秋が深まったかと思えば、あっというまに寒くなる。
赤や黄色の木の葉が散って、冬が来た。
その日は、特に寒い日だった。
朝、ベッドから出るのがつらいくらいに。
あと一月もしないで十三になるというのに、もっと寝ていたいとわがままを言いたくなった。
寒いと朝がつらいのは、全年齢共通かもしれないけど。
最初にそれに気づいたのは、庭の手入れをしていた使用人だった。
雪が降り始めたから作業を中断した、という言葉に、わたしは上着を羽織って外に飛び出した。
庭は家の中以上に寒かった。かちかちと歯が鳴るほどに。
見上げると、真っ白い雲におおわれた空から、白い雪が降ってくる。
「雪だ……」
感嘆のため息とともにつぶやくと、それは白い霧になって空気に溶けていった。
静かに降り積もる雪。少しずつ、世界が白に染められていく。
肌を刺すような寒さも気にならないくらい、雪に魅入った。
ラニアに雪が降るのは、十年以上ぶり。
わたし、エステルが雪を見るのは、初めて。
前世で見た雪が、今、目の前にある。
庭の木々が白におおわれて、別世界にいるような心地になっていく。
手を出すと、雪が手のひらの上に落ちてくる。それはすぐに溶けて、冷たい滴になった。
紺色のコートにも、雪がたくさんついている。濃い色だからか、よく見ると雪の結晶の形がわかった。
どうしようもなく心が弾むのは、仕方のないことだと思う。
ラニアは、都よりは少しだけ寒いとはいえ、基本は温暖な気候。
雪なんて十年に一回くらいしか降らないし、降っても午後になれば溶けてしまう。
はかないなぁ、と思う。今家の庭を白く染める雪も、数時間もすればすぐに水になってしまうんだ。
でも、そのはかなさが、とてもきれいで心惹かれる。
今、ラニアの領民はみんな、空を見上げているだろうか。
子どもは、初めて見る雪にはしゃぎ回っているかもしれない。
年ごろの少年少女は、愛しい人と幻想的な光景を楽しんでいるかもしれない。
外で働く人は、この寒さに勘弁してもらいたいと思っているかもしれない。
友人や知り合いの顔が次々に出てきて、今何を思っているだろうかと思案した。
リゼは、絶対に瞳をキラキラとさせているだろうなぁ。窓に張りつく姿が簡単に想像できる。
アンは、家の手伝いが大変そう。皿洗いだとか水仕事があるから。
エレさんは、すました顔をしながらも、心の中ではきれいだって思っていそうだ。
リュースは……たぶん、都では雪は降っていないだろうなぁ。あとで話したら見たかったって言うかな。
ジルは雪だからって特に何も思わなそうだ。あ、でも寒いのは得意じゃないんだっけ。
あとは……そうだな、イリーナさんは、きっと純粋にきれいだと喜んでくれそう。たぶん初めて見るだろうから。
そこまで考えて、わたしはふっと苦笑した。
イリーナさんが来てから、何が変わったということはない。
兄さまがいつも機嫌がよくて、いろんな家で開かれるガーデンパーティーにイリーナさんが来るようになって、あとはたまにイリーナさんが我が家にも遊びに来るようになって。
わかりやすい兄さまとイリーナさんを、みんなで微笑ましく思いながら見守っている。
わたしは二人を心から祝福できるようになっていた。
イリーナさんの生まれのことを気にする人が、いないわけじゃなかった。
口さがない人というのはどこにでもいる。
それでも、都と比べたら本当に少ないだろうし、ここでは兄さまを筆頭に、我が家の面々や公家の人たちを含め、味方ばかり。
イリーナさんの笑顔が絶えることはなかった。
むしろ、日に日に輝きを増していっているように見えた。
それが兄さまのおかげなら、これほど誇らしいことはない。
イリーナさんのしあわせを願っている人は、兄さまやわたしたちだけじゃない。
あれから何度か、リュースからの手紙に彼女の名前が出てくる。
それは純粋に従姉の穏やかな日々を願うもの。
リュース自身も気にならないわけじゃないみたいだけど、とりわけ第二公女さまや大公さま、大公妃さまが心配しているらしい。
元気ですよ、とわたしはいつも返している。イリーナさんの様子がうかがえるようなちょっとした近況を添えて。
兄さまとのことは、わたしが勝手に話すのもどうかと思って、今のところは伏せているけれど。
思えば、今年になってから色々なことが起きた。
初めて都に行って、大公さまや公子さまに会って。
ジルの秘密を知り、彼の想いの深さを垣間見て。
兄さまに好きな人ができて、その人がラニアに住まうようになった。
変化の多い年だった。
その変化を、悪くないものだと思っているわたしがいる。
悪くないと、そう素直に思えることが、うれしかった。
ぱさり、という音と、自分にかかる重み。
思考が現実に引き戻される。
振り向けば、そこには心配そうな顔をした兄さま。
「風邪を引く」
わたしにかけてくれたのは、自分のものよりもだいぶ大きい、兄さまの上着だ。
もちろん兄さま自身も上着をちゃんと着ている。どうやらわたしのためにもう一着持ってきたみたい。
コート二枚重ね状態のわたしは、兄さまの心配性っぷりに苦笑する。
「大丈夫ですよ、子どもは風の子ですから」
「風には強くとも、雪には弱いだろう。初めてなんだからな」
的を射た返しに、わたしはうっとつまる。
ラニアは基本的に四季が穏やかだから、すごく暑い日やすごく寒い日、というのはめずらしい。
今日は間違いなくそのめずらしい日に分類されるわけで。
兄さまが心配するのも、当然といえば当然なんだけど。
「……もうちょっと、ダメですか?」
まだ家の中に戻る気になれなくて、わたしはおねだりしてみた。
兄さまは白い息を吐いて、それからわたしの頭を優しくなでてくれた。
しょうがないな、というように。
わたしの頭に手をやりながら、兄さまもわたしと並んで空を仰ぐ。
面倒見のいい兄さまは、わたしの雪景色観賞に付き合ってくれるらしい。
「何を考えていたんだ?」
雪を見ながら、考え事にふけっていたことに気づかれたようだ。
わたしは横に並んだ兄さまを見上げる。
「今年は色々あったなぁって」
「……そうだな」
わたしが素直に答えると、兄さまは実感のこもった肯定をする。
兄さまにとっての“色々”が、ほとんど誰に関することなのかは、わたしじゃなくってもわかるだろう。
気持ちいいくらいに、兄さまの想いは一人に向かっている。
微笑ましい、と八つも年下の妹の言葉ではないかもしれないけれど、思ってしまう。
「兄さま。今、しあわせですか?」
唐突に、わたしは問いかけてみた。
兄さまがどう答えるのか、わかっていながら。
それでも、聞きたかった。
「ああ、しあわせだ」
兄さまは訝しむことなく、しあわせそうに微笑みながら答えてくれた。
その顔が見たかったんだ、とわたしは思った。
ずっと、ずっと、兄さまのしあわせを考えてきた。
わたしの恋心は、決して兄さまをしあわせにしたりはしない。
だから隠す必要があった。伝えるわけにはいかなかった。
兄さまが、しあわせだと言ってくれたから。
これでよかったんだ、と納得できた。
わたしの我慢も、痛みも、兄さまのしあわせのために必要なものだったんだ、と。
報われたように、思えた。
「なら、よかったです。今年は最高の年でした」
長い長い初恋に、やっと幕を下ろせた年。
もう、胸は痛まない。心は悲鳴を上げない。
大丈夫。自分に言い聞かせるわけでなく、本心からそう思える。
「おまえはどうだ?」
「え?」
兄さまから問い返されて、わたしは目をぱちくりとさせる。
「しあわせか?」
兄さまのスミレ色の瞳が、気遣わしげに細められる。
ああ、そうか。やっぱり気づかれていたか。
わたしの秘めた恋心に。
バレているかも、と思ったことは何度かあった。
何かを問いたげにわたしを見てきたり、困ったような笑みを向けられたときに。
兄さまも、わたしと同じように思っていたのかもしれない。
言葉にしなければ大丈夫、と。
結局、わたしはこの想いを口にしたことはないし、兄さまも何も聞いてこなかった。
だから、何もなかった、ということにできる。
兄さまの望むように。
「……はい。ちゃんと、しあわせです」
「そうか」
笑顔で答えるわたしに、兄さまはほっと息をつく。
大丈夫だから、心配しないで。
兄さまはわたしを振ってなんていない。
わたしは兄さまの妹でいられて、しあわせ。
本当に、心からそう思っているんだから。
兄さまの想いを受け取る人へのわずかな嫉妬も、恋の終わりを悲しむ身勝手な自分も。
涙と一緒に、全部流してしまったから。
心行くまで泣かせてくれたジルには感謝しなきゃいけない。
けれど、それでももし。
まだ、兄さまの妹ではいられない感情が残っているというのなら。
その想いを、音もなく降り積もる雪に溶かしてしまおう。
水になって大地の栄養になればいい。
春にきれいな花を咲かせて、イリーナさんを笑わせてくれればいい。
そうしたら、兄さまももっとしあわせになれるだろうから。
恋の終わりを、わたしは雪に託した。