「マリ!?」
その声はキリの部屋に続くドアのほうから聞こえた。
ゆっくりと顔を上げれば、開けたドアを閉めるのも忘れて、キリがこっちに駆け寄ってきていて。
たぶん、ノックとか声がけとかあっただろうに、全然気づかなかった。
今の私にはそんな余裕もなかったから。
「きもち、わるい……」
床にうずくまって、どう見ても倒れかけてる。今の私はそんな状態。
背中を丸めて口元を押さえていると、キリが膝を折って覗き込んできた。
そっと背中をさすってくれる手が、こんなときだけどうれしい。
「大丈夫? 吐きそう? よ、ヨセフ呼ぼうか……?」
「力、使いすぎただけ……だいじょうぶ」
いくつも、いくつも。
勇者の知をわかりやすい形にした辞書検索で、単語を調べた。
明らかになっていく真実に夢中になっていた私は気づかなかった。その検索が、私の身体に負荷をかけるものであることを。
よく考えなくても、勇者の知は私に備わっているものなんだから、大本が私の脳内にあるのは当然といえば当然だった。
スマホの画面にはなんのアイコンも、時間すら表示されていなかった。電波だって当然届いているわけがない。あの検索画面は、スマホを媒体にして勇者の知を可視化しただけのもの。
ふと現実に戻ってみれば、私は床に膝をついていて。気づいたら立てなくなっていた。
寝室をうろうろしながらスマホをいじっていたのがいけない。おとなしくベッドに座っていれば、そのまま横になれたっていうのに。
「頭が痛いの?」
「うん……」
「立てる?」
「ちょっと……」
言葉を濁せば、難しいとわかってくれたらしい。
今現在、足の感覚がほとんどない。全身に力が入らなくて、上体を起こしているのだって本当はつらいくらいだ。車酔いのときみたいに頭がぐるぐるして吐き気もする。全体的にどうにもならない。
そんな様子の私に、キリはかすかに眉をひそめて。
それから。
「……っ!」
声を出す暇もなかった。
有無を言わさず抱き上げられて、ベッドまで運ばれる。
抱え方はちょっと慣れてない感じはするけど、腕に不安定感はない。
……私と、そんなに身長変わらないのに。
魔王なんだから力があるのは当然かもしれない。
でも、女の子みたいな顔をした、一つ下の男の子に、こうもやすやすと抱き上げられると……。
男の子、というより、男の人、みたい。
キリにお姫様抱っこをされたのは二回目。前回は谷に落とされたときだったから非常事態だったし、意識することはなかった。
今は、どうだろう。お姫様抱っこっていうとやっぱり乙女の夢だと思うんだけど、正直ドキドキよりも戸惑いのほうが強い。
具合が悪くてそれどころじゃないはずなのに、どうにもムズムズする。
ベッドに下ろされて、寝かされて。
頭のすぐ近くにキリが座ったかと思うと、その膝に私の頭が乗る体勢にさせられた。
これはいわゆる……膝枕というものだろうか。
こういうのって普通、女の人が男の人にするもんじゃないのかなぁ、なんて思いつつも、すでに文句を言う気力もない。
私の額に触れた手がひんやりとしていて、思わずほうっと息を吐いた。
「つめたい……」
キリの手は基本的にいつも体温が低めだけど、今は人の手とは思えないくらいに冷たい。
ついさっきまで氷を握っていたと言われたら納得できるくらいの冷たさだ。
たぶん、魔法で手の温度を下げたのか、手から冷気みたいなものを出しているんだろう。
「肉体的なものじゃないなら、僕の力でも治せるかどうかわからないから。少しは楽になった?」
「うん、ありがとう」
へらり、と笑ってお礼を言うと、キリは口を引き結んだ。
眉はゆるく八の字を描いていて、お礼を言われたのが不本意なのだと伝わってきた。
薄々、わかっているんだろう。私がこのタイミングで力を使ったということ。それが、誰のためなのかは。
キリのために力を使ったなら、自分が面倒を見るのは当たり前のことだとでも思っているのかもしれない。
「……無理は、しないで」
ちいさな、ちいさな声。
私に言っているんだろうに、どこか独り言のようにも聞こえた。
額に当てられていた手が、さまようように頭上でゆらゆらしてから、ぽん、と頭に乗せられた。
そのままくしゃりと頭を撫でる手は、やっぱり下手なまま。
だけど、最初と比べれば力加減はよくなっているような気もする。
少しずつ、変わっているものがある。
「心配してくれるの?」
「心配、なのかな……よくわからない」
キリは本当になにもわかっていない子どもみたいに、あどけない表情で首をかしげた。
手を額の上に戻して、穏やかな瞳で私を見下ろす。
新緑の瞳の奥に、何が宿っているのか。見定めるように私はじっとキリを見つめた。
「マリが、具合悪そうにしてるのは嫌だなって思う。これは、心配してるってことなのかな」
そうだよ、ってうなずいたらキリはどんな顔をするんだろう。ちゃんとおとなしく認めるんだろうか。
心配。
これまで一度もキリが使ったことのなかった言葉。
今はもう、それがどんなものか、わからないと言いながらも感覚的には理解しているんだろう。
キリの中に、たしかに存在していて、育っているものがある。
感情だとか情緒だとか優しさだとか。そう呼ばれるものたちが。
私はうれしくて、ついにやにやしてしまう。
「キリってさ、願いを叶えてもらうためって言ってたけど、実はけっこう私のこと好きなんじゃない?」
思えば最初からキリは優しかった。
その優しさは不自然でもあったけど、全部が全部嘘だったと決めつけるのもそれはそれで不自然だ。
困っている人に声をかけたり、落とし物を拾ってあげたり。見返りを求めない小さな善意っていうのは、意外と多くの人が持っているものだ。
私に向けられた優しさの中には、そういうキリ本来の優しさというものも、含まれていたんじゃないかな。
「……わからない」
「そればっかりだね」
困り顔のキリに、私はくすっと笑う。
今はまだ、わからないってことにしておきたいのかもしれないな。
急な変化は、怖いものだから。
臆病なキリは、簡単に認めることはできないんだろう。
「ちょっとずつでいいよ。ちょっとずつ、やり直そうよ。やり直せるはずだよ、キリはまだ」
ひとつひとつ、覚えなおしていけばいい。
五歳までしか親に育てられず、魔王として歪んだ人生を送ることになってしまったキリは、知らないことも、忘れてしまったことも、たくさんあるはずだ。
だからってもうどうしようもできないわけじゃない。キリにはまだ可能性が残されている。
目をつぶって、思い出す。検索結果に書かれていた文面を。
うん、大丈夫。
キリがうなずいてさえくれれば。
「ねえ、キリ」
私は手を伸ばす。真上にあるキリの顔に。
そのまま頬に指をすべらせて、私よりもやわらかい手触りに少しだけ嫉妬して。
髪を梳いて、指の間を引っかかることなく通っていくサラサラ感もうらやましいと思いながら。
なるべく自然に聞こえるように。
なるべく、うなずきやすいように。
内心はバクバクと心臓を鳴らしながら、なんてことない世間話みたいに、問いかけた。
「私に、さらわれてくれる?」
キリの瞳が、おおきくおおきく見開かれた。