「ほんの、十年ほど前の話だよ」
キリはそんな前置きをしてから、話を始めた。
ベッドの中で向き合いながら、私はキリの声に耳を傾ける。
「森の中に、小さな小さな村がありました。小さな村の住人は、助け合いながら暮らしていました」
まるで絵本の読み聞かせのような語り口。
さらっと流したい、ということなのかもしれない。
それだけこれから話す内容が、つらいものなのかもしれない。
「とある冬に、その村の若い夫妻が子どもを授かりました。夫妻は子どもに、リーフェと名づけました。女神に愛されし一葉、という意味の名前です。仲のいい両親に見守られながら、子どもはすくすくと育ちました。小さな村で、家族三人はしあわせに暮らしていました」
リーフェ。
それがキリのことだと、聞かなくてもわかった。
本当の名前を知れて、うれしいような、今まで知らなかったんだなぁと少し寂しいような。
でも、今まで教えてくれなかった名前を話したってことは、きっと全部話してくれるつもりなんだ、と思った。
「けれど平穏な日々は長くは続きませんでした。子どもが五歳になった年、世界の滅びの始まりは前触れもなくやってきました。その日は、特に何もない一日でした。子どもはいつもどおり母に寝かしつけられ、何事もなく一日が終わるはずでした」
何がやってくるんだろう。どんな不幸が一家に訪れるんだろう。
だってキリは魔王だ。今、この城に家族の姿はない。必ず別れがあるはずで……。
続きを聞くのが怖くて、私はぎゅっとキリの手を握った。
キリは包み込むように握り返して、私を安心させるように微笑んだ。
「夜中、ふと目を覚ましたのは、風を感じたからでした。窓でも閉め忘れたのかと目を開けると、星が見えました。なぜ外にいるのだろう、不思議に思ってあたりを見渡そうとした子どもは、自分の上に乗っている白いものに気づきました」
白いもの、がなんなのか、私に考えさせるようにキリは少し間をあけた。
考えてみてもわからなくて、私は視線で続きを促した。
「それは、骨でした。人間の骨。頭蓋骨が二つあるので、二人分だとわかりました。……それが自分の親だと、子どもは最初わかりませんでした」
ヒッ、と声がもれたかもしれない。
目が覚めたら、自分の上に両親の骨が乗っていたなんて。
そんなのホラーだし、ホラー以上に……絶望的じゃないか。
「子どもはどんな悪夢だと、震え上がりました。大声で親を呼びました。けれど親は来ません。夢も覚めません。なぜなら両親は、すでに骨となり果てていたからです」
身体がカタカタと小刻みに震える。
キリの手をぎゅっと、力の限りに握りしめても、それでもまだ足りない。
「大声で泣き叫びながら、周囲を歩き回りました。怖くて怖くて、感覚が麻痺していて、子どもの手を握るようにしていた、指の骨を持ったまま。灯りがないのも怖くて、白い頭蓋骨を抱えて歩き回ります」
その姿が、想像するだけで怖くて、哀しくて。
もしも勇者の力で時間を遡れるなら、その時のキリを抱きしめてあげたいと思った。
たった五歳の、小さな子どもが、どうしてそんな目に合わなきゃいけないの?
「けれど不思議なことに、周りには、人や家どころか、草一本生えていませんでした。剥き出しの大地に転がっているのは、骨、骨、骨。ほんの数時間前までは人だったはずの、もの。そう、一夜にして、村は跡形もなく滅ぼされたのです。力が目覚めた、魔王によって」
ああ……と声がこぼれた。
魔王の誕生。それは世界にとって希望が失われた日なのかもしれない。
でも、キリにとっても同じことだったのだ。
家族が、村が、それまでのキリを築いてきたもの、すべて。
キリは奪われた側だ。魔王の力のせいで、キリも、不幸になった。
「魔王は泣いて泣いて泣いて、何日も何十日も泣いて過ごしました。けれど魔王は死ねません。魔王の力が、魔王を生かします。土が涙を吸い込み、いつのまにか大きな城を建てていました。森にはおぞましい怪物が跋扈するようになりました。魔王誕生を、誰もが理解しました」
この城はキリの嘆きから生まれたのか。
だから、なのかもしれない。
キリの部屋だけじゃなく、この城全体が、どこかもの寂しく感じるのは。
「それから、十年。魔王は今も、自分の生まれた村があった場所に建てた魔王城で暮らしています」
長い話を終わらせたキリは、私にあいたほうの手を伸ばしてきた。
その手が、私の目尻に触れて、そうっと撫ぜる。
ぽろぽろとこぼれた涙で、キリの指が濡れた。
「泣かせたいわけじゃなかったんだけど」
「だ、だって、しょうがないじゃん」
嗚咽混じりに、言い訳を試みる。
でも、何をどう言えばいいのか、わからなかった。
かわいそう。かなしかった。つらかったね。
きっとどれも正解じゃない。正解なんてないのかもしれない。
「リーフェ……」
気づいたら私の口は、キリの本当の名前を紡いでいた。
どうしても、呼びたくなった。
私が適当につけた名前とは違う、キリの本質を表す本当の名前。
キリが、今はもう亡くなってしまった両親に、愛されていた確かな証。
初めて口にした名前は、意外なほどに舌になじんだ。
キリは目をまん丸にして、硬直した。
それからふんわりと、今まで見たことないような、しあわせでとろけそうな笑顔を見せた。
今度はその笑顔に私が固まる番だった。
「ダメだよ、マリア」
キリは笑みを浮かべたまま、私の唇に指先を軽く押し当てた。
「魔王の名前は穢れているから、あまり呼んでは、ダメ」
「でも、いい名前なのに」
「いい名前、かなぁ。神に愛されていたなら、僕はなんで今ここにいるんだろうね」
あ。
言ってはいけないことを、言ってしまったのかもしれない。そう遅れて気づいた。
両親に愛されてつけられた名前も、自分の力が両親の命を奪ったキリには、つらいだけのものなのかもしれない。
神に愛されし一葉。けれどキリは魔王になってしまった。
大切なものはすべて自分の中の魔王の力によって壊してしまって、失われてしまった。
皮肉、という言葉がこれほど当てはまることもない。
「……ごめん」
「マリが謝ることはないよ。僕は自分の名前が好きではないというだけ」
そう言ってもらえても、申し訳なさはなくならない。
私だって、愛美とか名前をつけられて、誰からも愛されずに育ったりしたら間違いなくグレるだろう。
キリは愛されていた。そしてきっと、キリも両親を愛していた。だからこそ余計に、悲劇だ。
魔王となってしまったキリが、自分の大層な名前を嫌いになるのは仕方ないことかもしれない。
でも、だったらどうして。
私が名前を呼んだとき、あんなにうれしそうな顔をしたんだろう。
その疑問を問いかける勇気は、今の私にはなかった。