四十幕 ずっとわかっていた

 ジルの正体を知ってからも、日常が変わることはなかった。
 相変わらず兄さまとジルは仲がいいし、ジルはわたしを口説いてくる。
 言葉や行動自体は少しだけ大人しくなったような気もするけど、悪化した部分もある。
 なんというか……わたしを見る目が前にもまして甘ったるい。
 いくらでも待つ、と言ったわりには、日々追い詰めようとしているようにしか思えないんだけども。

 あれから兄さまにも聞いてみたところ、ずいぶん前からジルの正体を知っていたらしい。
 ジルが前世を思い出したきっかけだったことから疑い始め、わたしに執着するジルに疑いを強め、思いきってジルに聞いたのはわたしが五歳のとき。
 あのころ兄さまがわたしを避けていたのは、ジルが正直に答えたことで、わたしの魂が元は双子の片割れだったことが確実になったから。
 そんな背景があったのか、と今さらながらわたしは納得した。

 知らなかった事実が次々に明らかになっても、日々は変わらず過ぎていく。
 夏が来たかと思えば、実りの秋はもう目の前。
 兄さまの二十一歳の誕生日まであと数日という日、それは来た。



 その時、わたしと兄さまは二人で庭を巡っていた。
 それというのも、どことなく元気のない兄さまを見かねて、秋の花を見ようとわたしが誘ったのだ。
 秋バラの時期はまだ早いけれど、夏の花が姿を隠し始めている庭に、ヒガンバナが咲き出したのをわたしは知っていた。
 ガーデンパーティーが開かれる場所よりもたくさん咲いているところを案内したかった。
 落ち込んでいる理由はわからないけど、できれば元気になってもらいたかった。

 もう少しでヒガンバナが見えるというところで、兄さまが後ろを振り返る。
 遅ればせながらわたしもこちらに駆けてくる足音に気づいた。
 兄さまを見ると、ピシリと固まっていた。
 その視線の先をたどれば、長い黒髪が印象的な女の人がいた。

「アレクさん!」
「イリーナ……!?」
「お久しぶりです。来ちゃいました」

 にっこり。かわいらしい笑みをこぼす女の人は、イリーナさんと言うらしい。
 下ろしたままの黒髪はつやつやとしていて、すごくきれいだ。あたたかみのある黄みの強い茶の瞳は、はちみつみたいに見える。
 見た目は成人したてくらいに見えるけれど、もしかしたら童顔なのかもしれない。
 でも……たぶん、わたしの勘違いでなければ、今年で十八歳だ。

「ひ、久しぶり」

 兄さまはぎこちなくそう返す。
 衝撃がまだ去っていないらしい。

「手紙、出せなくてごめんなさい。驚かせたかったんです」
「いや、かまわない。……驚いた」
「なら成功ですね。よかった」

 手紙、という単語に、わたしは閃いた。
 兄さまが元気がなかったのは、この人からの手紙が来なかったからだ。
 なんだ、そういうことだったのか。
 あっさりと解けた謎に、わたしは拍子抜けする。
 わたしが気を回さなくても、イリーナさんがいれば兄さまは元気いっぱいになるだろう。

「こんにちは、初めまして。アレクさんの妹さんですか?」

 イリーナさんは兄さまの隣のわたしに目を向けてくる。
 やさしそうで、けど芯はしっかりしている瞳。
 挨拶もせずに立ち去るつもりはなかったから、ちょうどいい。

「はい、エステル・シュアクリールと申します。お初にお目にかかります、イリーナさま」
「イリーナ・メル・カラルシフィンです。さまなんてつけないでください。仲良くしましょう?」

 やっぱり、とわたしは心の中でつぶやく。
 メル。それは王族にだけつけられるマークみたいなもの。
 イリーナという名前を聞いたときに、もしかしてとは思ったんだ。
 カラルシフィンは、現大公さまの弟に与えられた姓。
 イリーナさんは大公さまの姪で、リュシアンさま……じゃなかった、リュースの従姉妹だ。

「お忍びでしょうか? わたしは席を外しましょうか?」

 気を利かせようと、わたしがそう提案すると、イリーナさんは目を丸くする。
 そんな表情もかわいらしくて、好印象だ。

「……驚かないんですね」
「兄さまに会いにいらっしゃったんでしょう? 歓迎します」

 わたしが微笑みかけると、イリーナさんもうれしそうに笑みを浮かべた。
 兄さまが都にいる誰かと手紙をやりとりしていたのは知っていた。
 好きな人なのか、友人なのかまではわからなかったけれど、この様子を見れば前者だったんだと納得できる。

「……そうなのか?」

 兄さまは一人だけ事態を理解できていないといった様子だった。
 イリーナさんは白い頬をほのかに染めて、こくんとうなずく。

「ここに来たのは、シュア家にご挨拶に……なんですけど。アレクさんが庭に出るのを見て、つい追いかけちゃうくらいには、会いたかったです」

 赤らんだ頬でそう語るイリーナさんは、女のわたしから見ても百点満点の可憐さだ。
 案の定というか、兄さまは言葉を失った。日焼けしてるからわかりにくいけど、よく見ると耳が赤い。兄さま、ウブだなぁ。

「お付きの方はもう中にいらっしゃってるんでしょうか。イリーナさんが兄さまと一緒にいると説明するために、わたしは先に戻らせてもらいますね。どうぞごゆっくり」

 イリーナさんにそう言葉をかけてから、わたしは隣の兄さまの袖を引く。

「兄さま、ヒガンバナは道なりに行けば咲いてますから。イリーナさんを案内してあげてください」

 こっそりと兄さまにそう言うと、わたしはイリーナさんに頭を下げて、その場を去った。
 少し早足になってしまったことには、気づかれていないと思う。



「ようやく、か……」

 一階のテラスから屋敷に入って、戸を閉める。
 そこにもたれかかって、わたしはそう独り言をこぼした。

 兄さまがイリーナさんをどう想っているかなんて、確認する必要もなかった。
 彼女に向けるまなざし。そして、呼び方。
 今までわたしにだけだった名前呼びをしていたことこそ、イリーナさんが特別だという最たる証拠だ。

「長かったなぁ。でも、よかった」

 心から、わたしはそう思った。
 七年もずるずると続けていた片思いに、これでやっと幕が引ける。
 不思議と、涙は流れなかった。
 兄さまはイリーナさんにベタ惚れなようだし、イリーナさんも兄さまのことをちゃんと想ってくれているように見えた。
 優しそうなイリーナさんとは仲良くできそうな気がした。
 だから、悲しくなんてない。

 わたしは大丈夫。
 ずっとわかっていたことだから、大丈夫。
 この時をわたしは待っていたんだから……大丈夫。


 じくじくと痛む胸に、そうやって何度も、大丈夫だと言い聞かせた。



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