結局その日は、大した収穫もなくて、しょんぼりしつつも魔王城に戻った。
ルルドも忙しい身だから、自由時間は少ない。誰にも気づかれないよう密会するとなると、夜遅く、寝る前の少しの時間にしか会えない。
肩を落とす私に、まだまだこれからですよ、とルルドは微笑んでくれた。
前よりも余裕があるように見えるのは、やっと私がやる気を出したからなのかな。
私に世界を救うつもりがなくても、キリを救うならついでのように世界も救うことになってしまうだろう。
勇者が完全に役立たずだったころに比べれば、ルルドにとっては今のほうが格段にマシなのかもしれない。
前回のように部屋でキリが待ちかまえている、ということもなくて。
夜も遅かったから、私はすぐに着替えて、ベッドに横になった。
なかなか寝つけなくて、とりとめのないことを考える。
私をお使いください、となんの含みもなく笑って見せたルルドは、ムカつくくらいにイケメンで、頼りになるオーラが漂っていた。
彼がいればたいていの問題は簡単に解決できてしまいそうな気がした。難しい問題だって、きっと。
実際、ルルドは鍵を握っているはずなのだ。勇者の力が正しければ。
まだその片鱗すら垣間見えてはいないけれど。
つらつらと考え事をしている間に、気づいたら眠ってしまっていたらしい。
次に目を開けたときには部屋は真っ暗だった。
身体が重くて、寝苦しい。そのせいで目が覚めてしまったんだろう。
体調でも崩したんだろうか、なんて勘違いはしなかった。
だって、目の前に、キリがいたから。
「ど、どう……したの……」
声がかすれたのは寝起きだからという理由だけではなかった。
なんでキリがここに。いや、部屋は隣だし、鍵なんてかけてないから入れるのはわかっている。問題はそこじゃなくて。
キリは、掛け布団の上から、私を縫いつけるみたいにのしかかっている。
わかりやすく言うなら、私は今、押し倒されている。
そんな色気のあるものじゃないのは、キリの表情を見れば一発でわかるけれど。
「マリア……」
キリが、消え入りそうな声で私の名前を紡ぐ。
愛しげに、苦しげに。
世界中の誰より愛されているようにも、世界中の誰より憎まれているようにも聞こえた。
無表情といっていい顔からは、キリの思いは読み取れない。
「ねえ、マリア。僕を殺して」
残酷に、残忍に。
キリの言葉は私の心を切り刻む。
私が一番したくないことを、そうとわかっていながら、キリは口にする。
それが、キリにとって譲れない願いなのはわかっているつもりだけど。
重すぎる願いに、呼吸が苦しくなる。
「殺して、ころしてよ。簡単だよ? 願えばいいだけだよ? マリアの手は穢れない」
切々とした声は、優しくも聞こえて、だからこそ余計に恐ろしい。
彼がどれだけ強く深く、その願いを叶えたがっているのか、どれだけ長い間、その願いを持っていたのか、もう私は知ってしまっているから。
たとえば、今、私が手を伸ばしてキリの首を絞めたなら、キリは笑うんだろう。
自分は世界一のしあわせ者だと言わんばかりの笑顔を見せるんだろう。
そんなことを考えついてしまって、吐き気がこみ上げてきた。
「マリアだけなんだ。マリアだけが僕を殺せる。マリアだけが、僕を止められる」
暗い室内で、キリの新緑の瞳が爛々と輝いている。
鮮やかな生命の色は、ゆらゆらと揺れていた。
その瞳の奥にある深い絶望に、引きずられそうになる。
息が苦しい。呼吸が浅くなる。何か言おうにも、声が出なかった。
「ねえ、終わりをちょうだい。マリア、マリアマリアマリア。僕のマリア」
ぽとり、と。
朝露のような光のつぶが、新緑からこぼれ落ちた。
「お願いだよ……」
乞うように、それでいて甘えるように、キリは私の肩口に頭を押しつけた。
じわり、肩が濡れる感覚に、私は遅れて現状を把握した。
キリは、泣いていた。
欲しいものが手に入らなくて、手足をバタバタさせる子どもとおんなじだ。
殺してほしくて、でも私はキリを殺すつもりはなくて。
私の意志を曲げたくて、子どものように、駄々をこねている。
こんなに弱った彼の姿を、私は初めて見る。
ぽんぽん、とキリの頭を撫でる。
私はキリほど頭を撫でるのが下手じゃないという自負がある。自負というほどのものでもないけど。
泣いて、駄々をこねて、それで私の気が変わると、本当に思ってるんだろうか。
むしろ私は、こんなキリを見たら、余計に殺せるわけがないって思ったのに。
放っておけない。私がなんとかしなくちゃいけない。
私は、キリの涙じゃなくて、作り物の微笑みでもなくて、本当の笑顔が見たいから。
「キリ。あなたが自分の死を願うなら、私はあなたの敵だよ」
ぽんぽん。頭を撫でながら私は語りかける。
キリが身じろぎした気配を感じたけど、手は止めない。
「私は絶対に、あなたを殺さない。あなたに生きていてほしいから」
ぽん、ともう一度だけ撫でて、それから手を離した。
おずおずと顔を上げたキリに、私は笑いかける。
私の意志は変わらない。それをキリに知っていてもらいたかった。
「押しつけかもしれない。あなたにとっては救いでもなんでもないかもしれない。それでも、私はあなたを生かすよ」
赤くなった瞳をまっすぐ見上げながら、私は告げる。
宣告であり、宣誓だ。
私は、キリの生を望む。
キリがあきらめている、キリの幸福を望む。
そんなもの、キリは望んでいないかもしれない。大きなお世話かもしれない。
でも、私は許せないから。
キリが、このまま死ぬことなんて。
彼自身が、他の誰が望んでいたって、私は許せないから。
「……どうしようもなく馬鹿で、愚かなマリア」
涙でかさついた声が、淡々と私を罵倒する。
そんな言葉に傷ついてあげるような心は、もう涙と一緒に封印した。
「僕が君に優しかったのは、君に殺してほしかったから、ただそれだけなのに。本当の善意で君に優しくしてくれる人なんて、この世界にはどこにもいないのに。僕の優しさにすがったって意味はないんだと、まだわからないの?」
その言葉に、チクリ、と確かに刺さるものがあった。
けれど今は考えない。他にたくさん考えるべきことがあるから。
今は、キリを救う方法だけを、考えていたいから。
「どんな理由でも、うれしかったの。優しくしてもらえて、甘やかしてもらえて、うれしかった。だから私は、私の方法で、恩を返すよ」
キリの言葉には、いつも裏があった。隠れた本心があった。
でも、そこにどんな思惑があったって、優しくしてもらった記憶が消えるわけじゃない。
私はキリの優しさに救われた。キリの優しさに支えられて、こうして今、自分の意志を持つことができている。
キリのおかげで今の私がいることは、変えようのない事実なんだから。
「……わかってたよ」
小さな小さな声。
途方に暮れた、迷い子のような、どこかあどけなさを含んだ声音。
キリは、困ったような微笑みを浮かべていた。
「ずっと、ずっと見てたから。マリアは臆病で、だけど善良な人間だ。憎悪からでも、情からでも、魔王を殺すことなんてできない。わかっていたよ」
わかっていたならどうして、という問いは口にしなかった。できなかった。
わかっていても、それでも、願わずにはいられなかった、ということなんだろう。自らの死を。
私は自分を善良だとは思わない。ずるいし、安きに流れるし、とても小市民的だ。
ただ、どんな理由であれ、人殺しができないことはそのとおりだったから、何も言わなかった。
「わかっていたけど……悲しいなぁ」
キリの手が、私の頬をなぞる。
私の形を確かめるようなその手は、相も変わらずひんやりとしていて。
もしキリの心も、同じように熱を失っているのだとしたら、それはとても悲しいことだと。
私の存在が、ロウソク程度の灯火にでもなれたらいいのにと。
揺れる新緑を見上げながら、私は願った。