23 「私は、魔王を倒すよ」

『ねえ、僕の大切な人。僕の運命』

 愛の告白のような、甘やかな声、甘やかなまなざしを思い出す。
 私もキリが、この世界の何よりも大切だ。
 私にとっても、キリの存在が、キリとの出会いが、運命だと呼べるのかもしれない。

『君は僕を、殺してくれる?』

 子どものように純粋に、残酷に。
 私を地獄に突き落としてくれたキリの願い。
 新緑の瞳の奥には深い深い闇が、隠れもせずに訴えかけてきていた。
 救いを、死を、求めていた。

 考えた。知恵熱を起こしそうなくらいに考えた。こんなに一つのことに集中したのは人生初というくらいに考えた。
 考えて、考えて、考えて。
 そうして、自分の中にある、変わらない気持ちが、自然と浮かび上がってきた。
 自分が納得行くまで、その気持ちと睨めっこをして、きつく問いただして、そっと触れてみて。
 少しも揺らがないことを、少しも色褪せないことを、しっかりと確認した。

「キリ、キリ……キリ」

 私が名づけた名前を、繰り返し紡ぐ。
 まぶたを閉じて、彼の姿を脳裏に思い描く。
 さらさらとした触り心地のいい黒い髪。エメラルドよりもペリドットよりもきれいな瞳。肌は私よりもすべすべしていて嫉妬したくなるほど。その唇にはいつも、笑みが刻まれていた。
 あわい微笑みの裏に、どれだけの悲しみを、どれだけの絶望を隠していたの?
 私に向けられた優しさの中に、どれだけの願いを、どれだけの希望を込めていたの?
 考えれば考えるだけ、泣きたくなった。
 けれどもう、泣かない。そう決めた。

「キリ……」

 私の、大切な大切な人の名前。
 リーフェじゃない。だって女神は彼を救ってはくれなかった。女神には彼を任せられない。
 キリ、キリ。私のキリ。
 きっと、聖母マリアがキリストを愛したように、悼んだように。

「私は、」

 不思議と心は凪いでいた。
 変わらない気持ちを抱きしめる。私はそれだけを、信じていればいい。
 心は、最初からたったひとつしか、答えを持ってはいなかった。


  * * * *


「マリア様……!?」

 深夜、人々も草木も安らぎに包まれる時間。
 私の目の前には、驚きに目を見張る、灰色の髪を一つに束ねた青年。
 まあつまりは、ルルドがいるわけでして。

「しー、静かにね。誰にも見つかりたくないから」

 私は人差し指を立てて、小さな声で注意する。
 ここはルルドの私室。もちろん初めて来る場所だ。
 転移は知ってる場所じゃないとできないってルルドは言っていたけど、勇者の力は術者の使う力とは理が違うみたいだし、人に焦点を当てればいけるんじゃないかな、と思ったら案の定だった。
 転移する前に、ちゃんとルルドが一人っきりだということも視て確認した。キリができたんだから私にもできるだろうと試してみたら、こっちも大成功。着々とスキルアップしてる気がする。

「……貴女には驚かされてばかりですね」
「そんなつもりはないんだけど」

 前回は不可抗力だったし、今回はルルドが確実に一人になるこの時間じゃなきゃいけなかったわけだし。
 別に驚かしたくて驚かしたわけじゃない。
 転移って事前予告が必要なもの? これからそっちに行きます、って?
 まあ、できないことはないけど。先に手紙を送ったりしておけばいいんだし。そんなまどろっこしいことする気ないけど。

「このような時分に、どこからともなく現れれば驚きもしますよ。いえ、勇者に常識を当てはめるほうがおかしいのかもしれませんが」
「頭でっかちなんだね」
「……そういうことにしておきましょうか」

 はぁ、とルルドはため息をついた。
 不思議と、もう彼のため息にむっとすることはなかった。
 ルルドのため息は、きっと自分を落ち着かせるときのくせなんだろう。
 今までだって、悪い意味ばかりが込められていたわけではないのかもしれえない。

「今日は、事故ではないようですね」

 ルルドは静かな声で、そう確認してきた。
 私が言わずとも答えはわかっているんだろう。前回とは違って私が落ち着いているから。

「うん、私が願ってここに来た」
「私に話があるのですね」
「そういうこと。寝る時間遅くなっても、いい?」

 机の上に置いてある書類をちらっと見つつ、私は言った。
 私が来るまで、ルルドは仕事を持ち帰って処理していたようだった。
 私の話を聞いてからも仕事をやるとしたら、ほとんど眠れないんじゃないだろうか。
 いつもピシッとしていたルルドだけど、本当は私の相手をしている時間もないくらい、忙しかったんだろうなぁ。
 やる気なく授業を受けていたことが、ほんのちょっとだけ申し訳なくなった。

「かまいませんよ。どのような話であれ、私には聞く義務があるでしょう」

 義務。それは、まだ私の教育係でいてくれているってことだろうか。それとも、この世界の住人としての義務だろうか。
 そこへおかけください、とルルドは一人がけのソファーを指し示した。
 座り心地のいいそれに身を預けて、正面に座ったルルドを見据える。
 ルルドの紫色の瞳は穏やかに私を映していた。
 本当に、どんな言葉であれ、受け入れるつもりでいるんだろう。
 私がなじっても、恨み言を口にしても、たとえば……勇者の力を、使うとしても。

「ルルド」

 名前を呼ぶと、ルルドはビクリと身体を揺らした。
 そういえば、彼の名前を呼ぶのはこれが初めてのことかもしれない。
 他でもないルルドに、聞いてほしかった。
 やる気のなかった私にこの世界について根気よく教えてくれた、教育係に。

「私は、魔王を倒すよ」

 声は震えなかった。
 堂々と、少しも揺らがない決意を表明できた。
 ルルドは私が転移してきたとき以上に目を大きく見開いた。

「でもそれは、この世界を救いたいからじゃない、あなたたちに言われたからでもない。救いたい人が、できたから。私はその人のためだけに、魔王を倒す」

 ルルドも、ティマも、きっとイレも。
 この城で私と関わった人たちは、悪い人たちじゃなかった。
 ただ生きることに必死で、異世界の小娘の力を借りてでも世界を救おうとしていた人たち。勝手で、とても人間らしい人たち。
 でも、そんな人たちのために世界を救いたいと思えるほどには、彼らは私にとって大切な存在にならなかった。
 私が心の底から救いたいと願うのは、たった一人だ。

「……それが誰か、お聞きしても?」

 控えめな問いに、私は少しだけ逡巡した。
 言ってしまってもいいんだろうか。
 ここで言わなくても話は通じる。必ずしも言わなきゃいけないってわけじゃない。
 でも……うん。
 誰かに、知っていてほしい、と思ってしまった。

「魔王、だよ」

 息を飲むルルドにかまわず、私は続けた。

「この世界でただ一人、私の味方だった人。優しくしてくれて、甘やかしてくれて、ずっと私を支えてくれていて。たった一言で私に絶望を見せてくれた人。この世界で一番、勇者の救いを求めている人。この世界で、一番、大切な人」

 死にたいと、心から願っているような。
 殺してほしいと、敵であるはずの勇者に本気で頼み込むような。
 そのためだけに私に近づいて、私に優しくして、最悪なタイミングで突き放すような。
 どうしようもない、馬鹿な人。
 そんな人を救いたいと願う私も、同じくらい馬鹿なのかもしれなかった。

「魔王の、ために、魔王を倒すと……?」

 ルルドの声はかすれていた。
 暗い部屋でも、彼の顔から血の気が引けているのは見て取れた。

「うん。それが私の、覚悟」
「マリア様……」

 痛みにあえぐように、ルルドは私の名前を呼んだ。
 貴女は本当にそれでいいのか。
 そんな、声にならない声が、聞こえた気がした。

「もう、決めたんだ」

 私はそれに、微笑みすら浮かべて、答えた。
 思えば彼に笑顔を見せるのはこれが初めてのことだ。
 今まで、談笑できるような関係ではなかった。
 一方的に勇者であることを求めてくるルルドと、過剰に反発していた私。当然ながらギスギスしていた。
 城にいたときは周りがみんな敵に見えた。魔王を倒してくれ、と言われるたびに、自分の死を望まれているように思えた。
 そうじゃないんだって、もうわかっているから。
 みんな救いたかっただけ。世界という広い範囲のものじゃなく。自分だったり、家族だったり、友人だったり、恋人であったり。
 自分以外に救いたい存在ができた私なら、少しは彼と和解できそうな気がした。

 私は今でも、彼の求める勇者にはなれないだろう。
 どうしても私は臆病で力も勇気もない、ただの女子高生で。
 世界なんていうとんでもなく重たいものを、小さな両手で支えることはできない。
 救いたいのは、一人だけ。キリ一人分の重みしか、私には持てない。持つ気もない。
 この世界を救うのは、言ってみればおまけだ。
 こんな勇者でごめんね。とは思うものの、自分の決断は揺らがなかった。

「……謝ってすむような問題ではないとわかっています。我々は異界の貴女一人に、世界の命運という重責を背負わせてしまった。まだ十六歳の少女、本来ならば守られる側の立場だというのに」

 ルルドは私から逃げるように視線を下に向けた。
 低くしぼり出すような声に、これまでの苦悶が表れていた。

「許してくれとは申しません。私も勇者召喚に賛同しました。ただ、ご決断くださった貴女に、一言お礼を申し上げたい。ありがとう、ございます、マリア様」

 深く、テーブルに額をつけるように、ルルドは深々と頭を下げた。
 生真面目な人だなぁ、と私は思わず苦笑してしまった。
 まるで心に三十センチの定規が刺さっているような人だ。
 こんな人がよく、視察だとか嘘をついて、私を魔物に襲われている町に連れて行くことができたものだ。
 あのあと、どれだけ苦しんだんだろう。どれだけ自分を責めたんだろう。
 私が行くと言ったとき、瞳によぎった暗い色は、きっと後悔と呼ばれる感情だった。 

 ルルドが私のことを考えてくれているなんて、王城にいたときは考えもしなかった。
 離れてみて、少しだけわかったことがある。
 ルルドは、厳しいけれど……優しい人だ。
 優しいからこそ傷ついている人を見過ごせず、勇者を望んで。優しいからこそ、私に勇者という立場を押しつけたことを、心の底でずっと後悔していた。
 やっぱり、嫌いにはなれそうにない。

「もう、どうでもいい。私は決めたから。別にあなたたちのことだって恨んでないよ。……しょうがなかったんだって、わかるから」

 つらい思いもいっぱいした。怖いこともたくさんあった。
 勇者だなんだと勝手に担ぎ上げられて、理不尽だと思っていたし、今でも思っている。
 でも、みんな死にたくなかっただけだ。みんなこの世界に滅んでほしくなかっただけだ。
 それは人として当然の望みで、権利だ。
 私だって死にたくなかったから、勇者になりたくなかった。そこにある思いは同じものだった。

「二つ、お願いがあるの」

 私は二本の指を立てて、ルルドを見た。
 ルルドはその言葉に頭を上げて、キリッと表情を改めた。

「私はまだこの世界を救う方法がわかってない。だから、絶対魔王は倒すから、待っててほしい。そして、この世界を救うために、ルルドの知恵を借してほしい」

 前回の、転移事故。あれの意味を考えていた。
 私はあの時、『キリを人間に戻す方法を知りたい』と願っていた。
 勇者の力は願いを現実にする力。あの転移は、その願いに反応したと考えてまず間違いないだろう。
 あの場所に何かあったのかもしれない、とも考えた。対象はルルドではなくて、イレかもしれない、とも考えた。
 だから私は、今回、試してみた。
 『キリを人間に戻す方法を知るために会わなければいけない人』が鏡に映るよう願った。
 鏡は、私が予想していたとおり、ルルドの姿を映しだした。

「お願いできるかな?」

 ルルドに断られたらそこで道が途絶える。
 どうかうなずいてくれるよう、すがるような思いを込めてルルドを見つめた。
 ルルドはそんな私にも表情を変えず、一度目を閉じ、開き。
 力強い紫雲の色の瞳を、私に向けた。

「ええ、承知いたしました。私にできることがあればなんでもおっしゃってください。こちらこそよろしくお願いいたします」

 そうして、もう一度、深く深く、頭を下げた。
 道が、つながった。



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