『もうどうにもならないって思ったら、逃げちゃいなさい。逃げることは悪いことじゃないの。あきらめることは悪いことじゃないの。自分を守るために、逃げなきゃいけないこともあるの。逃げる勇気も、大事なのよ』
小学二年生のとき、悪ガキにいじめられた私に対して、お母さんが言った言葉だ。
クラスの一部の男子が悪ふざけで私をからかうようになって、当時から気の強かった私が応戦してしまったせいでそれが悪化した。
ある男子が私を突き飛ばして、運悪く水たまりにドボンした。当然私は濡れて帰って、家族を心配させて。なかなかわけを話さなかった私から、母さんは根気強く聞き出した。そして、先の言葉だ。
そっか、逃げてもいいんだ。それを知って初めて、私は泣いた。怖かったのだと、傷ついたのだと、そのときようやく気づいた。
世界が変わったように思えた。世界の怖さと、優しさを知った。
私はそのとき、逃げることを覚えた。
逃げることは悪じゃない。逃げなきゃいけないときもある。
だから私は魔王討伐から逃げる。魔王なんて倒せるわけがない。そう、声に出して言う。
たとえそれで、この世界の人たちが困惑しても、絶望しても。
だってそうでしょ? ただの女子高生に何ができるっていうの?
命の取ったり取られたりなんて、経験はない。当たり前だ。現代日本でそんなの、普通に生活してたらあるわけない。
私に魔王を倒すなんて、絶対に無理。
これは、逃げてもいいことだ。
……そう、だよね?
「魔王がいるとは思えないくらい平和だよね」
私に与えられた部屋で、侍女さんからお茶とお菓子をもらいながら私は独り言のようにつぶやいた。
魔王はここからだいぶ離れた、大陸の隅にある広い森にいるらしい。沈黙の森とかいうありがちなネーミングがついていて、その中央に建っている魔王城から魔物を操っている。
魔物は動物や虫に似た姿だったりするけど、魔王だけは人型。
教育係いわく、文献にはそう書かれています、だとかで。誰も見たことはないらしいけど。
そんなの、倒せるわけないよなぁ。
人殺し、にはなりたくないもんなぁ。
「マリア様が来てくださいましたから。みな、勇者様の来訪にようやく息をつけるようになったのですよ。ありがとうございます、マリア様」
にっこり、と完璧な笑みを浮かべる、侍女A。ごめんね侍女さん多すぎて名前なんて覚えてられない。
「なんであなたがお礼を言うの?」
私は何もしてないのに、お礼を言うなんて変だ。
むしろ、文句を言うほうが正しい。勝手に連れてこられたとはいえ、現状タダ飯食らいだからね。
寝て起きて、ご飯食べて、この世界のこと教えてもらいつつダラダラして、こうるさいお貴族様方と追いかけっこして、城を抜け出してはキリと遊んで。
ほら、本当になんにもしてない。
「ティマの恋人は騎士団に入っているんですよ」
侍女Bが横から私に教えてくれた。
騎士団、騎士団。なんか教育係が前に言っていたような気がする。
「あー、王都とか主要都市を守ったり、魔物を討伐したりするんだっけ?」
「はい、任務で遠くへ行くことも多いので、心配なのです。特に、魔物はとても凶暴だと聞きますので……」
なるほど、ね。
恋人がそんな危険な仕事についてたら、心配になるのもわからなくもない。
勇者が魔王を退治してくれるなら、もう安心だもんね。お礼も言いたくなるかもしれないね。私は退治する気ないけどね。
けど、そっか。
恋人が無事ですむなら、私がどうなったって、いいんだろうね。
そりゃそうだ。誰だって自分の大切な人たちを優先するのは当然のこと。違う世界から来た、自分とはなんの関わりもない子ども一人と比べられるもんじゃない。
そういうものだよね、人間って。
わかってた。わかってたけど。
……やんなっちゃうなぁ。
「そんな凶暴な魔物を、たった一人の小娘がどうにかできるって、本当に思ってる?」
つい、私は真顔で侍女さんに問いかけてしまった。
侍女Aが言葉を詰まらせたのがわかった。答えにくいよね。意地悪な質問しちゃったよね。
ごめんね。でも、優しくないのはお互いさまだよね。
「で、ですが、マリア様は勇者様です」
「そうみたいだね〜、そっちにとっては」
もう話してるのもバカバカしくなって、適当に流した。
あ〜あ、しらけちゃったな。
別に申し訳ないとも思わない。勝手に喚んどいて勝手に期待をかけてきてるのはそっちだから。そっちの都合なんて私には関係ないから。
この世界にとっては私は勇者。でも、本当の私はただの女子高生。
たった一人の女子高生に世界の命運を託す? 何考えてんの? そんなのラノベだけで充分だ。ばっかじゃないの。
悪い夢ならさっさと覚めてって、本当は今でも思ってる。
勝手に期待して、期待に応えてくれないことにがっかりして。人間は勝手な生き物だ。
この世界にやってきて、そろそろ一ヶ月半。私の立場が少しずつ危ういものになっていっていることには、気づいていた。
まだ私を勇者だと信じている、魔王を倒してくれる者だと信じている侍女Aみたいな人もいれば、こんな役立たずはさっさとどこぞへやっちゃって、新しい勇者を喚ぼう、なんて声高々に主張するお偉いさんもいるらしい。
勇者を複数人喚べるのか、前例がないから動きがとれないみたいだけど。
また勇者召喚するんだったら、今度はちゃんと、私みたくやる気のない奴じゃなくて、優しく正義感にあふれた勇者を喚べるといいね。
教育係だって、侍女Aほどじゃないけど、完全にあきらめたわけではないみたい。
そんなの、期待するだけ無駄なのにな。
どんなにこの世界のことを教えられたって、私はこの世界になじむつもりはないし、どんなに魔物による被害を教えられたって、私はこの世界を救うつもりはない。
頭いい人なんだろうから、それくらいとっくに理解してくれてたっていいと思うのに。
応えられない期待が重たくって仕方ない。
「魔王なんて、私に倒せるわけないんだよ」
ぽつり、つぶやく。
侍女さんたちに聞こえたかどうかはわからない。聞こえてたら不安にさせてしまうかもしれない。それでもそんなの私には関係なかった。
魔王とか魔物とか、ゲームみたいに簡単に倒せるとは思えない。いくら勇者だなんだって担ぎ上げられたって、私はただの女子高生だ。
争い、戦い。そういうのとは無縁に生きてきた。今までちっちゃい虫くらいしか殺したことなんてない。
ケンカとかいじめとかはわりと身近だったけど、そんな個人単位の規模じゃないことはわかってる。
人の姿をした魔王を、虫なんかと同じ感覚で殺せるわけがない。
ひとごろしには、なりたくない。
……家族に、顔向けできないもの。