四十三幕 降り積もる雪に溶かして

 秋が深まったかと思えば、あっというまに寒くなる。
 赤や黄色の木の葉が散って、冬が来た。

 その日は、特に寒い日だった。
 朝、ベッドから出るのがつらいくらいに。
 あと一月もしないで十三になるというのに、もっと寝ていたいとわがままを言いたくなった。
 寒いと朝がつらいのは、全年齢共通かもしれないけど。

 最初にそれに気づいたのは、庭の手入れをしていた使用人だった。
 雪が降り始めたから作業を中断した、という言葉に、わたしは上着を羽織って外に飛び出した。
 庭は家の中以上に寒かった。かちかちと歯が鳴るほどに。
 見上げると、真っ白い雲におおわれた空から、白い雪が降ってくる。

「雪だ……」

 感嘆のため息とともにつぶやくと、それは白い霧になって空気に溶けていった。
 静かに降り積もる雪。少しずつ、世界が白に染められていく。
 肌を刺すような寒さも気にならないくらい、雪に魅入った。

 ラニアに雪が降るのは、十年以上ぶり。
 わたし、エステルが雪を見るのは、初めて。
 前世で見た雪が、今、目の前にある。
 庭の木々が白におおわれて、別世界にいるような心地になっていく。
 手を出すと、雪が手のひらの上に落ちてくる。それはすぐに溶けて、冷たい滴になった。
 紺色のコートにも、雪がたくさんついている。濃い色だからか、よく見ると雪の結晶の形がわかった。
 どうしようもなく心が弾むのは、仕方のないことだと思う。

 ラニアは、都よりは少しだけ寒いとはいえ、基本は温暖な気候。
 雪なんて十年に一回くらいしか降らないし、降っても午後になれば溶けてしまう。
 はかないなぁ、と思う。今家の庭を白く染める雪も、数時間もすればすぐに水になってしまうんだ。
 でも、そのはかなさが、とてもきれいで心惹かれる。

 今、ラニアの領民はみんな、空を見上げているだろうか。
 子どもは、初めて見る雪にはしゃぎ回っているかもしれない。
 年ごろの少年少女は、愛しい人と幻想的な光景を楽しんでいるかもしれない。
 外で働く人は、この寒さに勘弁してもらいたいと思っているかもしれない。
 友人や知り合いの顔が次々に出てきて、今何を思っているだろうかと思案した。

 リゼは、絶対に瞳をキラキラとさせているだろうなぁ。窓に張りつく姿が簡単に想像できる。
 アンは、家の手伝いが大変そう。皿洗いだとか水仕事があるから。
 エレさんは、すました顔をしながらも、心の中ではきれいだって思っていそうだ。
 リュースは……たぶん、都では雪は降っていないだろうなぁ。あとで話したら見たかったって言うかな。
 ジルは雪だからって特に何も思わなそうだ。あ、でも寒いのは得意じゃないんだっけ。

 あとは……そうだな、イリーナさんは、きっと純粋にきれいだと喜んでくれそう。たぶん初めて見るだろうから。
 そこまで考えて、わたしはふっと苦笑した。
 イリーナさんが来てから、何が変わったということはない。
 兄さまがいつも機嫌がよくて、いろんな家で開かれるガーデンパーティーにイリーナさんが来るようになって、あとはたまにイリーナさんが我が家にも遊びに来るようになって。
 わかりやすい兄さまとイリーナさんを、みんなで微笑ましく思いながら見守っている。
 わたしは二人を心から祝福できるようになっていた。

 イリーナさんの生まれのことを気にする人が、いないわけじゃなかった。
 口さがない人というのはどこにでもいる。
 それでも、都と比べたら本当に少ないだろうし、ここでは兄さまを筆頭に、我が家の面々や公家の人たちを含め、味方ばかり。
 イリーナさんの笑顔が絶えることはなかった。
 むしろ、日に日に輝きを増していっているように見えた。
 それが兄さまのおかげなら、これほど誇らしいことはない。

 イリーナさんのしあわせを願っている人は、兄さまやわたしたちだけじゃない。
 あれから何度か、リュースからの手紙に彼女の名前が出てくる。
 それは純粋に従姉の穏やかな日々を願うもの。
 リュース自身も気にならないわけじゃないみたいだけど、とりわけ第二公女さまや大公さま、大公妃さまが心配しているらしい。
 元気ですよ、とわたしはいつも返している。イリーナさんの様子がうかがえるようなちょっとした近況を添えて。
 兄さまとのことは、わたしが勝手に話すのもどうかと思って、今のところは伏せているけれど。

 思えば、今年になってから色々なことが起きた。
 初めて都に行って、大公さまや公子さまに会って。
 ジルの秘密を知り、彼の想いの深さを垣間見て。
 兄さまに好きな人ができて、その人がラニアに住まうようになった。
 変化の多い年だった。
 その変化を、悪くないものだと思っているわたしがいる。
 悪くないと、そう素直に思えることが、うれしかった。

 ぱさり、という音と、自分にかかる重み。

 思考が現実に引き戻される。
 振り向けば、そこには心配そうな顔をした兄さま。

「風邪を引く」

 わたしにかけてくれたのは、自分のものよりもだいぶ大きい、兄さまの上着だ。
 もちろん兄さま自身も上着をちゃんと着ている。どうやらわたしのためにもう一着持ってきたみたい。
 コート二枚重ね状態のわたしは、兄さまの心配性っぷりに苦笑する。

「大丈夫ですよ、子どもは風の子ですから」
「風には強くとも、雪には弱いだろう。初めてなんだからな」

 的を射た返しに、わたしはうっとつまる。
 ラニアは基本的に四季が穏やかだから、すごく暑い日やすごく寒い日、というのはめずらしい。
 今日は間違いなくそのめずらしい日に分類されるわけで。
 兄さまが心配するのも、当然といえば当然なんだけど。

「……もうちょっと、ダメですか?」

 まだ家の中に戻る気になれなくて、わたしはおねだりしてみた。
 兄さまは白い息を吐いて、それからわたしの頭を優しくなでてくれた。
 しょうがないな、というように。
 わたしの頭に手をやりながら、兄さまもわたしと並んで空を仰ぐ。
 面倒見のいい兄さまは、わたしの雪景色観賞に付き合ってくれるらしい。

「何を考えていたんだ?」

 雪を見ながら、考え事にふけっていたことに気づかれたようだ。
 わたしは横に並んだ兄さまを見上げる。

「今年は色々あったなぁって」
「……そうだな」

 わたしが素直に答えると、兄さまは実感のこもった肯定をする。
 兄さまにとっての“色々”が、ほとんど誰に関することなのかは、わたしじゃなくってもわかるだろう。
 気持ちいいくらいに、兄さまの想いは一人に向かっている。
 微笑ましい、と八つも年下の妹の言葉ではないかもしれないけれど、思ってしまう。

「兄さま。今、しあわせですか?」

 唐突に、わたしは問いかけてみた。
 兄さまがどう答えるのか、わかっていながら。
 それでも、聞きたかった。

「ああ、しあわせだ」

 兄さまは訝しむことなく、しあわせそうに微笑みながら答えてくれた。
 その顔が見たかったんだ、とわたしは思った。
 ずっと、ずっと、兄さまのしあわせを考えてきた。
 わたしの恋心は、決して兄さまをしあわせにしたりはしない。
 だから隠す必要があった。伝えるわけにはいかなかった。

 兄さまが、しあわせだと言ってくれたから。
 これでよかったんだ、と納得できた。
 わたしの我慢も、痛みも、兄さまのしあわせのために必要なものだったんだ、と。
 報われたように、思えた。

「なら、よかったです。今年は最高の年でした」

 長い長い初恋に、やっと幕を下ろせた年。
 もう、胸は痛まない。心は悲鳴を上げない。
 大丈夫。自分に言い聞かせるわけでなく、本心からそう思える。

「おまえはどうだ?」
「え?」

 兄さまから問い返されて、わたしは目をぱちくりとさせる。

「しあわせか?」

 兄さまのスミレ色の瞳が、気遣わしげに細められる。
 ああ、そうか。やっぱり気づかれていたか。
 わたしの秘めた恋心に。
 バレているかも、と思ったことは何度かあった。
 何かを問いたげにわたしを見てきたり、困ったような笑みを向けられたときに。
 兄さまも、わたしと同じように思っていたのかもしれない。
 言葉にしなければ大丈夫、と。

 結局、わたしはこの想いを口にしたことはないし、兄さまも何も聞いてこなかった。
 だから、何もなかった、ということにできる。
 兄さまの望むように。

「……はい。ちゃんと、しあわせです」
「そうか」

 笑顔で答えるわたしに、兄さまはほっと息をつく。
 大丈夫だから、心配しないで。
 兄さまはわたしを振ってなんていない。
 わたしは兄さまの妹でいられて、しあわせ。
 本当に、心からそう思っているんだから。

 兄さまの想いを受け取る人へのわずかな嫉妬も、恋の終わりを悲しむ身勝手な自分も。
 涙と一緒に、全部流してしまったから。
 心行くまで泣かせてくれたジルには感謝しなきゃいけない。

 けれど、それでももし。
 まだ、兄さまの妹ではいられない感情が残っているというのなら。
 その想いを、音もなく降り積もる雪に溶かしてしまおう。
 水になって大地の栄養になればいい。
 春にきれいな花を咲かせて、イリーナさんを笑わせてくれればいい。
 そうしたら、兄さまももっとしあわせになれるだろうから。


 恋の終わりを、わたしは雪に託した。



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