三十五幕 人はこうして生きていく

 自分が普通ではない、ということを、僕は乳幼児のときから理解していた。

 生まれた瞬間の記憶がある。
 不快というものを知って、ただ本能のままに泣いた。
 人として生まれたのだと理解したとき、前の自分が“何”だったのかも思い出した。

 なぜ、自分が狭間の番人だったということを覚えていたのかはわからない。
 前世といっていいのかはわからないが、生まれる前の記憶というものは、普通は持っていてはいけないものだ。
 世界による拒絶反応だろうか、とむりやり納得するしかなかった。
 本来はどの次元にも属さない、狭間を管理する番人。
 そもそも自分に人の器に収まる“魂”と呼ばれるものがあったことにすら驚いた。
 世界にはないはずの存在の記憶を消すことができなかったのかもしれない。

 生まれてからしばらくの間、僕は人を観察していた。
 狭間でたった一人で過ごしていた自分には、人という存在が興味深かった。
 母を見て、父を見て、人の暮らしを見た。
 優しくて気の弱い母。穏やかだけれど少し短気な父。贅沢はできないけれど飢えもしない、質素な生活。
 人はこうして生きていくのか、と僕は感心した。

 そして、間違えた。
 人を観察しながらも、人らしくふるまうということを思いつかなかった。
 自分も彼らの日常に組み込まれていた“人”なのだと、理解するのが遅すぎた。
 泣きもせず、笑いもしない。
 動かず、声を発さず、ただ自分たちを眺めるだけの息子。
 初めは手がかからない子だと思っていただけだった両親が気味悪がるまでに、それほど時間は必要なかった。



 僕が捨てられたのは、四歳のころ。
 この世界に流れる時間というものをすでに理解していたから、誰に教えてもらわずとも自分の年を知っていた。
 泣けとばかりに暴力を振るう父。それを止めることなくただ怯えるだけの母。
 ある日、旅行に行こうと嫌に明るい両親に連れられて、バスに乗って遠くの街まで来た。

「ここで待っていなさい」

 それが最後に聞いた、父の声だった。
 誰に声をかけられても僕はそこを動かなかった。待っていろ、と言われて、自分はうなずいたのだからと。
 待って、待って、待ち続けて。それでも父も母も戻ってはこなかった。
 気づいたときにはやわらかなベッドに寝かされていた。倒れたのだという。
 目が覚めたそこは、孤児院。捨てられたのだということを僕は遅まきながら理解した。

 なんの感慨もなかった。
 そうか、自分は捨てられたのか、と。
 やはり涙は出ず、悲しいという思いすらわいてはこない。
 かわいそうに、と涙をにじませた孤児院の先生が、どうしてそんなつらそうな顔をしているのかもわからなかった。

 孤児院で過ごした数年は、それまでよりも目まぐるしいものだった。
 何しろ、人が多い。
 あまり外に出されなかった幼少時代を過ごしていたので、観察する人が増えたことがうれしかった。うれしい、という感情を知った。
 自分と同年齢の子どもたちが話しているのを聞いて、そうか、それが普通なのかと気づいた。
 僕が初めて言葉を話した時、子どもたちは驚いていた。先生はなぜか泣いていた。
 先天性か心因性か、どちらにせよ話せないものだと思われていたらしい。
 熱心に今まで観察してきたおかげか、口語に困りはしなかった。

 寝て、起きて、食べて、動いて。
 普通の人、というものを孤児院で学んでいった。
 けれど、相変わらず僕は無表情だった。
 笑って、怒って、泣く。子どもというのは本当に欲望に忠実で、ころころと表情が変わる。
 行動は真似できる。けれど、表情は無理だった。

 ぴくりとも動かない表情を、気味悪がる子どもは少なくなかった。
 自然、子どもは寄りつかなくなる。
 いじめというほどのものではないが、僕は孤児院でも次第に孤立していった。

 寂しい、という感情を僕は理解できなかった。
 胸が少し痛むような、それでいてそこに空洞ができたような感覚。
 番人のときに感じた深い孤独に近いようで、そこまでは苦しくない。

 ただ、そういう感覚を覚えたとき、僕はいつも思い出した。
 まっすぐで、優しい、僕にひかりを見せてくれた魂を。

 大いなる理に組み込まれていた狭間の番人に、衝撃を与え、感情をもたらした存在。
 この世界にはあの魂が人として生きている。もしまだ生まれていなくても、いつかは生を受ける。
 そう知っているだけで、僕は世界を恨まずにいられた。
 そもそも恨む、というほどの強い思いも抱けなかったのだけれど。

 今もどこかで笑っているだろうか。泣いてはいないだろうか。
 会いたい、という考えにはいたらなかった。望みを持つということを知らなかったから。
 それでも、しあわせでいてほしいという願いは、ずっと心の内にあった。



 八歳のときが、転機だったのだろう
 孤児院の子どもも、普通の子どもと同じように学校に通う。
 元々人を観察することが好きだった僕は、学校もすぐにお気に入りの場所になった。
 学校だけじゃない。そこで行われる授業も興味深かった。
 孤児院でも勉強の時間というものはあった。
 けれどそれよりも詳しい内容に、すぐに僕はのめり込んでいった。
 気づけば、天才児、と呼ばれるようになっていた。

 僕は一度覚えたものを忘れにくかった。
 記憶力が人よりも優れているのだろうと言われた。
 生まれた瞬間の記憶すら残っているのだから、今さらといえば今さらだった。

「私の子にならないか」

 そう言われたのは、ある夏の日のことだった。
 むわっとした暑さが不快で、自分でも気づかないまま不機嫌になっていた僕に微笑みかけたのが、今の養父と養母だ。

「親は子を選べるものなのですか?」

 それなら、僕の両親は選び間違えたことになるだろう。こんな子どもらしくない子どもは誰も欲しくないはずだ。
 僕の言葉に、二人は驚いた顔をした。
 そして、なるほど、と男のほうが一つうなずく。

「君は本当に利口なようだ。たしかに、生まれてくる子どもは選べない。けれど、あとから家族になることは可能なのだよ。私は君と家族になりたい」

 男はそう言って、僕に手を伸ばしてきた。
 家族ということは、男のほうが父になるということだろう。
 父の手というのは僕にとって、自分を殴るものだった。
 この男はどうするんだろう、と眺めていると、その大きな手が僕の頭に置かれた。前後にすべるように動かされる。
 何をされたのか、なんでそんなことをするのか、僕にはわからなかった。
 ただ、不快ではないということだけしか。

「私の子にならないか」

 もう一度、男は言う。


 その言葉にうなずいた理由を、今ならうっすらとは理解できる。



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