「力の制御の仕方は僕が教えてあげる。この周辺には魔物も多いし、使えるに越したことはないからね。そういう理由で危険だから、しばらくは一人で外に出ないでね。ご飯も、他に必要なものがあってもこっちで用意するから」
キリの提案はことごとく私に甘いものだった。
たしかに、キリの魔法は普通の術士のものとは違っていて、勇者の力の使い方に近いように見えた。
あんまり力を使いたくはないし、使う機会なんてなければいいと思ってるけど、そうは言ってられない事態になる可能性も充分にある。
お願いします、と頭を下げれば、キリはふふっと笑みをこぼした。
勇者が魔王に教えを乞うなんてずいぶん馬鹿げた話だけど、私にとってキリ以上に頼りになる存在はいないんだから、当然の流れだろう。
この城にはキリ以外にもう一人、ヨセフさんという人がいて、その人がご飯を作っていた。魔物のたぐいじゃなくて普通の人間のおじいちゃんだ。
掃除や他の雑事はみんなキリの魔法でできちゃうけれど、ご飯だけは材料は用意できても作り方がわからないそう。
キリの魔法で金やら宝石やらを出して、それを売ったお金で食材などの必要なものを用意しているらしい。
稼ごうと思えばいくらでも荒稼ぎできちゃうシステムだけど、教育係から聞いたうろ覚えな解説によると、どんな高等な術士でも無から有を生むことはできないらしいし、魔王の力が特別ってことだろう。同じことを私もできちゃうかもしれないと思うと、少しだけわくわくしてしまうから現金なものだ。しないけどさ!
何日かたって、気持ちが落ち着いてから、私は手紙を書いた。
いきなり勇者がいなくなってしまって、王城はきっと大パニックだろう。
誘拐とかじゃなくて、自分の意志でいなくなったんだってことがわかれば、少しはマシかもしれない。
だからって、直接出向いて説明するなんてできるわけがなくて。
どうすればいいか悩んでいたら、手紙を書いたらどうかな、とキリに勧められた。
『やっぱり私には無理です。
ごめんなさい。
マリア』
そう書いた手紙は、キリの力で城に送ってもらった。
私のいた部屋の机に送ったらしいから、きっとすぐに誰かが気づいてくれるだろう。
教育係、怒ってるかなぁ。少年術士なんて怒髪天をついてるかもしれない。目に浮かぶようだった。
侍女Aは……心配しているかもしれない。ただの想像でしかないけれど。
あっちの状況も、あっちの人たちのことも、考えるだけで気持ちが沈んでいく。
やめやめ! と頭を振って、私はある場所へ向かった。
この城で一番、空に近い場所へ。
城の二階からつながっている塔の螺旋階段を、うきうきしながらのぼっていく。勇者の身体能力のおかげで、二段飛ばしで駆け上がっても全然疲れない。
勇者の力を使えば瞬間移動もできちゃうんだろうけど、まだ使いこなせてないのにそんな大技に挑戦するのは怖かった。
ちょっと時間がかかるくらいどうってことない。力の訓練以外やることがなくて、暇ならいくらでもあるんだから。
最上階、ギギギ、と音のする重たい扉を身体で押して開く。
視界いっぱいに広がるのは、青々とした空。
そしてそこに、今日は先客がいた。
「キリ……」
「やあ、マリ。偶然だね」
こちらを振り返って微笑むキリは、まるで私がここに来るのをわかっていたみたいだ。
もしかしたら本当にわかっていたのかもしれない。だってここ数日、私は頻繁にここに来ているし。キリは魔王なんだから、私がこの城のどこにいるのかわかっても何も不思議じゃない。
「キリも、ここが好きなの?」
尋ねながら慎重に足を動かして、キリの隣に並んだ。
塔の最上階は狭い屋上みたいになっていて、胸までの高さのギザギザの側壁で囲われている。壁の近くまで行けば、城の周りが一望できるというわけ。
高所恐怖症ではないけど、さすがにちょっと足がすくむ。でも、それ以上に気持ちがいい場所だ。
「好き……かどうかはわからないな。でも、たまに来たくなる」
「それは好きって言うんだと思うよ」
「そうかな?」
不思議そうな顔をするキリに、私はくすくすと笑う。笑えるように、なった。
まだ少しカラ元気っぽさは残っているかもしれないけど、おおよそいつもどおりの私に戻ることができたと思う。
あそこから逃がしてくれて、新たな居場所を作ってくれたキリのおかげだ。
「いい眺めでしょう? この景色を見せたかったんだ」
眼下を見下ろしながら、キリは新緑の瞳を細める。
時計台に連れて行ってもらうときにキリが言っていた、『もっと見晴らしのいい場所』はここだったのか。
「たしかに、きれい。遠くに見えるのは湖? 今度行ってみたいな」
魔王城は谷に面していて、城の端っこにあるこの塔は一面が谷、もう一面が森、といった感じ。
森の先には開けた場所があって、キラキラと光を反射してる様子からどうやら水場らしいことが見て取れた。
谷の方向も、向こう側の斜面の木々が紅葉し始めていて、絶景と言っていい。
元の世界にこんな場所があったら、観光名所になっていただろうなぁ。
「連れてってあげる。泳ぐこともできるよ」
「この時期だとちょっともう寒くない?」
「僕がなんとかしてあげる」
たしかにキリならどうとでもできちゃいそうだなぁ。なんたって魔王様だもんね。
悪しき存在とかこの世界を滅ぼす存在とか、教育係や周りから散々聞かされた魔王とキリが、いまだに頭の中でイコールでつながらない部分もある。
でも、そもそもみんな文献でしか魔王を知らなかったわけだし、ギャップがあって当然なんだろう。
「寒くなくするバリアみたいなのを張るの? それとも湖の水温を上げちゃうの?」
「マリの好きなほうでいいよ」
「バリアはまだしも、水温を上げちゃったら生態系が変わっちゃうよ」
「考えたこともなかった。このあたりは魔物くらいしかいないからなぁ」
魔物……と、その言葉を聞いて、身体が硬直するのを止められなかった。
考えないようにしていても、忘れようと思っていても、記憶からは消えてくれない。
あの、破壊された町も、逃げ惑う人も、おぞましい色をした大きなイノシシも。
「怖がらなくてもいいよ。僕が傍にいるかぎり、姿を現さないから」
私が何に反応したのか、キリにはバレバレだったらしい。
安心させるように微笑むキリに、ようやく私は詰めていた息を吐き出した。
「魔物は、キリが生み出してるわけでも、キリの意志で人を襲ってるわけでもないんだよね」
問いかけというよりは、確認だった。だいたい答えは予想していたから。
以前、私が魔王について聞いたときの、魔王の意志は関係ない、という言葉。
あの時、私は……かわいそう、って思ったんだ。
世界を滅ぼすつもりなんてないのに、勝手に世界の敵にされてしまった魔王様。
この世界の住人じゃない私からしてみれば、あまりにも理不尽な話だ。
「うん。魔物はこの森で自然発生する。どうやら生き物を襲う習性があるらしくて、人間も動物も見境なしだよ」
キリは、何を考えているのか読めないあわい微笑みを浮かべたまま、地上を見下ろした。
その目には、もしかしたらこの森にいるはずの魔物が映っているのかもしれない。
「でも、魔王が存在しなければ魔物も生まれないんだから、僕が生み出しているようなものかもしれないね」
「それは、違うよ」
小さな声で、けれどはっきりと否定した。
キリは何もしていない。世界を滅ぼす気もない。
どうでもいい、って前に言っていたけど、きっとそれは本心なんだろう。
キリがどうして魔王をしているのかは、知らない。でも、なりたくてなったわけじゃないことくらいは私にもわかる。
私が、勇者になりたかったわけじゃないのと同じように。
そうだよ、私は最初から嫌だった。
勇者だなんだって担ぎ上げられて、有頂天になることはできなかった。
私は、私が普通の、十六歳の女の子だって知っていたから。
この世界をお救いください。魔王を倒してください。求めるばかりの声から逃げまくった。
そんなことできるわけないって思っていたから。
そして、それは正しかった。私には魔王を倒せない。
なのに……。
やっぱり私には無理です。
ごめんなさい。
なんにも考えずに、伝えなきゃと思ったことをそのままつづった手紙の文面。
どうして、ごめんなさい、なんて書いたんだろう。
悪いなんて思っていないはずだ。
勝手に喚ばれて、勝手に魔王を倒せって言われて、私は巻き込まれただけ。
みんなが過剰に期待していただけで、私には無理だって、最初から言っていたのに。
私は、勇者になんてなりたくなかったのに。
でも……みんな、優しくしてくれた。
侍女A――ティマは、いつも他の侍女さんよりもしっかりとお世話を焼いてくれた。ちょっとおせっかいがすぎるくらいに。お話し相手にもなってくれた。……楽しくなかったとは、言えない。
教育係――ルルドだって、口うるさかったけど、悪い人じゃなかった。いざというとき私が困らないように、根気よくこちらの世界のことを教えてくれた。魔物を消滅させたあのとき、私を心配してくれた。全然うれしくないけど、力が使えるようになったきっかけだって、あの人だ。
少年術士――イレは……まあ、優しくはなかったけど。でも、彼の必死な気持ちは、まったくわからないわけでは、ないかもしれない。
気づきたくなかったけど、名前を覚えてしまうくらいには、お世話になったし、印象に残っている。
名前なんか呼ばない。覚えてやるものか、って思ってたのになぁ。
青い青い、目に痛いほど眩しい空を見上げながら、すぅ、と息を吸った。
吐き出すときは、声と一緒に。
「《勇者の力でこの世界の人を傷つけることはできない》」
思いを、願いを、韻に込めて。
言葉が力となって、しろい光が私の身体に浸透していくのを眺める。
現在関わりのある人間はヨセフさんだけ。ティマもルルドも、ついでにイレも、会う予定はない。
この縛りにどんな意味があるのかはわからない。
ただ、私はこの世界が嫌いじゃない。私はこの世界の人たちが嫌いじゃない。
今まで見ないふりをしていた感情を認めた、証みたいなものだ。
「成功したかな?」
「うん、大丈夫みたいだね」
私の唐突な行動も、キリは驚くことなく見守ってくれていた。
それが、どこかくすぐったくて。
ツキンと胸が痛んだ。