14 「人間としての私は、きっとあのときに死んだのでしょう」

「ヨセフさんは、どうしてキリが魔王なのか知ってる?」
「いいえ。私が初めて魔王様とお会いしたときには、魔王様はすでに魔王様でしたから」

 厨房。昼食に使ったお皿のお片づけを手伝いながら、私は質問を投げかけた。でも、答えは予想どおりNO。
 そうだよね。魔王が目覚めたのは十年前だってルルドが言っていた。
 十年前は、単純計算するとキリが五歳のとき。元の世界で言うなら幼稚園児のときからキリは魔王をやっていることになる。
 何があったのかなぁ。気になるけど、聞いていいものなのかもわからない。
 キリの正体を知る前から、キリはほとんど自分のことを話そうとしない。それは魔王という立場からすると当然なんだろう。でも。
 知りたいって、思う気持ちは止められない。

「ヨセフさんは、人間なのに、どうして……」

 キュッキュッと洗ったお皿を拭きながら、独り言のようにこぼす。
 聞いていいのかな。答えてくれるかな。
 顔色をうかがうように隣のヨセフさんを見やれば、ヨセフさんはふっと笑みをこぼした。

「人間としての私は、きっとあのときに死んだのでしょう」
「あのとき?」

 死んだ、なんてどうにも物騒な話だ。
 私が首をかしげると、ヨセフさんはどこか遠くを見るような目をした。
 もう彼方へ流れ過ぎてしまった過去を、懐かしむように。

「私の住んでいた村は、この沈黙の森からそう離れていないところにありました。穏やかな、いい村だったのですが、魔王が現れた当初から魔物の被害が多く、急速に寂れていきました」

 始まった昔話に、私は音を立てないように持っていた皿を置いた。
 話をしながらもヨセフさんは手を止めない。なんてことない話をするように、あわい微笑みすら浮かべながら。
 塔の上から見た、どこまで続いているのかもわからない、広い広い沈黙の森を思い出す。
 でも、どこかで森は終わっているはずだ。森を出てしばらく行けば人里があるはずだ。
 そして、森で生まれた魔物は……森に近い村から、襲っていったんだろう。

「穢れによる影響か作物の育ちも悪かった上に、魔物に食い荒らされることも少なくはなかった。八年ほど前、足を悪くして、働くことのできない役立たずとなり果てた私は、魔物の跋扈する森に放置されました。口減らしですよ」
「ひどい……」

 思わず、そうつぶやいていた。
 昔の日本でも、魔物はいなくても貧困によって、子どもや老人を山に捨てていたという話は聞いたことがある。
 いまいち現実として捉えられずにいたことが、ここでは当たり前のように行われていたのか。

「恨んではいません。仕方がなかった。そうしなければ生きてはいけない村でした。今はもう打ち捨てられたか、魔物によって滅ぼされたことでしょう」

 ヨセフさんの瞳は、声は、ただただ穏やかだった。
 恨みも憎しみも何もない、ありのままを受け入れるような。
 どうしてそんなふうに思えるんだろう。
 私だったら、捨てられたら絶対に恨むだろう。仕方なかったなんて言えないだろう。
 ヨセフさんのそれは、人のよさだろうか、単なるあきらめだろうか。
 それとも、そんな暴挙が当然のように受け入れられてしまうほどに、この世界が滅びに向かっているということなんだろうか。

「三日、飲まず食わずで、私は死の時を待っていました。けれどそんな私の前に姿を現したのは、禍々しい魔物ではなく、十にも満たない容姿の黒髪の少年でした。少年――魔王様は私に問いました。『料理できる?』と、死の森にふさわしくない無邪気な瞳で」

 八年前のキリ、かぁ。きっとかわいかっただろう。
 七歳のキリを脳裏に思い描いて、少しだけ、和んでしまった。
 悲惨な過去話からの現実逃避でもあったかもしれない。

「私がうなずくと、魔王様は私をこの城へと招いてくださいました。不便だからと、私の足も治してくださいました。あなたはいったい誰なのか、と尋ねた私に、魔王様は表情を変えることなく、『魔王』と答えただけでした」

 足を痛めていたとは思えない動き。およそ老人らしくはない姿勢のよさ。
 魔王の力は強大で、できないことなんてないんじゃないだろうか。
 そしてそれを、キリは破壊ではなく、一人の老人の身体を癒すために使ったんだ。

「風邪や、原因不明の頭痛、腰の痛みなども、魔王様は面倒がる様子も見せずに即座に治してくださいました。ご飯が食べられないのは嫌だから、と。本来ならば食事を取る必要のない身体だと伺っております。私は魔王様の娯楽のために生かされているのです」

 食べる必要がない。そう、だったのか……。
 私の前では普通に三食食べてたから、気づかなかった。
 キリにとって、食事は必要なものじゃなくて、趣味みたいなものなのか。
 食べなくても生きていけるって、どんな気持ちなんだろう。
 食事がつまらなくなったり、しないのかな。

「私は死に損ないです。失われるはずの命でした。魔王様の気まぐれで拾っていただいたこの命、残りは魔王様のために使おうと思っているのです」

 私に向き直ったヨセフさんは、そう話をしめくくった。
 胸に手を当てながら、そっと浮かべた微笑みから、魔王……キリのことを心から信頼していることが見て取れた。
 しわだらけの手の下で、私やキリよりもゆっくりとした鼓動がたしかに刻まれている。
 キリに救われた命が、息づいている。
 それを、私はどこか奇跡のように感じられた。

「……ヨセフさんだけが、キリの味方だったんだね」

 八年も前から、ヨセフさんはキリの一番近くにいた。
 初めは気まぐれだったかもしれないけど、キリもヨセフさんの存在には救われていたんじゃないだろうか。
 この広いだけの城で、キリがひとりぼっちじゃなくてよかったと思った。
 ここは、あまりに寂しい場所だから。

「さあ、どうでしょうか。魔王様はきっと、私を味方だとは認識していないでしょう」
「それは寂しいね」

 八年も一緒にいたのに、気持ちが伝わってないなんてそんなの寂しい。
 キリがどう思っているのか、本当のところは私にもわからない。
 でも、キリだってちゃんと、ヨセフさんに親しみとか、情とか、持っているんじゃないかなぁ。
 ヨセフさんの言葉を疑うわけじゃないけど、そうだったらいいなと思うのは自由だ。

「寂しい……ですか。お嬢様はほんに、素直なお方だ。お嬢様ならば、魔王様のただ一人の味方になることもできるやもしれませんね」

 ヨセフさんは思わずこぼれたといったふうに、ふふっと笑った。
 そのやわらかな笑顔は、どこか見覚えがあって。
 少し考えて、そうして気づいた。
 そっか、ヨセフさんの笑い方、キリと似てるんだ。
 ずっと二人で暮らしていたから、かな。

 第三者が見てわかるくらいのつながりがあることが、少しうらやましかった。



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