「心が決まったみたいだね」
もう夜も遅かったから、次に会う日取りだけを決めて、私は魔王城へと戻った。
自分の部屋に直接転移すると、誰もいないはずの室内に人影があった。
にーっこりと、今までの笑顔が嘘に思えるくらい晴れやかな表情をした、キリ。
このタイミング。その言葉。その笑顔。
これは、どう考えても。
「……まーた覗き見ですか。シュミ悪い」
わざとらしく眉をひそめて、私はため息をつく。
ルルドとの会話は聞かれていたと思ってまず間違いないだろう。
じゃなきゃ、心が決まったかどうかなんてわからないはずだ。
「だって、こそこそと城を抜け出されたら、気になるでしょう? マリだって、僕が視ているってわかっていたくせに」
こそこそって言ったって、ただ自分の部屋から転移しただけなのに。
気づかれたってことは、ずっと視てたのか、感知する結界か何か張ってあったのか。どっちにしろストーカーだ。
「わかってたわけじゃないよ、視られてるかもとは思ったけど」
「可能性を考慮した上で、彼にああ言ったんだね。僕に対しての宣言、いや、答え……かな」
私の言葉を、キリは自分の都合のいいように解釈していく。
まあ、キリが聞いていてもいいように、むしろ聞いていればいいと思いながら話していたのは事実だ。
いったい、キリがどこからどこまでこれまでの私を視て、聞いていたのかはわからない。教えてほしいとも思わない。きっと気色悪い。
心が千々に乱れていたときならいざしらず、冷静な自分を取り戻してみれば、キリのストーカー癖が今もなお続いていることくらい、容易に推測できた。
だいたい、タイミングよすぎだったんだよ。ルルドとイレの前から転移させたときだって。
「さあ、マリア」
キリは私の名前を呼んで、両手を広げる。
これが恋人同士なら、胸に飛び込んでこい、という意味だと思うだろう。
残念ながら私たちはそんな甘い関係じゃない。どっちかと言えば限りなくビター。
勇者と魔王だなんて、カカオ99パーセントのチョコレートみたいだ。
「どこからでも来て。君なら僕を殺すことなんて至極簡単だよ」
ふふふ、とキリは笑みを深める。
ヨセフさんの優しい微笑みとは、似ても似つかない笑顔。
今になって思えば、キリのあわい微笑みは、ヨセフさんのまねっこだったのかもしれない。
親しみやすく見えるよう、不審に思われないための、仮面。
ずっと一緒にいたから似ていたわけじゃなく、キリの閉じられた世界の中で、参考にできるのがヨセフさんだけだったんじゃないだろうか。
似ていたんじゃなくて、あれは、あの笑い方は、ヨセフさんのものだった。
今この時、浮かべている笑みを見ると、そう思えてならなかった。
「……いい笑顔ね」
キリとは対照的に、私はむっすりとした顔で言う。
無性にムカムカしてならなかった。
私はもう、知っている。
彼の今までの笑みがただの仮面だったこと。
心からの笑みは、己の死という望みが叶えられようとしているから。
……クソ食らえだ。
「だって、ようやく解放される。この十年、僕はずっと、この時を待っていたんだから」
弾むような声に、余計に苛々が募る。
いつも私を励ましてくれて、いつも私を宥めてくれた声が、今は。
まるで毒薬のよう。
「浮かれて、私の話もちゃんと聞いてなかったみたいね。私は言ったよ、『まだこの世界を救う方法がわかってない』って」
「僕を、魔王を殺せば、魔物は自然と消えるはずだよ。魔王が穢れの中心、穢れの核。魔王さえ倒せば、この世界は救われる」
それは、そうなのかもしれない。
キリを殺せばすべては丸く収まるのかもしれない。
世界は救われて、キリも救われて、私は元の世界に帰ることができて。
でもね。
私は、もう、決めてしまった。
「それで? 私はそんな解決方法、望んでない」
きっぱり、と。
私の意志が伝わるように、ことさら鋭い声で告げた。
キリはそこでようやく、笑みを引っ込めた。
しばし、沈黙が二人の間に横たわる。
「……マリ、もしかして」
まんまるになった新緑の瞳。
その目には、きっと意地悪く口の端を上げた私が映っている。
「へっへーんだ、お気の毒さまでした! 作戦失敗ね。私、好きな人にはしあわせになってほしいタイプなんだから!」
嫌味に見えるくらいおちゃらけて、私は言ってやった。
半ばヤケになっているのかもしれない。それも致し方ないことだと思う。
この世界で誰よりも、大切な存在になっていた。その当人に、殺してほしいと頼まれた。
この世界で誰よりも、残酷な言葉を私に投げかけた。私の気持ちを知っていたくせに。
キリはひとつだけ、嘘をついた。
『ここには君を傷つけるものは何もない』、と。
キリは私の味方ではなく《勇者》の味方で、結局、誰よりも私を傷つけた。
だから私は、キリの言うことなんて聞いてやらない。そう、決めた。
「私はキリを殺さない。殺せない。私が退治するのは、キリの中の魔王。勇者は魔王を倒して世界は救われました、めでたしめでたし」
強く、強く。
声が震えないように、目をそらさないように。
強い声で、強いまなざしで。
決して折れない強い心で。
強く、強く、願う。
「キリは、救われる側の人間だよ」
睨むように、挑むように、キリを見据える。
日の光を浴びて輝く葉の色の瞳が、夜も更けた今は複雑な色を帯びて揺らぐ。
「……僕は人間なんかじゃない」
声は、さっきまでと同一人物とは思えないほどに弱々しいものだった。
そこにあきらめが含まれていることに、私は気づいた。気づくことができた。
願うことに、足掻くことに、疲れてしまったような。
死のみが、キリが見いだした唯一の希望だとでもいうような。
「人間だよ。少なくとも、十年前までは人間だった。なら人間に戻れるはずだよ」
「そんなの、夢物語だ」
「夢物語でもなんでもけっこう。夢を現実にするのが勇者の仕事じゃない?」
キリがあきらめていても、キリが絶望していても。
私はあきらめない。私は、希望を口にする。
言葉には、力が宿る。
勇者の力はもちろんだけど、『言霊』の力だってあると思う。
信じる気力がわいてくる。やり遂げる勇気がわいてくる。
私は、私だけは、疑っちゃいけない。
当の本人があきらめてしまっている以上、私だけは、キリの幸福を投げ出してはいけない。
「大切な人の一人も救えなくて、何が勇者よ。私は世界を救う勇者にはなれない。でも、たった一人の大切な人を救うために、勇者になるよ」
私は結局、ここまで来ても自分勝手な、ただの子どもで。
でも、子どもは子どもなりに思うこともあって、守りたいものだってあって。
世界なんて、おっきい次元じゃ考えられない。世界を救おうなんて今でも思えない。
私が守りたいのは、私が救いたいのは、キリ、ただ一人。
「何か、何か絶対に、方法があるはずだから。私がキリを、しあわせにしてみせる。もちろん殺す以外の方法でね」
私は勇者だ。世界を救う勇者じゃなくて、キリを救う、キリのためだけの勇者だ。
キリが願ったから。勇者を。救いを。
私はキリの願った勇者になって、キリの望みとは違う救い方をしてみせる。
勇者の願いが力になるなら。勇者の言葉に力が宿るなら。
何度だって、数えきれないくらい言ってやる。
キリは死なない。私は殺さない。
キリは、しあわせに、なる。
「マリは、馬鹿だ」
ぽつり、と。
感情のそげ落ちた顔で、キリはそれだけをつぶやいた。
陰の落ちた瞳が、泣きそうな色をしているように見えたのは、気のせいだったのか。
ふいっときびすを返して、キリは私の部屋から出て行った。
後ろ姿に、投げかける言葉はない。
もう、私の意志は充分に伝わっただろうから。
「……どうせ馬鹿ですよーだ」
扉が閉じられて、しばらく。
完全に一人になってから、私は唇をとがらせた。
勇者とはいえ、ただの女子高生が、魔王を倒してキリを救うなんて、本当にできるものなのか。
大言壮語って言われても否定できない。正直、自信があるわけじゃない。
でも、私だけは。
キリのしあわせを願うって、もう、決めたから。