06 「大丈夫、マリは絶対に帰れる」

「むかつく。むかつくむかつくむかつくっ」

 ぶつぶつぶつぶつ、同じ言葉を何度もつぶやきながらあてどなく走った。
 声に出せば出すほど苛立ちは増してくる。
 腹の中で虫が増殖しながら、飛んだり跳ねたりイナバウアーしたりしているみたいだ。
 途中、何人か侍女さんなんかとすれ違った気がするけど、私の足が速すぎて誰だかなんていちいち確認できない。
 ってことは、向こうからも私の顔は見えないだろうから、結果的にはよかったかもしれない。
 見られたくないもんね。泣くの我慢してて、でも今にも決壊しそうで、ぐっちゃぐちゃな顔なんて。

 王城の隅のほう、だいぶ辺鄙なとこまでやってきて、ようやく私は足を止めた。
 城壁に寄りかかって、空を見上げる。
 壁と城とで影ができて、薄暗い中、空は相も変わらずムカつくくらい青々としている。
 空の色は、一緒だなぁ。
 流れている雲だって、特に代わり映えはしない。もっとファンタジーっぽい、たとえば虹色の雲とか流れてくればいいのに。
 ああ、あの雲は翼を広げたツバメみたいだ。あれはアイスクリーム。あれは……マカロンっていうことにしておこう。
 お菓子率が高いのは、乱入者が現れたせいで中途半端に残してしまったお茶菓子に未練があるからでは、ない。たぶん。

 あのほそ〜くたなびいてる雲は、キリのサラサラつやつやの髪みたいだな。
 そんなことを考えていたせいではないと思うけども。
 噂をすれば影、というもので。

「マリア」

 私を呼ぶ、聞き間違えようのない優しい声が、風に乗って耳に届いた。

「なんでこんなとこにいるの……」

 我ながら、迷子の子どもみたいな、情けなくて弱々しい声が出た。
 どうしてこのタイミングで、こんなところに、キリがいるのか。
 お坊ちゃんとはいえ、どうやって城内に入ったのか不思議でしょうがないけれど、それより何より、誰にも見られたくなかった姿を見られたことが、恥ずかしくて、逃げたい。

「マリが泣いてる気がして」

 一歩一歩私に近づいてくるキリは、私が逃げるなんて想像もしていないみたいにゆっくりとした足取りで。
 私を見下ろすまなざしはとても静かで穏やかで、ぐちゃぐちゃになっていた心が少しだけ、凪いだ。
 照れよりも、情けなさよりも、もっと違うものが、ぴょっこりと顔を出してくる。

「泣いてないもん、悔しいだけ」
「そうかな。つらい、って顔してる」

 目の前までやってきたキリが、膝を折る。
 私よりも白い手が伸びてきて、そっと、私の頬に触れた。
 身長はあんまり変わらなくても、手は、男のひとのものなんだなって、なぜだか意識した。
 弟みたい、とは、思えなかった。

「だいじょうぶ?」

 静かな、静かな声が、耳を打つ。
 問いかけなのか、確認なのか。
 たいして意味なんてない言葉だったかもしれないけれど。
 ぶわっ、とこみ上げてきたものを、止めることはできなかった。

「もう、やだ。全部やだ」

 張りつめていたものが、一気に決壊した。
 上限ギリギリまでせき止めていたダムみたいに、ドバーッと目から汗ではない水分がこぼれ落ちていく。

「全部全部、全部、やだ。帰りたい。帰りたい帰りたいかえりたい……」

 涙と一緒に、不満が、願いが、こぼれる。
 ずっとずっと、怖かった。
 知らない土地が。家族も友だちも、知人が誰一人いない環境が。
 勇者だ魔王だ、当たり前のように示唆される争いの種が。
 全部怖くて、イヤでイヤで仕方なかった。
 毎夜、願った。朝になったらこの悪夢が終わっていますように。
 毎朝、目が覚めて、変わらない天井を見て、ため息をついた。嘆くのも次第におっくうになった。
 帰りたい。帰りたい。でも、帰り方がわからない。
 悪い夢の終わらせ方が、わからない。

「私がいけないの? 勇者は、魔王を倒さなきゃ、ダメなの? 私はただ、家に帰ろうとしてただけ。生姜焼きが食べたかっただけ。いつもとおんなじ日常が欲しかった。こんな世界、来たくなんて、なかった。私は、勇者になんて、なりたくなかった!」

 嗚咽混じりの声はとても聞けたもんじゃないだろうけど、そんなのどうでもよかった。聞かせたいわけでもなかった。
 ただ、吐き出したかった。
 涙の膜の向こうで、キリがじっと私を見ている気配がする。
 私の弱音を、私の本音を、許してくれているみたいに、私には思えた。

「勝手に喚んで、勝手に役目押しつけて、誰も彼も、魔王を倒せ魔王を倒せ、倒せ倒せ倒せ! もう、うんっざり……!」

 腹の底から、凝り固まった黒い淀みを吐き出すみたいに、声を放った。
 ぜえ、ぜえ、肩で息をしながらいまだ止まらない涙を拭う。
 決壊したダムは完全に制御不能になっていて、涙ってどうやったら止められるんだっけ、なんてアホみたいな疑問が浮かぶ。
 あふれ出た感情の収めどころも、自分ではもうわからない。
 ただ、心の中心に存在しているのは、とてもシンプルな、一つの願い。

「かえりたいよう……」

 ああ、本当にこれじゃ迷子の子どもみたいだ。と、頭の片隅で冷静な自分が思う。弟には絶対に見せられない。
 私はキリよりもお姉さんなのに。こんな情けないところを見せて何してるんだろう。
 そんな冷静な自分はすぐに脇に追いやられて、感情的な自分が我が物顔で闊歩する。
 甘えさせろ〜、と我先にキリに飛びついていこうとする。
 年下とは思えない、落ち着いた雰囲気がそうさせるんだろう。
 キリが、この場に来たときから、私は、甘えさせてもらいたくてどうしようもなくなっていた。

「大丈夫」

 ぐしゃり、とキリは唐突に私の髪をかき混ぜ始めた。
 ぐしゃりぐしゃり。どんどん髪がボサボサになっていくのがわかる。

「大丈夫、マリは絶対に帰れる」

 私の髪をぐしゃぐしゃにしながら、キリは断言する。
 何をしてるんだろう、と数秒思案して、ああそうか、と合点がいった。
 頭を撫でて、慰めてくれているんだ。
 キリは頭を撫でるのがとんでもなく下手だなぁ、と少しだけ笑いそうになった。
 おかげで、ようやくダムが本来の役割を思い出してくれた。

「……どこにそんな保証があるの?」

 妙に自信ありげな様子が不思議で、私は問いかけてみた。
 まだ少しぼやける視界の中、キリはきょとんとした顔をしたあと、ゆるりと微笑んだ。

「勘、かな」
「何それ、意味ない」
「信じることは大切でしょ」

 弧を描いた唇は、意味深長な言葉を紡ぐ。
 何事も、信じるところから始めよう。信じなければ始まらない、ってことかな。
 帰れる、と信じていれば、それだけで力になることもあるだろうか。

「そう……かな」
「違う?」

 首をかしげて私をうかがうキリは、いつもながら少女みたいにかわいらしい。
 すっかり毒気を抜かれてしまって、意味もなく笑みがこぼれてきた。

「……うん、帰れる。そうだね、私は絶対に帰れる」

 握りこぶしを作って、自分に言い聞かせるみたいに、繰り返す。
 帰れる。私は帰れる。そう信じるだけで、こんなにも心強い。

「ムカつくやつは一発殴ってから帰る!」

 それから一言、大事なことを付け足した。少年術士のことはもちろん許してません。誰が許してやるものか。
 しゃっくりみたいなものはまだ収まらないし、頬は乾いた涙でカピカピしてるし、喉がガラガラになってるし。
 イヤなことずくめだけど、不思議と気分は悪くなかった。
 今までため込んでいたものを、全部とまではいかなくても、半分以上は外に出せたからだろう。

「よかった、いつものマリアだ」

 ふふふ、とキリが少女のように愛らしく笑う。
 でも、キリの手の大きさを、手のぬくもりを、私は覚えている。きっと忘れない。

 一見ヒロインのようなキリは、どうやら私のヒーローでもあるらしい。



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