29 「教えて、リーリファ」

「私は、キリを救う。ついでに世界もどうにかする。もうそのことに異論はないね?」

 キリの震えが収まって、私を抱きしめる腕の力も弱まってから。
 ぽん、ぽん、キリの背中を叩きながら、私は確認した。
 キリの本心を聞いた。キリの本当の願いを、聞き届けた。
 なら、私は私にできることを精一杯やるだけだ。
 世界を救うなんてクソ食らえって思ってたけど、それがキリのためなら、キリの一番の願いなら、叶えたい。
 大切な人の大切なものは、私も守りたいって思う。
 人間って、そういう単純な生き物だ。少なくとも私は。

「……うん」
「声がちっちゃい」

 指摘すると、ふふっと笑い声が耳元をくすぐった。
 私の身体に巻きついていた腕が外されて、キリの表情が見える。
 つい、こぼれたみたいな、自然な笑み。
 ヨセフさんに似ているような、似ていないような。
 キリの笑顔だ、ってわかった。
 ……なんだ。
 キリはちゃんと、笑えたんだ。
 たまに、だったかもしれないけど、ちゃんと笑っていたことだって、あったんだ。
 そのことに、今、気づいて。すごくほっとした。

「マリの優しさは知ってる。僕を救おうとする気持ちは理解できないけどね。この言葉は適切じゃない気もするけど……あきらめるよ」

 キリの瞳が、しっかりと私を映している。
 見覚えのある、優しい色をした新緑。
 まだ、完全に揺らぎがなくなったわけじゃないだろうけど、もう、大丈夫だって思えた。

「うん、あきらめて」

 にっこり、私は笑う。
 私があきらめられないから、キリにあきらめてもらうしかない。
 死ぬのは、あきらめて。
 それがどれだけキリにとって苦しいことでも。
 私は我を通す。キリの生を望む。
 これは、私のわがままだ。



 そして私は、キリに現状を説明した。
 今のところわかっていること。今の段階で必要なこと。
 キリの救い方を本人に相談するのは変かもしれないけど、力の使い方に関して、キリは私よりも十年先輩だ。
 もしも魔王の力が勇者の力と同類なら、一人で悩んでるよりも答えに近づける気がした。
 魔王の力の話では困惑げに眉をひそめたけど、キリにもわからないからか深く突っ込んでくることはなかった。
 どうすれば勇者の知を得ることができるか、という話になったとき。
 キリは考えるように首を傾けてから、口を開いた。

「マリは、媒体があったほうが力が使いやすいんじゃない?」
「媒体って?」

 きょとん、と私は目を丸くする。
 何それ、理科の実験か。

「特訓のときの雲とか、塔から落としたときの草木とか、湖に行ったときの水とか。力をそのまま発現させるんじゃなくて、何かに力を込めることで操ったり、効力を発揮したり。そういう間接的な力の使い方」

 まったく理解の及んでいない私に、キリは噛み砕いて説明してくれる。
 鏡に視たいものを映したことだって同じことだろう。
 今まで自覚していなかったけど、そういえばたしかに、そういう使い方のほうが圧倒的に多かった。
 私は美術部で、静物画もよくやっていた。目はいいほうだし、物体を空間的に、正確に捉えることは基本中の基本。
 つまり、目に見える形があると、想像しやすいから、ということなんだと思う。
 力を込める方向性が、媒体があったほうが安定するんだ。

「媒体……」

 つぶやいて、考える。
 媒体を通したほうが力を使いやすいとしたなら。
 勇者の知の媒体には、何がふさわしい?
 何が一番、私にとって、扱いやすい?

「万物を記した辞書。神の備忘録。神、そのもの……」
「何、それ」

 不思議そうなキリの声にも今は返事ができない。
 ピンッ、と来た。

「キリ、ありがとう!」

 手短にお礼だけ言って、私は屋上から大急ぎで立ち去った。
 向かう先は自分の部屋。
 もしかしたら、あれが、役に立つかもしれない。
 ずっと、うんともすんとも言わなかった、ただの置物化していたあれが。

 ルルドが言っていた、勇者の知の比喩表現。
 聞いたときにはよくわからなかった。今だってその言葉自体を理解しているわけじゃない。
 それでもわかった。あれは、間違いなくヒントだ。
 ルルドは、キリを救うためのキーパーソン。
 その役目はすでに果たしたといっていいのかもしれない。ルルドのおかげで、少なくともひとつ、気づけたことがあるんだから。
 魔王の力の特異性。もしかしたら、勇者の力と同じ、女神由来の力かもしれない、ということ。
 一週間後、きっとルルドはそれ以上の真実を私に教えてくれるだろう。ルルドは優秀な男だ。やると言ったことは絶対に成し遂げる。それがどれほど困難なことだろうと。
 でも、私はそれを、指を咥えて待っていようとは思えない。
 ルルドと、キリがくれたヒントを、私はちゃんと活かしたい。
 勇者の知、というものがある以上、きっと、勇者でしか知り得ない真実というものもあるはずだから。

「あった……っ」

 走って、部屋に飛び込んで、それを取り出した。
 疲れで息が切れたわけでもないのに、緊張と期待で、胸が弾んだ。
 私が今、手にしたもの。

 それは文明の利器、スマホ。

 万物を記した、辞書。
 あいにくとこの魔王城には、辞書どころか本は一冊も存在しない。本は魔王の力で作れるようなものじゃないし、買う必要も特に感じなかったらしい。キリもヨセフさんも暇が苦にならないタイプというか、キリにいたってはそれ以前の問題なんだろう。
 この世界に召喚されたときに持っていた私物の中にも、辞書はなかった。重いからって学校に起きっぱなしにしていたから。
 でも、辞書以上に辞書として優秀なものを、私はずっと持っていた。
 ネットで国語辞書だろうが英和だろうが和英だろうが、漢字だろうが類語だろうが中国語だろうがドイツ語だろうがなんでも調べられちゃう。こんなにコンパクトで便利な辞書は他にない。

「……お願い」

 ぎゅっとスマホを握って、強く強く願う。知りたい、と。
 魔王の力のこと。女神のこと。勇者のこと。この世界のこと。
 どうやったら、キリを救い出せるのか、ということ。
 知りたいことは山のようにある。知らなければどうにもならないことだらけ。

「教えて、リーリファ」

 願いが届くように、韻に力を込める。
 神様仏様リーリファ様。お願いします。
 助けたい人がいるんです。生きていてほしい人が、しあわせになってほしい人がいるんです。
 そのためなら私にできることならなんでもします。人殺しとかは、できないけど。

 ……もし、本当にそれでキリが救えるっていうなら。他に方法がないなら。
 私は、元の世界に帰れなくても、いいから。

 気づいたら変わっていた優先順位。
 家族より大切かどうかなんて、そんなのは比べられないけど。
 キリを見殺しにして帰ったところで、私はきっと、一生笑えなくなってしまうから。
 それなら、それくらいなら、こっちの世界で一緒に笑っていたいから。
 親不孝でごめんなさい、と心の中で両親に謝った。

 それからしばらく。
 じっと、じいいいいっと、黒一色の画面を睨み続ける。
 なのに何も起こらない。何も変わらない。
 スマホの画面は、この世界にやってきたときからずっと同じ、まっくらなまま。

「なんで〜……?」

 思わず心細げな声が出た。
 スマホを使うっていうのは、いい線行ってると思うんだけどなぁ。
 何が足りないのかがわからない。
 私はちゃんと、心の底から願っている。
 キリを救いたくて、救うためには知らなきゃいけないことがたくさんあって。
 私にできることがあるならなんでもするって、そう思っているのに。
 やっぱり付け焼き刃じゃどうにもならないってことなんだろうか。
 じわり、と視界がにじんだ。

「……? あ、あれ……」

 涙を拭おうと目をこすっても、目の前はぼやけたままだった。
 疲れているんだろうか、と目を閉じると、ぐらんっと脳みそが一回転したような、なんとも言えない心地がした。
 この感覚は、覚えがある。睡眠不足や体調不良、運動のしすぎで身体が限界を迎えているときと同じ。
 なんでいきなり、ってぼんやり思うけど、もう思考も正常に働かない。
 スマホを手にしたまま、倒れ込むようにベッドに横になった。

「なんか、ねむい……」

 もらしたのは、声か、吐息だったか。
 引きずり込まれるようにして、私は夢の世界へと旅立った。


  *


 気づいたら、ぽつん、と私はそこに立っていた。
 どことなく見覚えのある、だだっ広い図書館。
 天井まで届く本棚。並んでいるのは全部、しろい背表紙の辞書みたいに分厚い本。
 私はきょろきょろとあたりを見回す。
 周囲の壁も天井もまっしろ。照明がどこにあるのかはわからないのに、屋外みたいに明るくてまぶしい。
 そうして、目は自然と、本棚にきれいに整列した本に向かった。
 背表紙には何も書いてない。カバーがかけてあるみたいにつるっとしている。

 私は、手を伸ばす。
 本に触れる前に指先が止まって、逡巡してしまう。
 本当に、いいの?
 後悔しないの?
 私は、あなたは、本当にこれを知りたいの?
 自分のものなのか、自分の中にある別の意思なのか、問いが胸中に木霊して。
 それに私は、しっかりと声で答えた。

「私は、知りたい」

 韻を、力に。願いを、現実に。
 キリのために。この世界のために。そして何より、私自身のために。
 私は、知らなきゃいけない。
 無知は楽かもしれない。知らなかったから、は言い訳になる。
 でももう、決めてしまったんだ。
 もう、譲れないんだ。
 知らなければ、キリを救えないなら。
 私は、私のわがままのために、知を手に入れる。

「……っ!」

 指先が、しろい本に触れた瞬間。
 カッと強烈な光が突き刺さるみたいに襲ってきた。
 まぶしくて目を閉じて、それでもまぶたの裏に光が透けて見える。
 しろい、しろい、圧倒的な光。
 光の氾濫に飲み込まれるようにして、私の意識はまた薄れていった。


  *


「あれは……」

 再び目を開けば、自分の部屋のベッドの上。
 あれが夢だったのだと、夢の中では気づくことができなかった。まあ夢ってそういうものだけども。
 時計を見ると、十数分しかたっていない。
 なのに、なんでだろう。
 世界が変わったように見える。
 この世界は、こんなに、光に満ちていただろうか。
 何かが、確実に、変革を起こした。
 それは私の中のものか、この世界そのものか。

 眠っている間も握ったままだったらしいスマホに、なんの気なしに目を落とす。
 そして、目ん玉が落ちるかと思った。



 今までかたくななまでに黒一色だった画面が、まっしろに。
 そしてその中央には、シンプルな検索欄。
 ごくり、と唾を飲み込んだ。
 これは……これはもしかして……もしかしなくても……。
 図書館。しろい壁としろい天井。しろい分厚い本。私を包んだ、強すぎるしろい光。
 文字パッドに触れる指が震える。フリック入力の仕方をド忘れして、ぽちぽちと一文字ずつ打った。



 人差し指で、おそるおそる、検索ボタンを押した。

「できた……!!」

 スマホの画面には、きっとこの世界で誰も知らない真実が、書き記されていた。



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