春はまだ遠い、ある冬の日。
雪が、魔界を真っ白に染め上げた。
ススメはいくつになっても雪を喜ぶ。
お気に入りのコートを着て、マフラーと手袋をして、外に飛び出す。
雪の中に倒れ込み、自分の型を見て笑ったりしていた。友人と一緒に雪合戦をして、白熱しすぎて風邪を引いたこともあった。去年は自分の背丈ほどの雪だるまを作ったりもした。
今年はどんなふうに遊ぶのだろうか。
ススメが外に出てから数十分ほど経ったころ、コクヘキも様子を見に行くことにした。
最初に目にしたのは、木の根本にしゃがみ込むススメ。
具合でも悪いのだろうか、と心配する必要はない。
彼女がいるところに、何があるのかをコクヘキは知っていたから。
そこは、兎のユキの墓場。
ススメはユキの墓前で静かに手を合わせていた。
雪が降るとこうしてススメはユキの墓を参る。毎年のことだ。
コクヘキは声をかけることなく、ゆっくりと近づいていく。
気配には気づいているだろう。足音も消してはいないのだから。
墓の前まで行くと、雪うさぎが供えられているのが見えた。
これも、毎年のことだった。
コクヘキもススメの隣で黙ったまま手を合わせた。
その場に沈黙が落ちた。
風の音すらも雪がかき消してしまう。
「ユキはわたしに教えてくれたよ」
先に沈黙をやぶったのは、ススメだった。
おもむろに立ち上がり、睨むようにしてコクヘキを見上げてくる。
「時間には限りがあるんだってこと。あとで後悔しても遅いんだってこと」
鮮やかな赤い瞳は、まるで天然の宝石のように、傷を内包していた。
もっと遊んであげたかった。もっと優しくしてあげたらよかった。もっと、もっとずっと一緒にいたかった。
ユキが死んでしまった日、そう言っていたのを思い出す。
後悔、したのだろう。泣いても泣いても、忘れられないほどに。
別れは大なり小なり心に傷を残す。
それを乗り越えていくのが大人というものだが、いつまでも抱えていく勇気を、ススメは持っているのかもしれない。
「わたしは、このままじゃ後悔するって思った。
おじさんと、今のままの関係を続けてたら、絶対に後悔するって」
いつものススメとは違う、静かに降り積もるような声。
けれど、そのまなざしはいつもと変わらず、コクヘキを射抜く。
「おじさんは、後悔しない?」
問いかけが、胸に突き刺さった。
ススメとの別れなど、考えたくはなかったから。
いつかその時が来るとしても、それはまだ、ずっと未来のことだと思っていた。
知らず、目をそらしていた。
「おじさんか、わたし。どっちかが死んじゃってからじゃ遅い。
わたしは、遺されたくないって思うし、遺したくないって思う。
それくらい、すごくすごく、おじさんのことが好きだから」
ススメの声が、瞳が、訴えかけてくる。
あふれ出そうなほどの切なる想いを。
逃げることは許さないとばかりに、眼前に突きつけられてしまう。
ススメが、どれだけコクヘキのことを想っているのか。
冗談でも勘違いでもないのだと、全身で語っている。
「わたしはおじさんと、最後の最後まで一緒がいいよ。
だから、わたしはおじさんのつがいになりたい」
ススメは子どもらしい素直さでもって、はっきりと願いを口にした。
魔界には《つがいの契り》というものが存在する。
一般的な結婚とはまた異なる、互いの一生を縛る契約だ。
つがいになれば、魂がつながる。
コクヘキの死がススメの死となり、ススメの死がコクヘキの死となる。
残される者のことを考えない、なんとも身勝手な因習。けれど、魔界の誰もがあこがれ、つがいを待ち焦がれている。
コクヘキは誰とも交わすつもりはなかった。今までそんな相手はいなかった。
「……お前は、俺にとって、かわいい娘だよ」
「ウソだ」
変わりようのない事実を告げると、即座に否定が飛んできた。
そのためらいのなさに、コクヘキは気圧される。
「おじさん、自分がどんな顔してるのか、自覚ないでしょ」
いったいなんのことだろうか?
眉をひそめるコクヘキに、ススメは言葉を続ける。
「私のことが好き、いとしい、って顔してる」
ギクリ、と心臓が嫌な音を立てた。
図星を指されたからなのかはわからない。
コクヘキの想いすら見透かすように、じっと見てくるススメから、思わず目をそらした。
ススメの瞳に映った自分を、今は見たくない。
彼女の言うとおりの顔をしていたら、何かが変わってしまうような気がしたから。
「それは、娘としてだ」
「そう信じていたいんでしょ?」
ススメの追及に、コクヘキは沈黙で答える。
何も返せなかった。
迷いを正確に言い当てられてしまったから。
今では、自分でもよくわからなくなってきているのだ。
本当にススメをただの娘としてしか見ていないのか、どうか。
ただ、その想いに応えることはできない、と。
そう強く思う自分がいるだけで。
「……本当は、私も、ただの娘じゃないって、信じたいだけなのかもしれないけど」
ぽつりと小さな声でつぶやき、ススメはうつむいてしまった。
身長差があるために、そうされると表情が見えなくなる。
コクヘキはあえて覗き込もうとはしなかった。
なんとなく、今ススメがどんな顔をしているのかわかる気がしたからだ。
きっと、泣きそうな顔をしている。
口を引き結び、眉根を寄せて、赤い瞳をうるませながら。
それでも、あきらめないと、その意志を証明するように涙はこぼさずに。
その顔を見て、自分が何を口走るかがわからなかった。
言ってはならないことを、言ってしまいそうな。
望んではならないことを、望んでしまいそうな。
そんな予感がした。
だから、コクヘキは動かなかった。動けなかった。
視界の端には、墓前に供えられた雪うさぎ。
まるで、ユキが二人を見ているような。
ススメと同じ赤い瞳で、コクヘキを責めているような。
馬鹿らしい妄想に、コクヘキはとらわれた。