28 「僕は、この世界が、」

「少々お時間を頂けますか」

 そう、ルルドは言った。何か核心に触れる糸口でも見つかったのかもしれない。
 次の約束はおよそ一週間後。少し間が空くことになる。
 忙しいルルドは調べ物をする時間を取るのだってなかなか大変だろうし、これでもずいぶんと無理をする日程なんだろう。あれもこれもってがんばりすぎて倒れなきゃいいけど。
 私はその間、何もしなくていいのかな。
 私にできることは、何かないのかな。
 全部ルルドに任せっきりにしていいはずがない。キリを救いたいのは私で、そのためにがんばらなきゃいけないのも私のはずだ。ルルドとは利害が一致しているだけ。
 キリのことを、誰かに委ねるつもりはない。たとえ相手がルルドでも。
 私が、どうにかしたい。私が、責任を持ちたい。

「勇者の知、かぁ」

 ベッドに横になって、天井を眺めながら、ぽつりとつぶやく。
 それがなんなのかわかれば、きっと役に立つのに。
 女神頼りなのは格好悪いけど、私がこの世界でできることなんて、勇者の力を使わなきゃなんにもない。
 勇者になんてなりたくなかったはずなのにね、皮肉なもんだ。

 知を願うことが大事なのではと、ルルドは言っていた。
 知りたいと、思うこと。真実を知る勇気を持つこと。
 たとえば、魔王の力の正体。
 本当に、魔王の力は女神の力なのか。そうだとしたら、なぜ、女神の力を持つ者が魔王と呼ばれるのか。
 魔王とは、勇者とは、いったいなんなのか。
 わからないことは山ほどあって、それを知ることがキリを救うために必要なんだとしたら、やっぱり知りたいと思うんだけど。
 今の私では、まだ、足りないものがあるんだろうか。

 うーん、とうなり声を上げてから、私は上体を起こした。
 気分転換に風でも当たりたいところだ。
 塔に行こう、と思いついてベッドから降りる。
 そうしてふと、ベッドの脇に置いてある学生カバンに目をやった。

「…………」

 悩んだのはほんの少し。私は学生カバンの中から鏡を取り出した。

「鏡よ鏡よ鏡さん」

 雰囲気作りに、そう語りかけてから。
 ここ最近姿を見ない彼を、脳裏に思い描いた。


  * * * *


 目的の人物は、やっぱり塔の屋上にいた。
 ぼんやりと空を見上げていた彼は、空気の揺らぎに気づいたのか、ハッと振り返った。

「……マリ」
「やあ、キリ」

 まるで魔王城に来たころの再現のようだ。立場は逆だけれど。
 偶然だね、とまではわざとらしすぎるから言わなかった。
 キリは私から視線をそらして、口を開く。
 その口が力を発動させる言葉を紡ぐよりも前に、

「《逃げないで》」
「……っ」

 迷いなく私は力を使う。先制攻撃だ。
 一瞬硬直して、忌々しそうに睨んできた様子からして、ちゃんと拘束力を発揮してくれたらしい。
 こんな無理やり言うことを聞かせるなんて、とは思うけど、こうでもしないと話をすることができないんだからしょうがない。
 キリが今どこにいるかを確認して、移動している間に逃げられないよう直接転移して。勇者の力でこの場にとどめて。徹底的にやらないときっと顔を見ることすらできなかった。

「どうして私から逃げるの?」

 キリが、私の寝室に忍び込んだ夜。
 キリが初めて涙を見せたあの日から、もう十日にもなるだろうか。
 あれ以来、キリは不自然なほどに私の前に姿を現さなかった。
 基本的に部屋から出てこないで、食事も部屋で取るとヨセフさん経由で聞いた。かと思えば心配して私が訪ねると室内はもぬけの殻で。避けられているんだ、と嫌でも気づいた。
 隣の部屋なんだから何度でも突撃することもできたけれど、気持ちが落ち着くまでしばらく時間が必要かな、と思ったから、刺激しないようにしていた。
 でも、さすがにそろそろいいんじゃないだろうか。
 というか理由も話さず逃げるだけなんて、男のすることじゃないぞ、コラ。

「僕は……マリが怖いよ」

 言葉のとおり、キリは怯えたような色をその瞳に宿していた。
 またもや外された視線は、私の足下に。

「マリは僕を救うと言った。僕を生かすと言った。マリはどうしたって僕の願いの真逆を向いている。マリの向かう先に何があるのか、見るのが怖い」

 不安に揺れる心、そのままの声音。
 今、私はキリの本心に触れているんだろう。
 なら、私も自分の心をそのまま、示さなければ。
 願わくば、私の思いがキリの凍った心を溶かせるように。
 こんなに見晴らしのいい場所にいながら、暗く淀んだ地の底にいるようなキリの心を、すくいあげられるように。

「キリに、しあわせになってほしい。そのために私ができることをするだけだよ」
「しあわせなんて……わからない」
「キリは、知ってるでしょ? しあわせがどんなものか」

 わからないなんて、嘘だ。
 気づいていないだけ、いや、もしかしたら知らないふりしているのかもしれない。
 でも、キリはそれを、知っているはずなんだ。

「他でもない、キリが言ったんだよ。『家族三人はしあわせに暮らしていました』って」

 ぱちり。キリの瞳がまたたいた。
 無意識に選んだ言葉だったんだろう。けれど無意識は真実を表すものだ。
 キリは、しあわせを経験したことがある。
 それがどれだけ優しいものか、日の光のようにあたたかく、羽毛のようにやわらかく心を包み込んでくれるものなのか。
 キリは知っている。知っているからこそ、失われた幸福に絶望したんだろうから。

「魔王になる前、両親と一緒にいるとき、キリはたしかにしあわせだった。それをキリは知っているでしょ?」
「……もう、永遠に取り戻せないものだ」
「そんなことないよ」

 きっぱりと私は否定した。
 一度失ったものが、もう二度と手に入らないなんて、そんなことはきっとない。
 以前のそれとは形が違うかもしれない。色も、温度も、違うかもしれない。
 それでも、心を満たす喜びは、感動は、きっと同じもの。

「キリの家族は、もういない。でも、キリのしあわせは、」
「聞きたくない!」

 思わず、続けるはずだった言葉が口の中で消えた。
 ギリッと、親の仇を見るような目で、睨まれた。
 初めてだ。初めて、キリが声を荒げた。初めて、キリがこんな、激情のこもった目を向けてきた。

「僕のしあわせなんてもうどこにもない。そんなものはいらない。終わりがあればそれでいい。僕にはそれがふさわしい」

 人々が心にため込んだ憎しみを、煮詰めて飲み込んだかのような、低い低い声。
 こんな声を、キリは出せるのか。こんな声を出してしまえるほどに、キリは――。
 受け止めなきゃ、と思った。
 流しちゃいけない。ひとつも取りこぼしちゃいけない。
 全部全部、キリの心だ。傷ついて、ずたずたになった心を、キリは私に晒してくれている。
 突き動かされるように、距離を詰めた。キリの手を取って、両手でぎゅうっと握った。
 暗い色をした新緑の瞳が、ぐらりと、揺らいだ。

「マリにはわからない。生きている、ただそれだけで罪になるということが、どれほど……」

 細い手は、小刻みに震えていた。
 痛いくらいに握っても、振り払おうとはしなかった。

「しにたい」

 小さな声が、落ちる。
 キリは私の手を引き寄せた。

「もう、終わりにさせてほしいんだ……」

 祈るように、希うように、私の手に額を当てた。
 ころして、ではなく、しにたい、と。
 その言葉の違いに、わずかな、けれど大きな差異を感じた。
 込められている思いに、そう願う心に。
 今までは見えていなかったものが、隠れているのではないかと。

「この世界は、僕がいなければ、きれいな円を描くんだ」

 キリの、魔王の存在によって歪められた世界。
 僕がいなければ。
 この世界にとって、キリの存在が、邪魔?
 キリはそれを他の誰より理解していて……だから。

――この世界から、自分を、排除したい?

 不意に、理解できた気がした。
 きっと誰よりも、キリ自身が魔王を許せないでいる。
 誰よりも、一番、本人が魔王を憎んでいる。

「キリは、優しいんだね」

 どうでもいい、と言っていた。
 それをそのまま信じ込んでいた。
 でも、キリは。
 自分の生を終わりにしたかったんじゃなくて。

「本当は、どうでもよくなんてなかったんだね。滅びてほしくなかったんだね」

 この世界を、終わりにしたくなかったんだ。

「世界の滅びよりも、自分の滅びを望むほどに。キリにとってこの世界は大切なものだったんだ」

 少しずつ少しずつ、滅びの近づいていく世界を、キリはずっと見ていた。見ていることしかできなかった。
 早く殺してほしいと、早く終わりにしてほしいと、身を焦がしながら。
 キリにとって、勇者だけが救いだった。
 この世界を救ってくれる救世主を、キリが一番、待ち望んでいた。
 もう、これ以上、誰にも傷ついてほしくないと。
 心を凍らせなければ耐えられないほどに、キリの心こそ、傷だらけだった。

「……僕は」

 呆然としたつぶやきが、空気を揺らす。
 大きく見開かれた新緑の瞳に、悲しげに微笑む私が映っている。

「僕は、この世界が、好きなのか」

 キリも知らなかった、キリの心。
 この世界は、キリに厳しいばかりだった。つぶてと冷風ばかり当て続けた。
 でも、キリはこの世界に生まれて、短い時を両親と過ごして。
 しあわせを、ぬくもりを、知っていたから。
 どうしたって、嫌いになれなかったんだろう。

「キリの大切なものごと、キリを救ってあげる」

 するっとそれは言葉になった。
 私はもう心を決めている。
 キリのためにできることをしたい。いつかのその言葉を違えるつもりはない。
 魔王だろうと、魔物だろうと、世界の穢れだろうと。私が勇者としての力を持っている以上、どうにかできるはずなんだ。
 まだわからないことだらけで、臆病な自分も心の隅で震えているけれど。
 私にしか、キリを救うことができないのなら。
 迷う気にもならないくらいに、キリが、大事だから。

 そうして。
 キリの腕が、すがるように私をかき抱いて。
 今にも泣きそうな声で。

――たすけて

 小さな小さな、吐息のようなささやきは、切願。
 それは、キリのまぎれもない本心。
 この世界を助けて、と。
 キリは最初から、それだけを求めていた。


 うん。
 しょうがないから、キリのために、勇者になったげるよ。



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