「じゃあね、マリ。一応お風呂には入ったほうがいいよ」
いつもどおりの声で、微笑みで、キリはそう言って自分の部屋に戻ってしまった。
あれから、キリは言いたいことを言ったら、答えを返せない私を勝手に抱えて、勝手に湖からあがった。
そして勝手に私の全身を乾かして、勝手に身体をあたためて、勝手に魔王城まで転移して戻ってきて。
結局、私が一言も発しないうちに、お別れになって。
あんな衝撃的な内情を暴露したにも関わらず、キリは本当に、いつもどおりで。
私の脳内は、余計に混沌とすることになった。
ちゃぽん、ちゃぽん、水の音がする。
何も自分を守るものがない姿で、お湯の中に沈み込む。
湯船にお湯を張るのも、保温するのも、つい数日前まで全部キリの魔法に頼りっぱなしだった。
お風呂の準備は自分でできるようになった。ようやく一人でも眠れるようになった。
もう、キリにおんぶに抱っこの状態から、抜け出せると思った。
これまでたくさんキリに支えられてきたように、これからは、私もキリを支えたいと、そう……思ったのに。
今までキリにもらってきた、心の大事な場所にしまっておいた言葉たちが、湯気みたいにふわりふわりと浮かんでは消えていく。
私を励ましてくれた言葉。私を元気づけてくれた言葉。
全部全部、覚えている。忘れられない。
でも、そこには違う心理が込められていた。
そのことに、気づいてしまった。
『僕は、マリがやりたくないならやらなくてもいいと思うよ』
勇者の役を押しつけられた私の心を軽くしてくれた言葉。
今考えてみれば、それは慰めでもなんでもなかった。
やりたくなかったら、できないことだから。勇者の力は、心から願わないと意味がないから。
そういうことだったんだ。
『この世界より、マリアのほうが大事だよ』
私を全肯定してくれた言葉は、私が勇者だから。
唯一、魔王を倒すことのできる存在だから。
世界でただ一人、キリの願いを叶えることのできる存在だから。
たった、それだけの理由だった。
『マリは帰れる』
絶対の自信を持って、そう言っていたように見えた。
キリも知っていたんだろう。勇者は、魔王を倒せば、元の世界に帰ることができるのだと。
自分を殺せば、帰れるよ、と。
キリはそんなふうに思っていたんだろう。
他にも、たくさん、たくさん。
隠されていたキリの気持ち。
私が気づけなかった、キリの心。
思えば、キリは、私に嘘をついたことはなかった。ただの一度だって。
決して心のうちを見せてはくれなかっただけで。
『よろしくね』
城下町で初めて会ったときも、この城に居候することになったときも。
キリは微笑んでくれた。私を、歓迎してくれた。
あれは、あの笑みは。
自分を殺してくれる勇者を、十年間待ち望んでいた存在を、歓迎していたの?
やだ、やだ、やだ、やだやだやだ。
ぐるんぐるん、そればかりが頭を回る。
殺したくない。死んでほしくない。キリに、生きていてほしい。
キリを救いたい。キリにしあわせになってほしい。キリに、ずっと笑っていてほしい。
私はそう、心から願っている。
キリを殺すことなんて、できるわけがない。たとえ自分が死ぬことになったってやりたくないことだ。
でも。
でも他に、他に方法がないのなら。
殺すことでしか、キリを救えないのだとしたら。
そしたら……私は……。
「どうしたら、いいの……?」
道を見失った迷子のつぶやきが、お風呂場に響いた。
* * * *
ぐるぐると考えて考えて、でも答えは出なくて。
お腹がすかなくて、夕食は断った。
暗い部屋の中、ベッドに転がって、さまよい込んでしまった迷宮の出口を探す。
――殺してほしい、というキリの願いと。
――殺したくない、という私の思いと。
正反対の方向に向かう心は、当然ながら寄り添えない。
コンコン、と扉を叩く音がした。
キリだろうか、ととっさに身構えた私の耳に届いたのは、やわらかくしわがれた声だった。
「お嬢様、軽食をお持ちしました。少しでいいので召し上がってください」
扉が開かれて、テーブルに食事が置かれた音がする。
よく煮えた野菜のいい香りに誘われるように、私はベッドから下りて、寝室から出た。
ヨセフさんは私が姿を現すとわかっていたんだろう。こっちを向いていて。
優しく、微笑みかけてくれた。
「おじいちゃん……」
その微笑みに、家から自転車で行ける範囲に住んでいる父方の祖父母を思い出した。
お父さんは一人っ子だったから、二人とも初孫の私をずいぶんとかわいがってくれる。
お母さんに怒られて家を飛び出して、おじいちゃん家に避難したこともあった。おばあちゃんが淹れた渋いお茶を飲みながら、優しく私を諭してくれたっけ。
「ねえ、ねえおじいちゃん。私、どうしよう……?」
思わず、すがるような声が出た。
ヨセフさんの服の袖をぎゅっと握る。
空よりも青い瞳の中に、何か答えがないかと、覗き込んだ。
「私は魔王様のご意向に従うまでです」
「じゃあ、キリが死んでもいいって言うの!? 私がキリを殺しても、いいって言うのっ!?」
納得できない思いが、そのまま叫びになった。
ヨセフさんに当たっても意味はないとわかっている。
キリに恩を感じているヨセフさんが、キリを裏切れるわけがない。キリの願いが、どんなものであれ。
でも、でも。
違う答えを出したくて仕方のない私は、反発することしかできなかった。
「魔王様は、ずっと、あなたをお待ちしていたのでしょう。世界を蝕む己の生から、解放してくれる存在を。心の底から、待ち望んでいたのでしょう」
何年も、一番近い場所からキリを見ていたヨセフさんの言葉は重い。
いったいいつから、キリは私を、勇者を待っていたんだろう。
魔王になって、生まれ故郷を滅ぼして、ひとりになって、死ねない身体になって。
どれだけの絶望を抱えて、十年もの時を生きてきたの?
いつか、勇者に殺してもらえる日だけを、待って、待って。
ずうっと待ち続けて。
「そんなの……悲しい」
言葉と共に、涙が一粒だけ、こぼれ落ちた。
これは同情の涙じゃない。キリを哀れんだわけじゃない。
「死ぬことだけを願って生きるなんて、そんなの、キリはずっと生きていなかったようなものじゃない」
キリが、自分を大切にしてくれないことが。
自分を大切にできない状況に置かれていることが。
ただただ、悲しくて、悔しくて。
「私は、私は……キリに、生きててほしいのに」
心からの、願いを、音にした。
この願いこそ叶えばいいのに、と思った。
勇者の力は強大だ。だけど、万能じゃない。そのことをもう私は知っている。
それでも、今の私が持っているものは、この力しかないから。
できることなら、キリを殺すためじゃなく、生かすために使いたかった。
「それが、お嬢様の答えなのではないでしょうか」
「え……」
ぱちりと、目をまたたかせた。
しっちゃかめっちゃかになっていた思考回路が、ピタリと動きを止めた。
顔を上げると、ヨセフさんは、キリによく似たあわい微笑みを浮かべていた。
「生きていてほしい、と願っているのでしょう?」
「それは、そうだけど、でも」
「でしたら、心はすでに決まっているのではないのですか?」
そうっと、私の心の外側を撫ぜるような声で、問いかけられる。
ヨセフさんの微笑みに導かれるようにして、思考がゆっくりと正常に再起動した。
「そう……なの?」
「私にも断言はできかねますが」
そうだよね、これは私の気持ちだ。私の心だ。
ヨセフさんに、答えを求めちゃいけない。
自分で、見つけないといけない。決めないといけない。
自分で決めたことなら、自分で責任を取らなきゃいけない。誰かのせいにすることはできない。
それは、とても勇気のいることで、でも、大切なことで。
今まで認められなかったけれど、本当なら認めたくはなかったけれど、私は。
どんな理由であれ、誰よりもキリに望まれていた、《勇者》なんだから。
自分の胸に、手を当ててみる。
トクトクと一定の速さで動く心臓。同じものがキリの身体でも息づいている。
キリは今、生きている。
私は、キリの鼓動を止めたくない。少しでも長い間、時を刻んでほしい。
喜びにドキドキしたり、驚きに跳ねたり、心を動かしてほしい。
私は、キリの生を、望んでいる。
「これで、いいのかな」
わからない。自信が持てない。
だってこれは、答えと言うにはあまりにもあやふやな。
私の、自分勝手な、わがままだ。
「私は、魔王様のご意向に従うまで。そして、魔王様の心の向かう先にはお嬢様がいらっしゃるのですから、お嬢様の答えが魔王様の答えにもなり得るのではと、私は思う次第です」
ヨセフさんの声は、静かで、穏やかで。
まるで、まっくらな夜道を照らしてくれる星のような、優しさを秘めていた。