三十四幕 星の輝く夜の始まりの色

 ふう、とジルが息をはいた。
 まだこれで話が終わりなのかはわからないが、一区切りはついたらしい。

「質問、いいですか?」
「どうぞ」

 おずおずと手を上げると、ジルは微笑んで促す。

「わたしのせいで、狭間の番人ではいられなくなってしまった、ってことですか?」
「君のせいにするつもりはないけど、君の影響なのはたしかだね」

 わたしの問いはあっさりと肯定される。
 うわぁ、なんというか、申し訳ない。
 考えなしの言葉で、すごく大きな事態を引き起こしてしまったんだ。
 もう過ぎてしまったことだからどうしようもないし、そうしなかったらジルはここにいないわけだけど。
 でも、申し訳ないって思うのは普通だよね、この場合。

「あの次元の狭間で君が残した言葉が、僕に影響を与えた。時間の概念がなく、過去も未来も変わりなかった僕に、“君を知らない僕”と“君を知っている僕”の違いを作り出してしまった。君を知り、孤独を知った僕は、番人ではいられなくなってしまったんだ」

 ジルはゆっくりと、わたしの理解が及ぶようにかみ砕きながら話す。
 相変わらずファンタジーだけれど、あのときほどは抵抗はない。この世界にも今は魔法とかないけど、思想の違いがあるからかな。

「……ごめんなさい」
「謝るようなことじゃないよ」
「それだけじゃなくて、覚えていないことも。聞いてもやっぱり思い出せなくて……」

 そう、考えなしなことを言ってしまったにもかかわらず、それを覚えていないっていうのもわたし的にはダメージだった。
 本当に全然まったく覚えていないんだもの。
 言おうとした、のはかすかに覚えているんだけど……。

「覚えていたら逆にすごいと思うよ。寝言で何を言ったのか、覚えていないのと同じことだよ」
「でも……」

 何を言ったらいいのかわからなくて、結局口を閉ざす。
 前世は前世、今は今。
 エステルであるわたしが光里の言った言葉を申し訳なく思う必要はないのかもしれない。
 それでも、光里の言葉一つで、狭間の番人はずっと一人で寂しい思いをして、結果的に役目を放棄しなくちゃいけないことになった。
 ……光里を、大事だと思ってしまったから。

 あれ? これって実は口説き文句?
 ふと、そのことにわたしは気づいた。
 いやでも、前世は前世だからね。わたしに向けた口説き文句ってわけじゃないよね。
 淡々と説明されたから、そういった空気ではなかったし。
 うん、そうだ。と自分を納得させてから、わたしはジルに向き直る。
 何を考えていたのかわかったわけじゃないだろうけど、ジルは楽しそうにわたしを見ていた。

 すっとジルの手がわたしに伸ばされる。
 わたしの髪を一房取って、もてあそびだす。
 いつもならそんなこと許さないんだけど、ジルの瞳が真剣な色をたたえたままだから、どうにも拒否しにくい。

「君のもたらした衝撃は、僕にとってまさしく光だったよ。まぶしいのに、惹かれずにはいられない光」

 だからそれからの闇の深さには絶望した、とジルは苦笑する。
 そんなに軽く言えるようなことじゃないんだろう。
 何もない空間に一人でいるつらさなんて、普通の人間であるわたしには想像することもできない。
 そのときは人間じゃなかったから、わたしとは違うのかもしれないけど。
 光、だなんて言われても、その後のジルの苦しみを思えば、悲しいだけだ。

「君の瞳を見たとき、星の輝く夜の始まりの色だと思った。また、僕にあの時と同じ光を見せてくれるって、確信した。それはたった数年ですぐに証明されたよ」

 それは二歳のときのことだろうか。
 だから、僕のひかり、なんて言ったのか。
 あの夢が本当にあったことなのだと、確信できる。
 永遠にも近い時を一人で過ごして、この世界に生まれてから八年待って、やっと見つけた、と思ったんだろう。
 たった二歳のわたしに、光を見出してしまったんだろう。

「君と過ごす日々、それ自体が僕にとってのひかりだ」

 ジルの瞳はそらすことを許さないとばかりに、まっすぐわたしを射抜く。
 信号の青だとは、もう思わない。
 死の瞬間を思い出して、身がまえてしまったりはしない。
 どこまでも深い海のような色に、吸い寄せられそうになるだけ。

「わたしはエステルです。光里じゃありません」

 きっぱりと言ってから、ふと思いつく。
 そういえばジルは前世のわたしの名前を知っていたんだろうか。あのときに名乗った記憶はない。
 狭間の番人というなんともファンタジーな生き物だったんだから、わかってもおかしくはないのかな。

「知ってるよ。エステルはエステルだ。光里じゃない、僕のひかり」

 ジルはわたしの疑問に答えるように言って、わたしの髪に口づけを落とす。
 ああもう、やっぱり放させておけばよかった!
 強引に自分の髪をひっぱって、ジルの手から取り戻す。
 ちょっと痛かったけど、直前の恥ずかしさを思えばこれくらいどうってことない。

「ジルは、光里に言われた言葉が衝撃だったんでしょう? 光里を大事だと思ったんでしょう? 前世は前世、今のわたしはエステルです。思い違いをしてませんか?」

 もう一度、今度はもっと細かく言葉にして聞いてみる。
 ジルがわたしに執着している理由が、光里の言葉にあるのだとしたら、それはおかしい。
 わたしはエステル。光里のときの記憶を持ちつつも、光里とは別人。
 たしかに兄さまと違って思い出したのが早いのもあって、光里に似ている部分はあるかもしれない。
 それでも、やっぱりわたしは光里じゃない。一緒にされては困る。
 もういない人に重ねられても、わたしはそれに応えられない。

「僕が好きなのはエステルだよ。警戒心が強くて、なかなか僕の言葉を信じてくれないエステルが好きだ」

 何ですか、その言葉は。
 褒められているようにはとてもじゃないけど聞こえない。
 事実、褒めてなんていないんだろう。明らかに責められている。

「……たしかに、光里と重ねている部分もあるとは思う。それも仕方ない。だって、光里は君の一部だから」
「一部って……」
「そうだろう? 光里がいなかったら、きっと今の君はいない」

 それは、否定できない。
 何しろ思い出し始めたのは二歳だ。物心がついていくのと同じ時期に、体調を崩しながら光里の記憶を思い出していった。
 完全に理解したのは四歳のころだけど、どっちにしろ人格形成に深く関係する年頃だ。

「そう、かもしれませんけど……でも」
「光里も、エステルも、僕にとっては大事な存在なんだ。分けて考えることはできないし、必要もないと思ってる」

 切々と言い募るジルは、真剣そのもの。
 疑っているわたしのほうが悪者みたいだ。

 ……何を、疑っているんだろう、わたしは。
 何を疑う必要があるんだろう。
 ジルが好きなのが光里でもエステルでも、どっちにしろわたしは受け入れられないのに。
 だってわたしは……。

「……エステルは、今のわたしは、子どもです」

 逃げ、なのかもしれないけど、わたしはそう口にした。
 子どものわたしにいくら想いを語っても、無駄だと。
 ジルの目をまっすぐ見ることができなくて、視線をそらす。
 盛りの終わりかけたバラが寂しげに咲いている。

「エステルはそればかりだね。僕にとって年齢が関係ない理由は、もうわかってもらえたと思うんだけど」

 たしかにわかってしまった。わかりたくもなかったのに。
 狭間の番人だったジルには年齢という概念もそれほど意味を持たないんだろう。

「エステルが年齢を気にするなら、それでもいい。いくらでも待てるよ」

 ジルは聞き分けのない子どもをなだめるような、うれしくない優しさを含んだ声で言った。
 視界にジルの手が入ってきたかと思うと、両頬を包まれてジルのほうを向かされる。
 こわごわとジルに目を戻せば、真摯な光を宿した海の色の瞳と出会う。

「僕の想いだけは疑わないで。これは間違いなく君に向けたものだ」

 どこか必死にも見えるジル。
 嘘なんてどこにもないように、たしかに感じられる。
 ふと、都でリュシアンさま……リュースに言われた言葉を思い出した。

『つっぱねる前に人の話をよく聞け。理解しようという努力をしろ』

 努力、したほうがいいんだろうか。
 子どもを口説くなというのは、たしかに固定観念でもあるとは思う。
 子ども同士でも婚約できる世界だ。子どもだから恋愛対象として見たらいけないなんて決まりは、ない。性犯罪につながるなら別だけど。
 ジルの言葉を、今までつっぱねてばかりいた。
 それでは、いけないのかもしれない。

 海のような瞳に飲まれないように、しっかりと意思を込めてジルを見返す。
 ジルは大人しくわたしの言葉を待ってくれている。

「……努力は、します」

 ジルが向けてくる想いは、深くて、底が見えなくて。
 まだ、わたしには理解することはできないから。
 それだけしか、返せなかった。


 それだけでも、大きな進歩だったのかもしれなかった。



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