絶体絶命、という言葉が頭を回る。
逃げようのない体勢に、それでもどうにかできないかな、と必死に考える。
嘘つき、とわたしは責めるようにジルを見上げた。
めでたく十四歳になったわたしは、誕生日にジルから花をもらった。
去年は何も贈ってこなかったからすっかり気を抜いていた。
これならいいでしょう? とばかりに微笑むジルを苦々しく思いながら、わたしは赤と黄色で構成された花束を受け取った。
たしかにこれならプロポーズにはならない。仲のいい人の誕生日の祝い方だ。
それでもそれを額面どおりに捉えてくれない人は、きっといる。
間違いなく噂を助長することだろう。
……それを狙ってるんだろうか、こいつは。
ついつい疑ってかかってしまうのは当然だと思う。
そんな誕生日から数日経って。
本を返すためだとかで兄さまに会いに来たらしいジルに、なぜかわたしは捕まっていた。
用事が終わったならすぐに帰ればいいものを、わざわざわたしの部屋を訪ねてきて。
何を考えているかわからないジルの笑みに嫌な予感がして、早々にお帰り願いたいと思っていたんだけれど。
気がついたら、壁際に追い詰められていた。
わたしを囲うように両手を壁についたジルは、獲物を狙う肉食獣の目をしていた。
「どういうつもりですか、ジル」
「どういうも何も、そのままだと思うけど」
動揺に気づかれないよう、キッとジルを睨む。
そのままだとするなら、今わたしは迫られているんだろう。
それこそどういうつもりで、とわたしは聞きたい。
窓から差し込む日の光で逆光になっていて、ジルの表情は読み取りにくい。
それでもその瞳に宿る危うい輝きと、口の端だけを上げて笑みの形を作っていることくらいはわかった。
笑っているようで、全然笑っていない。
楽しそうには見えないどころか、この上なく不機嫌そうだ。
「約束を破る気ですか?」
そういった意味で触れないと言ったのは半年以上も前のことだけど、今でも有効のはず。
実際あれからジルは触れ合いに関しては慎重になった。
相変わらず向けてくるまなざしは甘かったし、口は自重を知らなかったけれど。
たまに伸ばされる手は、わたしの頭をなでる程度でとどまっていた。
律儀に約束を守ってくれていることに、少しの申し訳なさと安堵を感じていたのに。
「触れてはいないよ」
「そういう問題じゃありません」
この体勢は、いただけない。
いくらここがわたしの部屋で、人の目がないとはいえ。
いや、だからこそ余計に悪いかもしれない。
密室に二人きりなんて、何が起きたっておかしくはない。
いざというときは、悲鳴でも上げてしまおうか。
田舎だからこそ周りは静かで、音は響く。
この部屋に特別な防音加工が施されているわけもなく、大声を上げれば誰かは気づくだろう。
ただ、そこまでしてしまえば、完全にジルを加害者にしてしまうということで。
一応まだ何もされていない身としては、そこまでは踏みきれない。
「僕にとってはそういう問題なんだ。これでも我慢しているんだから」
押し殺したような低い声。
手負いの獣がうなっているようだ、とわたしは思った。
「……何を、怒っているんですか?」
わたしはギラギラとした光を灯した海の色の瞳をまっすぐ見つめる。
窒息させられそうな色だ、と思った。
危うい揺らぎは、傷を内包しているように見える。
傷つけられた腹いせに、傷つけてしまおうというような、そんな痛々しさが見え隠れしていた。
「勝手に噂になっている君に」
「それは……」
「言っておくけど、僕とのではないよ」
あなたのせい、と言う前に、ジルは言葉をかぶせてきた。
なんのことだかわからずに、わたしはきょとんと目を丸くする。
「覚えがありません」
「それはそうだろうね。噂というのは本人のあずかり知らぬところで立って、広まるものだから」
「どういう噂ですか?」
少しの興味を覚え、ジルの様子をうかがいながらも聞いてみる。
「言いたくない」
「教えてくれもしない噂をわたしのせいにされても困ります」
かたくななジルに、わたしはむっとする。
勝手に噂になってるって言われても、そんなのわたしの責任じゃない。
ジルこそ勝手に怒って、勝手にこんなことをして。
その理由である噂の内容すら教えてくれないんじゃ、手の施しようもないじゃないか。
「……言葉にしたら本当になりそうで、嫌だ」
痛みに耐えるかのように、ジルは顔をしかめる。
細められた瞳の奥に、抑え込まれている激情が見える気がした。
ジルにとって、本当になってほしくない噂。
ジルが怒りを覚え、傷つくような噂。
そして、わたしについての噂。
その情報だけで、どんな噂なのかだいたいはわかってしまった。
たぶん、わたしとジルではない誰かが好き合っているだとか、わたしが誰かを想っているだとか、そういった噂だろう。
ジルとの噂があったのに、噂の中のわたしはずいぶんと恋に奔放な性格らしい。
「噂は、ただの噂です。あなたとわたしが付き合ってはいないように」
ただの事実を、若干の当てつけも含めて告げる。
二人の間の噂は放置したくせに、違う噂には馬鹿みたいに踊らされているジル。
わたしを想うがゆえ、なのかもしれないけど。
向けられる想いの深さが、やっぱりまだ、少し怖い。
「たぶん、浮かれていたんだ。弱っているところにつけ込んだとはいえ、君に拒まれなかったときからずっと」
それはわたしが兄さまに失恋したときのことだろうか。
イリーナさんが来た日、ジルの胸を借りて思いきり泣いた。
拒むどころか、あの時のわたしはジルのぬくもりに支えられていた。ジルを必要としていた。
自分が弱っているときだけ頼るだなんて、ずるいとわかっている。
けど、それを受け入れたジルはジルで、思惑のようなものがあったらしい。
つけ込んでるって、たしかにあの時も言っていたっけ。
「君はどんどんきれいになっていく。子どもだと思っていた周りも君の魅力に気づいていく。だから僕との噂が広まったのはちょうどいいと思った。真実になればいいと、願った」
淡々とした声は、ただ事実を口にしているだけなのだということをわたしに教えてくれる。
口説かれているような内容なのに、言葉にも表情にも熱はこもっていない。
「けど本当に、噂は噂でしかなかったね。なんの拘束力もない」
泣きそうにゆがめられたジルの顔に、わたしは戸惑いを隠せなかった。
噂は噂。それくらいジルもわかっているはず。
七十五日もすれば誰からも忘れられてしまうような、そんな頼りないものだ。
それでも、ただの噂でも、うれしかったんだろうか。
わたしとジルをつなぐ絆のように、思えたんだろうか。
けれど今は違う噂が立っているという。
ジルはそのことに打ちのめされてしまったんだろう。
結局は、噂でしかないのだと、思い知らされてしまったんだろう。
ジルが欲しかったのは他人が好き勝手に作り上げる嘘ではなく、本当のわたしとのつながり。
むなしさを覚えて、その新しい噂に不安を覚えて。
それで、現実のわたしに会いに来た。噂を否定してもらうために。
あとは……欲しいのは、約束だろうか。
「わたしは、まだ、待っていてくださいとしか言えません。それはジルにはつらいことなのかもしれません」
わたしが成人するまで、あと一年、ジルを待たせることになる。
その間、今みたいに傷つくことがあるかもしれない。
ジルはあまり強くない。わたしのことに関しては、呆れるほど些細なことで感情を揺らす。
それをわかっていながら待っていてほしいと言うのは、酷なことだとわかっている。
まして、ジルを受け入れられるともかぎらないのだから。
それでもわたしは、自分が子どもだからという固定観念を、崩すことはできない。
ジルが待つと言うのなら、それに甘えることしかできない。
「答えが出たら、きちんとジルに教えます。ジルにとっていいものであれ、悪いものであれ」
わたしにあげられるのは、この約束だけ。
いずれ答えを出すという、確約。
「だから、勝手に落ち込まないでください」
できるかぎり優しい声で、いたわるようなまなざしで、わたしは言った。
わたしからの言葉以外で傷つく必要なんて、どこにもない。そういう意味を込めて。
本当はわたし自身だってできることならジルを傷つけたくなんてない。
傷つく姿が見たくないというくらいには、ジルは近しい存在だ。
放っておけない、という思いが一番強いかもしれない。
猫をかぶらずにいられる相手でもあるし、認めるのは癪だけれど、大切な存在という枠に入っているんだと思う。
「……そういうことを言うから、期待しちゃうんだけどね」
ジルは困ったような笑みを浮かべる。
海の色の瞳にはさっきまでの危うい揺らぎは見当たらない。
そのことにほっとして、わたしは表情をゆるめる。
「期待するのは自由ですが、応えられるとはかぎりません」
「わかってる。充分なほどにね」
今回の噂の件を指しているのか、ジルは苦笑をこぼした。
壁から片一方の手を離し、それでそのままわたしの頭をなでる。
約束どおりの、“そういった意味を含まない”触れ方。
閉塞感のあった体勢に緊張していたわたしは、その優しいぬくもりに気が抜けた。
「ちゃんと、待つよ」
海の色の瞳が穏やかにわたしを映す。
今はもう、窒息させられそうだとは思わないけれど。
少しずつ少しずつ、引き込まれてしまっているのかもしれないと。
気づいたときには波に足を取られていて、手遅れなんじゃないかと。
そんな予感が、わたしの脳裏をよぎった。