三十二幕 会いたかった

 イーツ家に来たわたしたちは、当主さまに軽くご挨拶してから、ジルの部屋に通された。
 ベッドに横になっているジルの顔は赤く、呼吸も荒い。熱が高いようだ。

「ジル」

 兄さまが声をかけると、ジルは薄く瞳を開いた。

「アレク……?」
「見舞いに来た。平気か」
「それなりに、ね」

 ジルははかなげな笑みを浮かべる。
 ただの風邪なのに、なんだかこのままどうにかなってしまいそうな雰囲気だ。
 青緑の瞳がこちらを向いたかと思うと、ジルは固まる。
 兄さまの後ろから顔を覗かせていたわたしにやっと気づいたらしい。

「わたしも、お見舞いに来ました」

 わたしがそう声をかけても、ジルは何も返事をしない。
 ぼんやりとわたしを映す瞳からは、なんの感情も読み取れない。
 イライラとしそうになっていたわたしの耳に、ぽつりとこぼされた声が届く。

「夢、かな……」
「勝手に夢になんてしないでください」

 腹の立ったわたしは、思わずジルの額を軽く小突いた。
 目をぱちぱちと開いたり閉じたりするジルは、子どものように幼く見えた。
 夢じゃないととりあえずはわかってくれただろうか。
 次に何を言えばいいのか、考えていなかったわたしは、額から手をどけるタイミングを見失う。
 沈黙が重たい。そう感じているのはわたしだけかもしれないけれど。

「話したいことがあるなら、私は席を外そうか」

 微妙な空気に気づいたのか、兄さまは気を利かせてそう言ってくれた。
 話したいこと……あるんだろうか。
 自分でもよくわからない。顔を見るだけでいいなら、お見舞いはもうすんでいる。
 ただ、顔を見ただけで終わらせていいのか迷っているだけで。

「……すみません、兄さま。お願いします」
「いや、かまわない」

 わたしの頭をぽんぽんとなでて、兄さまは部屋を出ていった。
 兄さまには都でジルについて聞いている。
 何をわたしが考えているのか、だいたいはわかっているんだろう。
 謎については、とりあえず今は置いておくことにしているんだけども。

「エステル……?」

 ジルが不思議そうにわたしを見上げる。
 いつもと違う目線に、奇妙な違和感がある。

「珍しいですね、風邪なんて。たしかに季節の変わり目は風邪を引きやすいって言いますけど」

 額に乗せたままだった手で、汗をぬぐってやる。
 熱い額。高い熱。それくらいで汗が引くわけもない。
 バッグの中からハンカチを取り出して、それを額に当てる。

「雨が、降っていて……」

 独り言のように小さな声に、わたしは耳をかたむける。

「なんだか、濡れたくなって」
「――バカですか!?」

 思わずわたしは声を上げる。
 バカですか、じゃない、バカなんだ。
 初夏とはいえ、雨に濡れるのがよくないことくらい子どもでも知っている。
 それじゃあ、風邪を引いたのは自業自得ってことじゃないか。
 あまりの馬鹿さ加減に脱力してきて、わたしは息をつく。
 そんなわたしの何が面白かったのか、ジルはふっと笑みをはく。

「……もうずっと、馬鹿だよ。君がいないと、生きる理由がわからなくなるくらいに」

 ジルの熱い手が、わたしの手を取る。
 ハンカチを手放させてから、じゃれつくように頬をすりよせてきた。

「なんで、そんなに……」

 生きる理由だなんて、人に求めるものじゃない。
 そんなのは自分で勝手に決めて、その理由のために努力するものだと、わたしは思う。
 なのにジルは、わたしがいないと駄目なんだと、本気で思っているようだ。
 どう言葉にしたらいいのかわからない。

 依存されるのは、はっきり言ったら迷惑だ。生きる理由になんてされたくない。
 でも、そうつき放してしまうことも、できなかった。
 少しだけ、うれしいとも感じてしまったから。
 求められる、というのは、誰からであれ無条件にうれしいものだ。

「信じられないなんて、遊びだなんて言って、ごめんなさい。全部は信じられないけど、全部を信じていないわけでも、ないんです」

 うまくは伝えられない。
 それでも、黙ってはいられなくて、わたしは必死に言葉にした。

 全部は信じられないけど、全部を信じていないわけじゃない。
 口にしてから、そうだ、こういうことだ、とわたしは遅ればせながら理解した。
 ジルの言葉をそのまま信じるには、まだわたしは子どもだから。子どもだ、という一般常識が邪魔して、信じられずにいる。
 でも、ジルの言葉に嘘はないんだろう、と思っているわたしがいるのも、たしかで。
 今は、全部は無理だけど。信じていないわけじゃないんだ。

「やっぱり、夢かな。エステルが優しい」
「だから、夢じゃないですってば」

 ふふっとうれしそうにジルは笑う。
 まだ取られたままの手に息がかかってくすぐったい。

「拒絶されたくなくて……会うのが怖かった。でも、会いたかった……」

 吐息のようなかすかな声。
 頼りない声色とは真逆に、瞳はわたしにまっすぐ向けられている。
 その青緑を、信号の色だとはなぜか思わなかった。
 ただ、深くて、おぼれそうな色。

 そう、前世で一度だけ行った、南の島の海のような。
 青にも緑にも見える、澄みきった海の色。
 きれいで目を離せない色をしている。

「あなたに聞きたいことがあるんです。でも、それは元気になってからにしますから」

 その続きを言うのには、少しの勇気が必要で、私は言葉を切る。
 ジルは静かに聞いている。
 たぶん、わたしが何を聞きたいのかも見当がついているんだろう。

「早く、よくなってくださいね」

 こんな、思いやるような言葉をジルにかけるのは、柄じゃなくて照れる。
 具合が悪い人に対して、誰だって言うようなものだとわかってはいるけれど。
 相手がジルだというだけで、わたしは普通ではいられなくなる。
 うざったらしいと本気で思ったり。必要以上にツンケンしてしまったり。かと思えば、顔が見られないだけで調子が狂ったり。

「おまじない、してくれたら」
「しません」

 わたしは即座に却下する。
 おまじないという単語で、頬へのキスを思い出してしまったからだ。
 別にキスをしてと言われたわけじゃないけど、ジルならそう言い出しても不思議じゃない。

「やっぱりエステルだ」

 おかしそうに噴き出したジルは、いまだに顔は赤いけれど、元気そうに見えた。
 ちゃんと栄養を取って休んでいれば、数日で風邪も治るだろう。

 わたしはジルに手を放させて、バッグの中から、車の中で折っておいた折り鶴を出した。
 元気の出るビタミンカラーだ。
 ジルの手に押しつけるようにそれを渡すと、にっこりと笑ってやった。

「お見舞い品兼、わたしなりのおまじないです」

 本当のお見舞い品は、母さまから預かったものを当主さまに渡してある。
 これはオマケもオマケだ。お見舞いといえば折り鶴、というわたしの固定観念によって作られた産物。
 この部屋には誕生日に贈った折り紙の花束が宣言通り飾ってある。折り紙とはいえ手作りなのはジルでもわかるだろう。
 手の中の折り鶴とわたしを見比べて、ジルはふとやわらかな笑みをこぼす。

「ありがとう。今すぐに元気になるよ」
「それは無理だと思うので、ゆっくり養生してください」

 今すぐ元気になれるものなら、最初から風邪なんて引かない。
 呆れたように言うわたしに、ジルの手が伸びてくる。

「ありがとう、エステル」

 わたしの頬をそっとなでながら、ジルは笑みを深める。
 もう一度言わなくても、という言葉をわたしは飲み込んだ。
 折り鶴へのお礼じゃないような気がしたから。
 ジルが何を考えているのか、わたしにはほとんどわからない。
 でも、その表情は明らかにやわらかいから、わからないままでも別にいいかもしれない。

「どういたしまして」

 わたしは訳のわからないまま、そうとだけ返した。
 どんな顔をすればいいのかもわからない。


 ただ、この空気は悪くないな、とぼんやり思っていた。



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