9.時間は有限だという、その教訓

 春はまだ遠い、ある冬の日。
 雪が、魔界を真っ白に染め上げた。
 ススメはいくつになっても雪を喜ぶ。
 お気に入りのコートを着て、マフラーと手袋をして、外に飛び出す。
 雪の中に倒れ込み、自分の型を見て笑ったりしていた。友人と一緒に雪合戦をして、白熱しすぎて風邪を引いたこともあった。去年は自分の背丈ほどの雪だるまを作ったりもした。
 今年はどんなふうに遊ぶのだろうか。
 ススメが外に出てから数十分ほど経ったころ、コクヘキも様子を見に行くことにした。

 最初に目にしたのは、木の根本にしゃがみ込むススメ。
 具合でも悪いのだろうか、と心配する必要はない。
 彼女がいるところに、何があるのかをコクヘキは知っていたから。
 そこは、兎のユキの墓場。
 ススメはユキの墓前で静かに手を合わせていた。
 雪が降るとこうしてススメはユキの墓を参る。毎年のことだ。

 コクヘキは声をかけることなく、ゆっくりと近づいていく。
 気配には気づいているだろう。足音も消してはいないのだから。
 墓の前まで行くと、雪うさぎが供えられているのが見えた。
 これも、毎年のことだった。
 コクヘキもススメの隣で黙ったまま手を合わせた。
 その場に沈黙が落ちた。
 風の音すらも雪がかき消してしまう。

「ユキはわたしに教えてくれたよ」

 先に沈黙をやぶったのは、ススメだった。
 おもむろに立ち上がり、睨むようにしてコクヘキを見上げてくる。

「時間には限りがあるんだってこと。あとで後悔しても遅いんだってこと」

 鮮やかな赤い瞳は、まるで天然の宝石のように、傷を内包していた。
 もっと遊んであげたかった。もっと優しくしてあげたらよかった。もっと、もっとずっと一緒にいたかった。
 ユキが死んでしまった日、そう言っていたのを思い出す。
 後悔、したのだろう。泣いても泣いても、忘れられないほどに。
 別れは大なり小なり心に傷を残す。
 それを乗り越えていくのが大人というものだが、いつまでも抱えていく勇気を、ススメは持っているのかもしれない。

「わたしは、このままじゃ後悔するって思った。
 おじさんと、今のままの関係を続けてたら、絶対に後悔するって」

 いつものススメとは違う、静かに降り積もるような声。
 けれど、そのまなざしはいつもと変わらず、コクヘキを射抜く。

「おじさんは、後悔しない?」

 問いかけが、胸に突き刺さった。
 ススメとの別れなど、考えたくはなかったから。
 いつかその時が来るとしても、それはまだ、ずっと未来のことだと思っていた。
 知らず、目をそらしていた。

「おじさんか、わたし。どっちかが死んじゃってからじゃ遅い。
 わたしは、遺されたくないって思うし、遺したくないって思う。
 それくらい、すごくすごく、おじさんのことが好きだから」

 ススメの声が、瞳が、訴えかけてくる。
 あふれ出そうなほどの切なる想いを。
 逃げることは許さないとばかりに、眼前に突きつけられてしまう。
 ススメが、どれだけコクヘキのことを想っているのか。
 冗談でも勘違いでもないのだと、全身で語っている。

「わたしはおじさんと、最後の最後まで一緒がいいよ。
 だから、わたしはおじさんのつがいになりたい」

 ススメは子どもらしい素直さでもって、はっきりと願いを口にした。
 魔界には《つがいの契り》というものが存在する。
 一般的な結婚とはまた異なる、互いの一生を縛る契約だ。
 つがいになれば、魂がつながる。
 コクヘキの死がススメの死となり、ススメの死がコクヘキの死となる。
 残される者のことを考えない、なんとも身勝手な因習。けれど、魔界の誰もがあこがれ、つがいを待ち焦がれている。
 コクヘキは誰とも交わすつもりはなかった。今までそんな相手はいなかった。

「……お前は、俺にとって、かわいい娘だよ」
「ウソだ」

 変わりようのない事実を告げると、即座に否定が飛んできた。
 そのためらいのなさに、コクヘキは気圧される。

「おじさん、自分がどんな顔してるのか、自覚ないでしょ」

 いったいなんのことだろうか?
 眉をひそめるコクヘキに、ススメは言葉を続ける。

「私のことが好き、いとしい、って顔してる」

 ギクリ、と心臓が嫌な音を立てた。
 図星を指されたからなのかはわからない。
 コクヘキの想いすら見透かすように、じっと見てくるススメから、思わず目をそらした。
 ススメの瞳に映った自分を、今は見たくない。
 彼女の言うとおりの顔をしていたら、何かが変わってしまうような気がしたから。

「それは、娘としてだ」
「そう信じていたいんでしょ?」

 ススメの追及に、コクヘキは沈黙で答える。
 何も返せなかった。
 迷いを正確に言い当てられてしまったから。
 今では、自分でもよくわからなくなってきているのだ。
 本当にススメをただの娘としてしか見ていないのか、どうか。
 ただ、その想いに応えることはできない、と。
 そう強く思う自分がいるだけで。

「……本当は、私も、ただの娘じゃないって、信じたいだけなのかもしれないけど」

 ぽつりと小さな声でつぶやき、ススメはうつむいてしまった。
 身長差があるために、そうされると表情が見えなくなる。
 コクヘキはあえて覗き込もうとはしなかった。
 なんとなく、今ススメがどんな顔をしているのかわかる気がしたからだ。
 きっと、泣きそうな顔をしている。
 口を引き結び、眉根を寄せて、赤い瞳をうるませながら。
 それでも、あきらめないと、その意志を証明するように涙はこぼさずに。

 その顔を見て、自分が何を口走るかがわからなかった。
 言ってはならないことを、言ってしまいそうな。
 望んではならないことを、望んでしまいそうな。
 そんな予感がした。
 だから、コクヘキは動かなかった。動けなかった。



 視界の端には、墓前に供えられた雪うさぎ。
 まるで、ユキが二人を見ているような。
 ススメと同じ赤い瞳で、コクヘキを責めているような。
 馬鹿らしい妄想に、コクヘキはとらわれた。



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