三十一幕 とにかく一言謝らせろ

「兄さま、いいんですか?」

 ラニアに帰る日の早朝、見納めとばかりに城を眺める兄さまに、わたしは思わずそう聞いていた。

「何がだ」
「……いえ、なんでも」

 本当に兄さまに好きな人ができたのか、それが都の人なのか、なんてわからない。
 ただの憶測でしかないんだから、わたしに言えることなんてない。
 でも、兄さまはさっきから、城のほうばかり見ている。
 まるで、後ろ髪を引かれる理由が、城の中にあるように。

「二人とも、行くよ」
「はーい」

 父さまの声に、わたしは返事をして車の傍に行く。
 兄さまも隣を歩いていたけれど、ふともう一度城のほうに目をやった。

 その時、ふわり、とあたたかな風が吹いた。

 さっきまで風なんて全然なかったのに、と不思議に思ったのは、わたしだけじゃなかったらしい。
 風上のほうを振り向いた兄さまは、驚いたように目を見はっていた。
 どうしたんだろう、という疑問は、すぐに解決した。
 サクラ、だ。
 薄紅色の花びらが、ここまで運ばれてきていた。
 たしかに北の庭園からはそんなに離れてはいないけれど、すごい偶然だ。

 兄さまの表情が、惚けるようにやわらかなものになる。
 まるで、愛しい人を見るようなまなざし。
 それが向けられているのは、風に舞うサクラの花弁。
 ……誰を、思い出しているんだろう。
 兄さまの大好きなサクラの花を、誰に重ねているんだろう。

――いいんですか?

 もう一度、今度は心の中だけで兄さまに問いかける。
 城を気にする兄さまは、そこに大切なものを置いてきてしまったように心許なさそうな表情をしていた。
 もし、好きな人がそこにいるのなら。
 離れても、いいんだろうか。不安ではないんだろうか。

――大丈夫だ。

 甘さすら含んだ兄さまの微笑みは、そう言っているように見えた。


  * * * *


 ラニアに帰ってきました。
 ……不自然なくらいに、ジルに会いません。

 すでに二回、我が家でガーデンパーティーが開かれているにも関わらず、ジルはどちらにも欠席。
 勉強会がシュア家で行われているから、週に何度かは来ているはずなのに、夕食を一緒に食べることもなく、いつのまにか帰っている。
 こんにゃろう、避けてるな。
 そう気づくのにそれほど時間はかからなかった。

 避けられている、とわかれば、次に考えるのはどうやって出し抜くか、だ。
 このまま会わない、という選択肢はわたしにはない。
 謎を謎のままにしておきたくないし、傷つけてしまったことを謝りたいとも思う。
 とにかく一言謝らせろ、というのも変かもしれないけれど、気分的にはそんな感じだ。
 話さなかったら、顔を合わせなかったら、何も始まらない。

 気づくと春の花の時期は過ぎていて、バラの盛りになっていた。
 一ヶ月もジルの顔を見ないなんて初めてで、調子が狂う。
 いつもいつも、あっちから寄ってきていたのに。
 ちょっとわたしに拒絶されたくらいで、どうしてこんな。
 ……ちょっと、じゃなかったかもしれないけれど。

 でも、あのときはわたしだって冷静じゃなかったんだから、全部が全部本気だったわけじゃないって、普通はわかると思う。
 冷静さをなくさせたのは他でもないジルだったんだから。
 あんな、唇に近いところにキスをしたりなんて……今思い出したって叫びたくなる。
 過ぎたことだからもう気にしないようにするけど、もう一度くらいなら文句を言ってもいいだろうか。
 謝るほうが先なのは、もちろんのことだけれどね。

 そんなふうに、わたしは一人もんもんとした日々を過ごしていた。



 その日は、学校が午前だけで、早くに家に帰ってきていた。
 今日は勉強会の日だと聞いているから、ジルが帰る前に玄関で待ち伏せでもしていようか。
 そんなことを考えて、廊下を歩いていたわたしは、これから外出しようとしていた兄さまとばったり会った。

「兄さま、お出かけですか?」
「ああ、ジルの見舞いに行ってくる。留守を頼む」

 その言葉に、わたしは瞳をまたたかせた。

「……お見舞い? ジル、具合が悪いんですか?」

 初耳だった。なんとなく不安になる。
 ジルの不調で今日の勉強会がなくなるからと、父さまに聞いたってところだろうか。
 わたしにまで話さないところを見ると、それほど大変な病というわけでもないとは思うけれど。

「風邪をこじらせているようで、心配でな。私が行ってもできることはないが、顔だけでも見てこようかと」
「わたしも、ついていったらダメですか?」

 思わず、わたしはそう言っていた。
 何もできないのはわたしだって同じだ。
 それでも家にいるよりは、憎たらしい顔を見て安心できたらと思う。
 謝ったり、話を聞いたりだとかは、とりあえず置いておこう。

「行きたいのか?」

 兄さまはわたしの言葉に驚いたようだった。
 それもそうか。わたしがジルをうっとうしく思っているのは、兄さまが一番知っている。
 わたしからジルに会いに行くなんて、よほどの理由がないかぎりなかったもんね。
 でも、わたしとしてはお見舞いも理由になると思うんだ。

「はい、連れて行ってください」
「……わかった。父上には私から話しておく。支度ができたら私の部屋に来なさい」
「ありがとうございます、兄さま」

 何も聞くことなくそう言ってくれたことに、わたしは感謝した。
 服はこのままで大丈夫。ショールだけ羽織って、靴を外出用のものに履き替えればいいだろう。
 自分の部屋に逆戻りしながら、わたしは頭の中で出かけるための準備を思い描いた。


 どうしてこんなに不安なのか、自分でもよくわからなかった。



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