と婚約者の方に言いたいところだけど、自分もジルを待たせていることを考えると複雑だ。

「ジルが待つと言ったんでしょう? 好きなだけ待たせればいいのよ」
「好きなだけ、って……」

 エレさんの言いようにわたしは苦笑いをこぼす。
 男の人に対して辛口というか、優しくないというか。
 一見おしとやかなエレさんの口から出た台詞とは思えない。
 見た目どおりじゃないことは、ここ数年の付き合いで充分なほどにわかってはいるけれど。

「どうせあの執念深いジルのことだもの。エシィちゃんが想いに応えてくれるまで、何年だって待つつもりでしょうし」

 エレさんの言葉に少し引っかかりを覚えて、わたしは口を開く。

「何年だって、ですか? でもわたしは来年成人しますよ?」
「……もしかしてエシィちゃん。勘違いしてないかしら」
「何をですか?」

 怪訝そうな様子のエレさんに、わたしは首をかしげる。
 わたしが来年十五歳になることはエレさんだって知っているだろうに。
 勘違いってなんのこと?

「ジルがあなたが成人するのを待っているのは、口説き落とすためのただの過程よ。子どもだからという理由で逃れられないようにするため。正々堂々とあなたに求婚するため」

 それくらいはわかっているつもりだ。
 最初、わたしは自分が子どもだからという理由でジルの言葉を信じなかった。
 だからジルは大人になるまで待つと言って、ずっと想いを示し続けてきてくれた。
 それからジルの秘密を知ったり色々あったりで、今のわたしにはジルの想いを疑う気持ちはない。
 それでも子どもだから受け入れられない、とつっぱねるわたしを、ジルは待っているんだ。
 理由が使えなくなるそのときを。

「まだわからない?」
「ええと……」

 問いかけてくるエレさんに、わたしは答えを返せない。
 まだ何か見落としているんだろうか。
 仕方ないわね、とばかりにエレさんは吐息を一つついて、それからわたしを見据える。

「エシィちゃんが成人して、もしジルの想いを拒んだとしても、そこで終わりではないということ。ジルが待っているのは、あなたの答えではないの。自分が抱いているのと同じ想いを、あなたが返してくれることを待っているのよ」

 目からウロコが落ちる、というのはこのことだと思う。
 わたしはぱちぱちと目を閉じたり開いたりして、エレさんの言葉をゆっくり飲み込んでいく。
 答えを出しても、そこは終わりではなく通過点。
 ジルは何度も、待つと言っていた。
 でも、それはわたしの答えではなく、わたしが彼を好きになるまで、ということだった?

「たしかに、いつまででも待つって言ってましたけど。そういう意味だったんですか?」
「そうだと思うわよ。あのジルが振られた程度であきらめるわけがないもの」
「それって……今と変わらないんじゃ」

 ジルを邪険に扱うわたしに、彼は堪えた様子もなく。
 わたしが子どものころからそれこそ日常のように口説いてきた。
 わたしが成人すれば、わたしが答えを出せばはっきりと関係が変わると思っていたのに、実はそうではなかったというなら。
 それは今とどう違うというんだろう。

「むしろ悪化するんじゃないかしら。だってあなたが成人するということは、今まであった大人と子どもという境界線がなくなるんだもの」

 エレさんは恐ろしい未来予想を口にした。
 今よりもひどくなるって、それはなんというか、絶望的じゃないだろうか。
 逃げきれる気がまったくしない。
 もし、ジルがあきらめることがあるとするなら。
 それはわたしがジルではない誰かと結婚したとき、だけなのかもしれない。

「……予想外というか、盲点でした」
「察しがいいようで、案外抜けているのね」

 くすくすと笑うエレさんに、わたしは力のない笑みしか返せない。
 待つという言葉の意味を、はっきりとジルに聞いたことはなかった。
 それが裏目に出たのかもしれない。
 もちろんエレさんの意見が正しいと確定しているわけじゃないけど、考えてみれば納得させられてしまうのもたしかで。
 ジルはあえてわたしに勘違いさせたのかもしれないと、そんなふうにさえ思えてくる。

「ずいぶんと答えを出すことにこだわっているようだけれど、ジルにとってあなたの答えは今後の挙動を決める指針でしかないと思うわ。だから好きなだけ悩んで、納得のいく答えを出せばいいのよ」

 やわらかな表情で、エレさんはそう言ってくれる。
 答えが出せないんじゃないかと不安なわたしをなだめるように。
 なんだかんだでエレさんは優しい。わたしのことを考えてくれている。
 大人だな、と思う。精神年齢はわたしのほうが上のはずなのに、エレさんには敵う気がしない。
 わたしよりもずっとジルのことをわかっているようだし。

「エレさんは、ジルのことをよく理解してるんですね」

 わたしは思ったままを告げてみた。
 ジルとたくさん接しているわたしにはわからなかったものを、エレさんはわたしの話だけでわかってしまった。
 観賞対象というのは、外見のことだけじゃなかったのかもしれない。
 むしろ観察対象って言うべきだったんじゃないかな。
 好きな人のことはなんでも知りたい、という思考回路だったのなら、乙女ですねエレさん。

「あら、焼きもち?」
「どうしてそうなるんですか!」

 からかうような響きを持つ言葉に、思わず声を荒げてしまう。
 冗談よ、とエレさんは微笑む。
 それくらいわかってるけど、否定せずにはいられなかった。

「私がジルのことを知っているのは、ずっと興味を持って見ていたからよ。ジルがあなたのことをよく知っているようにね」
「なるほど」

 たしかにジルはわたしのことを怖いくらいに知っている。
 普通に会話していても、次にわたしが何を言うかわかっているように反応する。わたしが故意に隠している感情すらあっさり見破る。
 それが観察の賜物だっていうなら、エレさんがジルのことを知っていることも不思議なことじゃないんだろう。
 そこまで一人の人間に興味を覚えられるのはすごいな、と思うけど。

「エレさんには色々と勝てそうにないです」
「あら、それは私が年上だからだわ。私があなたくらいのときなんて、あなたと比べられないくらい子どもっぽかったのよ」
「想像できません」
「本当よ。答えを出そうなんてしなかったもの」

 少しだけ寂しそうなエレさんの表情に、わたしはどう声をかけていいかわからなかった。
 それはジルへの恋心のことだろうか。六年も前から、ジルのことを見ていた?
 観賞対象だと、わたしと一緒にいるときのジルが好きだと、エレさんは言っていた。
 エレさんのジルへの思慕を、恋愛感情に区分していいのか、わたしには判断がつかない。
 でも、どんな形だったとしてもエレさんはジルを想っていたんだろう。
 答えを出そうとせずに、関係を変えようとせずに、ただ見つめ続けていたんだろう。

 今のエレさんが報われる恋をしていてよかった。
 そうじゃなかったら、今ごろわたしは罪悪感でいっぱいになってしまっていた。
 そもそも最初の時点で相談相手から真っ先に除外していたはず。
 同い年の婚約者と良好な関係を築けているエレさんだから、相談しようと思ったんだから。

「どうしてもわからないときは直感に頼ってしまうのも手よ。恋は頭で考えるものではないもの」

 恋を知るエレさんの言葉は、とても説得力があった。
 ジルとのことは、ずっと頭で考えてきた。
 だから答えが出なかったんだろうか。
 今さらながら、わたしは自分の間違いを悟った。

 考えてみれば、兄さまに恋をしたときも前世での恋も、頭で考えて出した答えじゃなかった。
 ちょっとしたことにドキドキして、わくわくして。そんな自分を自覚して。
 気づいたときには好きになっていた。
 心が、わたしを構成するすべてが、惹かれていた。
 きっとそれと同じこと。


 恋は頭で考えるものじゃない。
 うん、そのとおりだ。



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