「あの雲は、エクレアかな。あれはモンブランっぽいよねぇ」
隣に座ったキリと一緒に、空に浮かぶ雲を指さして、次々に何かしらに当てはめていく。
まあ、キリはただ私が見立てているのを聞いてるだけなんだけどね。
もう実がほとんど残ってないブドウ。皮を剥いている途中のバナナ。クリームのこぼれたシュークリーム。
目に見える範囲の雲をだいたい見立て終わったあたりで、キリはふふふっと笑い声をあげた。
「お腹がすいてるんだね」
「人間、泣くとお腹がすくものなんです〜」
適当なことを言いながら、私もくすくす笑う。
ひととおり泣いたら、だいぶ気分がすっきりした。これも私の弱音を聞いてくれたキリのおかげだ。
あんなに泣いたのは子どものとき以来で、恥ずかしくてお礼もロクに言えてないけど。
きっとキリはわかってくれているだろうから、甘えてしまってる。
「そうなんだ、覚えておくよ」
覚えておいて何に使う気なんだか。
まさかまさかだけど、間違っても女を泣かす男にはなるなよ?
お姉ちゃんとの、いや、お母さん? との、約束だぞ。
「ねえ、キリ。魔王ってさぁ、強いのかな」
ぽつり、隣に聞こえるか聞こえないかの声で、つぶやいた。
気になるけど、答えを求めての問いかけだったけれど、答えが返ってこなければいいとも少し思った。
でも、キリはどうやら聞き取ってしまったみたいで、うーん、なんて声をもらした。
「そうだね、強いんじゃないかな」
「どのくらい?」
空を見上げたまま、隣に目を向けずに、私は問いを重ねる。
魔王とか、勇者とか、ファンタジーすぎて現実味がわかない。
それは、勇者としての超人的な身体能力があっても、同じことだった。
魔法が使えたりしたらまた話は変わったかもしれないけど、足が速くなったり、跳躍力がすごいことになったり、力を込めすぎてうっかり物を壊したりくらいじゃ、まだ足りない。
たったそれくらいの力で、教育係いわく残虐非道な魔王様を倒せるとは思えない。
「たとえば、魔物は入ってこられない王都の結界も、魔王なら簡単に壊せてしまう。たとえば、魔物が千体で三日かけて小さな国を滅ぼすとしたら、魔王はそれを三十分もあればできてしまう。魔王が本気を出したら、そもそもとっくに世界なんて滅びているんだよ」
話を聞いても、やっぱりいまいちピンと来ない。
どっかが魔物の被害にあったとか、魔物に滅ぼされたとか、話には聞いてても実感がわかなかった。そもそも魔物すら見たことないもんなぁ。
魔王の話も、魔物の話も、日本にいたとき、遠い国で戦争をしていることを聞いたときみたいな感覚だった。
でも、話を聞いてわかったことはある。というか、さらに疑問が増えたとも言う。
私は身体ごと隣を向いて、まだ空を眺めているキリに問いを投げかけた。
「じゃあ、魔王に世界を滅ぼす気はないの?」
本気になったら簡単に世界を滅ぼせるなら、世界が滅んでいない現状からすると、そういうことになる、よね?
魔王が目覚めてから十年間、この世界は持ちこたえている。それはどうして?
一般的に、魔王って世界を滅ぼそうとする存在なんだと私は理解していたんだけども。
教育係から聞いていた話とも食い違っている気がして、頭の上にいくつも疑問符が飛んだ。
千体の魔物よりも、何十倍も何百倍も強いらしい魔王は、いったい何を考えているんだろう。
「どうだろうね。どうでもいいんじゃないかな」
「どうでもいい?」
どういうことだ、それ。
だって、魔王なんじゃないの? 悪い存在なんじゃないの?
この世界を滅ぼそうとしてるから、魔王なんて呼ばれてるんじゃないの?
「滅びても、滅びなくても。魔王はきっとどうでもいいんだよ」
ずっと、空に視線を向けたまま、キリは答える。
口元にはうっすら笑みすら浮かべて。
キリの言葉の意味を、きっと私は半分も理解できていない。
でも、キリの瞳が、空を映していないことだけは、なんとなくわかった。
何を見ているのか。何を、考えているのか。
私にそれを知る権利はあるのかな。
「魔王って、何?」
「魔王は悪しき存在。魔王が存在するだけで、この世界は汚れていく。魔王の意志は関係ない。この世界を救うためには、魔王を倒すしかないんだ」
それって、なんか……。
思い浮かんでしまった感情を、私はそっとしまいこんだ。
勇者も魔王も、私には関係ない。
私は魔王を倒すつもりはないし、この世界を救うつもりはない。
この世界のことに、魔王に、心を動かされたりはしない。
けど、もう、すでに手遅れだったりもするんだ。
魔王を倒さなかったら、世界は滅ぶ。この世界が滅びたら、帰り方のわからない私も死んでしまう。
少年術士の言葉がシミみたいに頭に残っている。
そうなったら、キリも死んじゃうんだよなぁ、って思ったら、なんだか。
イヤだなぁ、って思っちゃう自分がいて。
もうすでにこの世界のことに心を動かされていることに、気づいてしまう。
「……キリも、私に魔王を倒してほしい?」
その問いを口にするには、相当の勇気を必要とした。
誰に頼まれても、全力で拒否してきた。自分にできるとは思わなかったから。関係ない世界を救うためなんかに、命を無駄にはしたくなかったから。
でも、キリは。キリだけは、関係ないなんて思えない。もう、それくらい心を許してしまっている。
うん、って言われたら、私はどうするんだろうか。
「うーん……」
さっきから何を尋ねてもちゃんと質問に答えてくれていたキリが、初めて言いよどんだ。
空から視線を落として、地面を眺めて数秒、こちらに目を向ける。
そうして、新緑の瞳が、やわらかく細められた。
「僕は、マリがやりたくないならやらなくてもいいと思うよ」
それは半ば、予想していたとおりの答えだった。
でも、やっぱり、驚いてしまった。
キリは勇者にも魔王にも、この世界の行方にも無関心だ。そのことはなんとなく、わかっていた。
その理由がわからないから、私にはキリが奇妙に見えた。
魔王を倒してくれ、と言ってくる人たちのほうが、よっぽど素直でわかりやすい。聞く気はないけど、理解もできた。
「どうして……?」
「やる気がない人が嫌々やって、どうにかできることでもないだろうし。世界を救う、なんてさ」
たしかに、それはそうかもしれないけれど。
そういう問題でもないような気がするんだけどな。
魔王は世界を滅ぼす悪い奴だ。と、ずっと聞かされてきた。魔王は悪、勇者は善。バカの一つ覚えみたいに、みんながみんな同じことを言う。
そんな中で、キリの話す魔王は、他の誰が語る魔王とも違った。キリの知る魔王は、キリは、どこか異質だ。
キリにとって、魔王は悪ではないの? 勇者は世界を救う存在ではないの?
「キリは、この世界がどうなってもいいの?」
いつも私のしたいようにさせてくれるキリ。いつも私の意志を優先してくれるキリ。
勇者としての役目すらも。
キリは、いったい何を考えているんだろう。
知りたい、と思った。キリの心の中を覗きたいと思った。
「この世界より、マリアのほうが大事だよ」
ふふふ、とキリはそれはそれはきれいな笑みをこぼす。
まぎれもない本心なのだと、キリの瞳の輝きが告げていた。
そうして、その夜、私は夢を見た。
だだっ広い図書館に、ぽつんと私だけがいる夢。
天上まで届く本棚。並んでいるのは全部、しろい背表紙の辞書みたいに分厚い本。
私はそのうちの一冊に手を伸ばした。
でも、結局、本を手に取ることなく腕を下ろした。
こわい、と思ってしまったから。
知るのは、怖いことだ。変わってしまうということだ。
何を知ろうとしたのか、何が怖かったのか。
目を覚ましたときにはもう、覚えてはいなかったけれど。