「あの雲はイチゴになる」
喉を震わせる。声に力を込める。
韻は、けれど現実にならない。
しろい光が立ちのぼることなく、声はただの声のまま、風にかき消された。
「もう一回」
すぐさま次を促す冷静な声に、心が折れそうになる。
何がいけなかったのかな。
声の出し方? 言葉の選び方? 力の込め方?
わからないなりに考えながら、イチゴの形をした雲を睨みつける。
もう一度、息を吸って口を開いた。
「《あの雲からイチゴが生まれて、私の手の中に収まる》」
喉を震わせる。声に力を込める。
韻を、願いを、現実に。
受け取るように出した手に、コロンッと軽いものが落ちてきた感覚。
見下ろせば、そこには赤々としたおいしそうなイチゴが一粒。
「成功だね」
キリの声に、はああああ、と大きく息をついて脱力した。
十回中、成功したのは三回だけ。これでも特訓し始めたころよりはマシになってきている。
キリが考えた特訓方法は、雲の形をものに見立てるという私の趣味というか暇つぶしを活かして、雲からものを作り出すことだった。
力は使わなきゃ覚えない、というキリの言葉に従って、毎日のように特訓を繰り返しているんだけど。
どうにもこうにも、うまくいかないものだ。
「お疲れさま」
「ほんと、なんか、すごい疲れる……」
身体は全然疲れていないけど、頭が疲れてる、というか。
たとえるなら、テスト前に三時間休みなしに勉強したときみたいだった。
元がよくない上に、予習復習なんてさぼりがちだから、テスト前に一気に詰め込まなきゃいけなくなっちゃうんだよね。
いつもお母さんにはため息つかれるし、弟にもバカにされてるけど、勉強ってどうしても好きになれない。
「僕はもう慣れたけど、だいぶ精神力を使うんだろうね。余分な力が入ってるからかもしれない」
「余分な力って言われても、自分じゃわかんないよ」
「練習あるのみ、かなぁ」
「えぇ〜……」
もう、この城に居候し始めて、二週間以上がたっていた。
特訓を始めてからは十日ちょっと。成果は……まあ、ぼちぼち。
少しずつわかってきたこともある。たとえば言葉の選び方。力を込めやすい言葉っていうのがあるみたいで、希望形や断定形、命令口調なんかがそれにあたる。さらに、詳細を指定すればするほど精度は上がる。……それでも失敗のほうが多いんだけども。
亀の歩みでも続けることが大事なのかもしれないけど、やる気ゲージは黄色から赤ってところだ。
だいたい、今のところ勇者の力が必要になる場面がないのがいけない。差し迫ってないからモチベが簡単に下降する。まあ差し迫りたくなんてないですが!
「練習すれば絵の具とかも出せるのかなぁ」
中学高校と美術部に所属している私は、一通りの絵の具を試したことがあった。
ポスターカラー、アクリルガッシュなんかの不透明水彩は基本。透明水彩は薄い色を重ねていくと複雑な混色ができて楽しい。水彩色鉛筆も手軽で好きだし、一度だけ油絵もやったことある。強烈な匂いには慣れなかったけど。
最近ちゃんと絵を描いてないから、彩色の仕方とか忘れてそうだ。
「出せるんじゃないかな。でも、欲しいなら買ってこようか?」
「ううん、そこまでじゃないから大丈夫」
あんまり考えることなく、私は首を横に振った。
たしかにあったら暇つぶしにもなるしうれしいけど、なくても別に困らない。
元々すごい真面目に活動していたわけでもなかった。
たまに手が寂しくなったときに落書きとかスケッチとかはしてるから、問題ない。
ただ、友だちとくっちゃべりながら画材と向き合っていた日常が、ちょっと懐かしくなってしまっただけ。
……魔法なんて、非現実的すぎるもんなぁ。
「今日はこのへんにしておく?」
「うん! ヨセフさんがパイ焼いてくれてるはずだよ!」
キリの言葉に、私はこれ幸いと飛びついた。
今日のおやつはヨセフさん特製ブルーベリーパイだ。
この八年で覚えたらしく、ヨセフさんは料理だけじゃなくお菓子作りも得意だった。クッキーくらいしか作ったことのない私より女子力高い。
「マリはおやつの時間が一番元気だね」
ウキウキ気分を隠さない私に、キリはふふっと笑う。
うん、やっぱりヨセフさんと似てる。
顔のパーツとか、髪や瞳の色とか、全然似てないのにね。
「とりあえず、そのイチゴは食べちゃおうね」
「……うう」
手の中にあるイチゴに目を落として、私はうめく。
作り出した食べ物を自分で食べるのは、最初にキリと約束したことだ。自分で作ったものを、自分で知るのも大切、ってことらしい。
おいしければ進んで食べるんだけど、力で出した食べ物って、基本的に薄味だったり、ちょっと変な味だったりするんだよねぇ。
それは私の想像力が足りないかららしいんだけど、今まで出してきたリンゴもブドウもキュウリも、全部味が薄かったし、本物とはなんか違った。
ちなみに食べ物というより食材ばっかりなのは、料理とかを出す場合は作り方をちゃんと知らないといけないからだ。
お母さんのお手伝いをさぼっていた私は、作れる料理なんて本当に限られてる。うろ覚えのそれを雲から作り出す、というのはさらに難易度が高かった。
クッキーなら何度か作ったことがあるから生み出せたけど、ぼそぼそでまっずい砂の塊みたいなものになってしまって、まだ味が薄い果物や野菜のほうがマシだなってなった。
食材のほうが数段シンプルだから、なんとか食べられる味になってくれるんだろう。
「ほら、あーん」
キリは私の手の中からイチゴを奪って、私の口元に近づけていく。
うむむ、と眉をひそめながらも観念して口を開けば、優しく放り込まれる赤い果実。
口の中に広がるのは、ほのかすぎる酸味と甘みと、苦み。……イチゴなのになんで苦いんだ。
「おいしい?」
キリはいたずらが成功した子どもみたいに笑ってみせた。
おいしくないことなんてわかっているだろうに。
正直に答えるのもシャクで、私はべーっと舌を出した。
さらにキリの笑い声が大きくなるだけだった。
* * * *
夜。深夜って言ってもいい時間。
トントン、と私は隣のキリの寝室の扉を叩いた。
「キリ……起きてる?」
最初は知らなかったんだけど、私の部屋の寝室とキリの部屋の寝室は、扉一枚でつながっていた。
だから、廊下に出ることなく直接声をかけられてしまう。
そしてそれはずいぶんと、私を甘やかす仕様になってしまっている。
声をかけてからあまり待つことなく、カチャリ、と扉が開いた。
「どうかした?」
「遅くに……ごめん……」
「気にしないで。ほら、入って」
キリは招き入れるように身体をずらす。
その言葉に甘えて、私はキリの部屋に足を踏み入れた。
必要最低限のものしかない、どこか寂しげな部屋。
灯りのしぼられた部屋は薄暗くて、キリも寝ようとしていたのだとわかる。
私は手に持っていた枕を、ぎゅっと抱きしめる。
「今日、一緒に寝て、いい?」
あまり背の変わらないキリを見上げて、そう尋ねた。
拒否の言葉が返ってこないのは知っていた。今までもずっとそうだったから。
最初の数日は毎日。それが二日に一回になって、今は数日に一回のペース。
少しずつ減ってきてはいるけど、まだ、一人で寝るのは怖かった。嫌なことを考えてしまうから。夢を見てしまうから。
「うん、いいよ」
ほら、やっぱり。
キリは私に優しい。キリは私に、甘い。
このままじゃいけないって思うのに、甘えたな自分を制御できないまま、ずるずると二人の夜を重ねてしまう。
「ごめんね」
「謝ることないよ。マリと一緒に寝るの、好きだよ」
キリのあわい微笑みが、暗い室内でもよく見える。たぶん、勇者の体とやらのおかげだ。
新緑の瞳は蛍みたいに光を放っているようにも見えた。
それだけきれいで、引き込まれてしまうような色をしていた。
「……ありがとう」
まっすぐ見つめながら、謝罪ではなく、感謝の気持ちを言葉にした。
今は、こっちのほうがふさわしいだろうと思って。
「さあ、ベッドに入ろう。身体が冷えちゃうよ」
キリは優しく私の手を引いてくれた。
先にキリが入って、その隣に私ももぐり込む。
さすがにちょっと恥ずかしいので、身体が触れ合わないくらいに距離をあけて。
でも、ベッドの中、つないだ手はそのままで。
「最近ちょっと寒くなってきたね〜」
直前までキリが入っていたからか、ベッドの中はほんのりあたたかい。
それでも身体を充分にあたためるのには少し足りない。
心に余裕がなかったころは、キリとくっついて寝ていたけど、もう通常運転に戻った状態でそれはちょっとね。
まだ秋だから暖房器具の出番ってほどではないけど、湯たんぽとかあればうれしかったかもしれない。
「あたたかくする?」
「……できるんだ」
「僕にできないことはないよ」
「すごいね」
素直に褒めたつもりだった。
なのに、こちらを向いていたキリは、苦々しく、わらった。
「できないことは何もないのに、何も、持っていないんだ」
「……」
どんな、言葉を返せばいいんだろう。
私にはわからなかった。
魔王がどんな存在なのか、キリから聞いたものと、ルルドから習った伝承くらいしか知らない。
キリの過去も、ヨセフさん経由でしか知らない。
違う世界から、キリを倒すために喚ばれた私に、何が言えるっていうんだろう。
「ねえ、マリ。昔話をしようか」
きゅっと、キリは私の手を握る手に少しだけ力を込めた。
燐光を放つきれいな瞳は、どっちでもいいよ、と言っているようで。
あくまで私の意志を尊重してくれているのがわかった。
だから、私も覚悟を決めた。
キリの抱えている、重いものを知る覚悟。
できることなら、それをちょっとだけでも分けてもらう覚悟。
こくん、と私はうなずいた。
キリの話を聞くために、耳に意識を集中させて。
どんな話をされたとしても、私はキリを嫌いにはなれないだろう、ということだけは、確信しながら。