四十二幕 よくがんばったね

 夕食までの時間を、わたしは自分の部屋で過ごすことにした。
 昼ごろまでの落ち込んでいた様子を一転させて、天に舞い上がっていきそうなくらい上機嫌な兄さまに、よかったですねと一言告げてから。
 今日の夕食時に、またイリーナさんのことが話に上がるだろう。
 ……その前に、わたしは気持ちを切り替えないといけない。

 部屋に戻って、気分を落ち着けるために紅茶を淹れる。
 自分のことは自分で、が基本のシュア家では、これも普通のこと。
 今は一人になりたかったから、我が家の教育方針がありがたかった。

 行儀悪くテーブルに肘をついて、今日のことを思い返す。
 兄さまと並んだイリーナさんは、誰から見てもお似合いだった。
 ほんわりとした空気をまといながら、ちょっと茶目っ気もあるイリーナさん。王族には思えないくらいフレンドリーだった。
 それは大公を狙おうとした父を持つ、というのが関係しているのかもしれない。どうしたって偉ぶれるような立場じゃないんだろう。そういう暗さを見せない朗らかさが素敵だと思う。
 イリーナさんなら、いずれ卿家を継ぐ兄さまを支えてくれる。
 そう、わたしは確信していた。

 だから、もう本当に終わりなんだ。
 この、最初から叶うはずなんてなかった恋は。
 やっと幕を引くことができるんだ。

 よかった、と思っているのは本心で。
 けれど納得できていない自分がどこかにいるのを感じる。
 どうしてだろう、もやもやしてしまうのは。
 兄さまに好きな人ができたことを、素直に祝福できないことが心苦しい。
 こんな思いをするくらいなら、告白して玉砕していたほうがよかったんじゃないかなんて、そんなことまで考えてしまう。
 そんなことをすれば下手したら家庭崩壊の危機だと、理性ではわかっているのに……。

 ぐるぐると回る思考。
 そんなわたしを現実に引き戻したのは、不可解な物音だった。
 コツンコツンと、何かがかたいものに当たる音。
 顔を上げて聞こえる方向を見てみると、そこには――。

「……ジル!?」

 窓を叩く人影に、わたしは目を丸くした。
 何をやってるんだあの人はっ!
 わたしの部屋は一階だから窓の外に人がいてもおかしくはない。
 ただ、その相手と、時間と、その他もろもろたくさんやばいものがあるということはたしかだ。
 さっさと帰してしまわないと、とわたしは駆け寄って窓を開く。

「こんばんは。こんな夜にごめんね」

 のほほんとそんなことを言うジルに、わたしは簡単に沸点を超える。

「というか、問題はそこじゃないでしょう!? なんで窓から現れるんですか! あなたが訪ねてきているなんてわたしは聞いてませんよ!?」
「忍び込んだ、ってことになるのかな。そんなつもりはなかったんだけど」
「客として玄関から入ってきていないなら、忍び込んだってことになるでしょうね」

 わたしの怒りを受け流すジルに、わたしはため息をつく。
 田舎だから、警備なんてそんなしっかりしているわけじゃない。門はあるのに、門番はいない。地方貴族の家なんてこんなもんだ。
 家人に気づかれないよう忍び込むなんてジルには造作もないだろう。けど、できるからってやっていいわけじゃない。

「急いでたんだよ。知らせを聞いたのがさっきだったから」
「知らせ……?」

 訝しむわたしに、ジルは気遣うような目を向けてくる。

「カラル家の令嬢がラニアに来たって。シュア家に訪ねていったはずだとね」

 そうジルに知らせたのは、きっとイーツ家のご当主さまだろう。
 公家に世話になるイリーナさんのことは、当然ジルの耳にも入るだろうとは思っていた。
 兄さまと年回りがちょうどいい、ということは、同い年のジルだって同じことだから。
 たとえ父が問題を起こしていたとしても、大公家の血というものは特別なものだ。あまり血筋というものを尊ばないプリルアラートでさえも。
 今のところ表向きは行儀見習い。兄さまとの関係がはっきりしていない以上、ジルにもチャンスはあるわけだ。

「それで、どうして急いで来たんですか」
「予感……というより、手持ちの情報から推測した結果、かな。アレクに好きな人ができたのは知っていたから」

 兄さまはジルには何か言っていたんだろうか。それともジルが勝手にそう判断したんだろうか。
 まあ、兄さまはわかりやすいからね。
 わたしだってそうじゃないだろうかと睨んでいたんだから、鋭いジルが気づいても不思議じゃない。

「エステルが、傷ついているんじゃないかなと思って」

 気遣うような視線の理由が、その言葉に含まれていた。
 本当に、何もかもお見通しらしい、この男は。
 わたしが六歳だかのときに忠告してきたっきり、何も言ってこなかったというのに。
 今になるまでずっと、兄さまのことを好きでいたんだろうと、確信を持っているような口ぶり。
 事実そのとおりだから、まったく腹の立つ。
 そんなにわかりやすいつもりなんてないのにな、わたし。

 急いでいたから、なんて嘘じゃないか。
 もうわたしも十二歳。普通に訪ねてきたら、こんな時間にジルと二人きりになんて、普通ならされない。
 だから、直接わたしのところまで忍んできたんだ。
 わたしを慰めるために。わたしの心のしこりを取り除くために。

「傷ついてなんていませんよ」
「そっか」

 わたしの答えに、ジルは微笑む。
 わかっているよと言わんばかりの表情がむかつく。

「ずっと、わかっていましたから」
「うん」

 この恋は叶わないもの。叶わせてはいけないもの。
 そう理解していた。
 いつかは終わりが来るんだから、そのときまで心に秘めておくだけならいいだろうと。

「これでよかったんです」
「そうだね」

 これで全部丸く収まる。
 まだ両片思いみたいなものかもしれないけれど、兄さまとイリーナさんに障害なんてない。
 これから時間をかけて愛を育んでいけばいいだろう。
 兄さまはわたしの想いを知らない。バレている可能性もあるけど、それでも知らないふりをしてくれているなら、問題はない。
 実の妹を振って気まずい思いをすることもなく、好きな人が会いに行ける距離にいる。
 これで、いいんだ。

「よくがんばったね」

 ジルはこの上なく優しい声で、そう言った。
 大きな手がわたしの頭をそっとなでる。いたわるように、慈しむように。
 その手の優しさに、わたしは思わず涙がこぼれた。
 次から次へと、涙は流れてくる。
 イリーナさんを目の当たりにしたときは、泣けなかったのに。
 人の前で、しかも相手はジルなのに、こんなみっともない姿を見せてしまうなんて。
 泣きやまなきゃと思っても、涙は止まってくれない。

 ぽろぽろと涙をこぼすわたしを、ジルは引き寄せる。
 混乱気味のわたしは抵抗もできずにジルに抱きしめられた。
 違う、抵抗できないんじゃない……したくないんだ。
 誰かに、誰にでもいいから、甘えたいと思ってしまっているんだ。

 子どもをなだめるような、思いやりのこもった手つきで、ジルはわたしの髪をすく。
 何度も、何度も。
 大切にされている、と感じさせてくれる。
 それが余計にわたしの涙腺を刺激した。

「ジル、わたしは妹でいられていた?」

 嗚咽混じりに、わたしは問いかける。

「ちゃんと妹だったよ」
「なら、よかった」

 ジルの答えに安心して、わたしは彼の胸に顔をうずめる。
 いつかはって、わかっていたことだ。
 早くそのときが来ればいいとも思っていた。
 でも、それと同時に、一生来なければいいとも……心の底では思ってしまっていたんだ。
 本当に、兄さまのことが好きだったから。

 わたしはずるい。
 ジルの気持ちにまだ応えられないくせに、こうしてジルに甘えている。ジルのぬくもりにすがっている。
 こんなのは、いけないのに。
 ジルのわたしへの想いを利用しているのと変わらない。
 それでも今だけは、甘えたくなってしまう。
 ぬくもりが差し出されているうちは、それにすがりたいと思ってしまう。

 もう少し、もう少しだけ。
 嗚咽がやむまで、わたしはジルに身を委ねていた。

「……ありがとう、ジル。もう、離して」

 ある程度落ち着いてから、わたしはそう言ってジルの胸を押し戻す。
 けれどジルの腕の力が強くなって、少しだけしか距離をあけることができなかった。
 ジルを見上げれば、相変わらず慈しむようなまなざしを向けてきている。

「別にいいよ、利用しても。僕だって弱ってるところにつけ込んでるんだから」
「やめてください。甘やかさないで」
「甘やかしてなんてない。僕がこうしていたいんだ」

 それはそれでどうかと思う。
 冷静にそんなことをつっこむ思考回路に、自分が平常運転に戻ってきているのを感じる。
 そうなれば今度は、この姿勢がとてもよろしくないものだということに気づく。
 あと三年もすれば結婚もできる年。男の人に抱きしめられている状況は、どう考えてもまずい。

「もう、本当に大丈夫ですから」

 しっかりとジルを見返して、わたしは言う。
 かなり泣いたからか、気分はすっきりしている。
 まだしばらくは引きずってしまうかもしれないけど、もとより最初からあきらめていた恋。
 大丈夫、ちゃんと終わらせられる。
 ジルにその手伝いをしてもらってしまったのは、予想外だったけれど。

「そう?」

 ジルは信じがたいというような顔をする。
 まだ乾いていない涙を指でそっとぬぐわれる。

「大丈夫です」

 わたしはもう一度、はっきりと答える。今度は笑みまで添えて。
 ジルもやっと表情をゆるめて、腕を放してくれた。
 けれど今度はわたしの肩をつかんで……あれ、このパターン前にもあったような。
 ジルの顔が近づいてきて、都でのことを思い出す。
 キスするつもりか! と逃げようとしたけど、がっちりとつかまれた肩に身動きが取れない。
 顔だけでも背けると、涙のあとを、やわらかなものがなぞっていく。
 最後にぺろっと舐められて、わたしは悲鳴にならない声を上げた。

「な……なに、を、ジル……」
「つけ込んでるって、言ったよね?」

 にやりと、悪魔の微笑みをジルは浮かべた。
 言ったけど、言ったけど、これはひどい!
 食べられるかと思った! ぞわってした! 確実に鳥肌立った!

「好きだよ、エステル」

 熱をはらんだ声と、海の色の瞳に、不覚にも胸が高鳴った。
 そりゃあジルは美形だし、愛の告白なんて慣れてるわけもないし。
 信じるかどうかとか、受け入れるかどうかなんて関係なく、照れてしまうのは当然だ、と思う。


 ジルの言葉に、また新たな混乱がわたしをおそう。
 暗い思いを引きずらずにすんだことだけは、喜ぶべきかもしれない。



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