草木すらもつかのまの安らぎを得る、静かな夜。
うつらうつらとしていた意識が、人の気配によって覚醒していく。
軍人をしていたコクヘキを恨む輩は、探せば幾人もいるだろう。犯罪に手を染めてまで復讐しようとする者は数えるほどだろうが。
反射的に手を伸ばし、コクヘキに触れようとしていた手首をつかむ。
その予想外の細さに、一気に目が覚めた。
薄暗くてもすぐにわかる。このぼんやりとしたシルエットは、この気配は、ずっと一緒に暮らしている少女のものだ。
「おじさん、一緒に寝て」
手をつかまれたことを気にする様子も見せず、ススメはベッドに乗り上げてくる。
寝起きのために反応が遅れ、気づけば腹の上にのしかかられていた。
だんだんと暗闇に目が慣れていき、ススメの姿をはっきりと認識できるようになった。
真剣で、どこか強ばった表情の少女に、コクヘキはため息をつく。
「……なんて格好をしているんだ」
手首から手を離して、視線をそらした。
ススメが着ているのは、肩も二の腕も太ももも丸見えの、およそ服とは呼べない下着だった。
とてもじゃないが寝衣に適しているとは思えない、薄い生地。肌の色が透けて見える。
いつのまにそんな破廉恥な下着なんて買っていたんだろうか。
服装の趣味にとやかく言うつもりはないが、身体を冷やしてしまいそうなだけでなく、目に毒だ。
男としてとっくに枯れたものだと思っていたが、そうでもなかったらしい。
「興奮する?」
「そんなわけあるか」
「なぁんだ、残念」
クス、とススメが笑った気配がした。
けれど張りつめた空気は依然として変わらない。
強がっているだけだと、顔を見なくてもわかった。
「何をしに来た」
「おじさんと一緒に寝に」
コクヘキの問いに、ススメははっきりとした声で答えた。
迷いは、感じられなかった。
言葉通りの意味ではないことは、ススメの格好と緊張した様子から察せられた。
ススメは、コクヘキに抱かれに来たのだ。
「……俺は、夜這いを仕掛けるような、はしたない娘に育てたつもりはないんだが」
ススメの顔は見ないままに、コクヘキはもう一度深いため息を吐く。
できれば、すぐにでもコクヘキの上から退いて、自分の部屋に戻ってほしい。
コクヘキも男なのだ。どれだけの年の差があろうと、関係ない。
こんなことをされて、気づかないわけにはいかなかった。
ススメを、女として見ることができてしまうことに。
「ごめんね、期待外れに育っちゃって」
ススメは悪びれずにそう言った。
謝っているのに、そこに心はこもっていない。
どうしても通したい我というものが、ススメにもあるのだろう。
「今すぐ、部屋に戻りなさい」
「イヤ」
「……ススメ」
叱るときのような低い声を出しても、ススメは言うことを聞かない。
顔をしかめたコクヘキは、きっと大人でも真っ青になるほどに怖い顔をしているだろうに。
一歩も引かないのは、ススメが子どものころからコクヘキに慣れ親しんでしまっているせいだろうか。
思えばススメは出会ったその時から、一度もコクヘキを怖がったことなどなかった。
純粋な好意を向けてくれる少女に、コクヘキもずいぶんと救われてきた。
けれど今は、ススメの度胸がコクヘキの邪魔をする。
「わたし、知ってる。
おじさんは、わたしのことが嫌いじゃない」
「……そうだな」
間違ってはいなかったから、肯定した。
嫌いなわけがない。大切な大切な娘なのだから。
コクヘキなりに、愛情を注いで育ててきた。優しく朗らかで、自慢の娘だ。
「おじさんは、わたしにしあわせになってほしいと思ってる」
「当然だ」
今さら言うまでもないことだった。
娘のしあわせを願わない親などいないだろう。ススメの実の親のような、一部の例外を除き。
「おじさんは、自分じゃわたしのことをしあわせにできないと思ってる」
「…………」
その言葉には、何も答えられなかった。
ススメを、しあわせに。
それは、コクヘキではない他の誰かへと向けた願いだ。
自分よりも、ススメに似合いの者を。自分よりも、ススメを笑顔にしてくれる者を。
コクヘキはずっと求めている。
「図星だ」
ススメはそう言うと共に、コクヘキへと手を伸ばしてきた。
暗闇に浮かび上がる白い手が、コクヘキの角へと触れた。
とたんに全身に走る衝動は、決して目の前の少女にぶつけてはならない種類のもの。
もう、ススメが子どもだったころとは違うのだ。
己の身体の反応が、何よりもそれを物語っていた。
「……っ、ススメ、冗談は」
「冗談なんかじゃない。
なんで、何回言ってもわかってくれないの!」
今にも泣き出しそうなうるんだ瞳と出会う。
手を離させようと浮かせた腕が、中途半端にさまよった。
「わたしは、おじさんが好き。
おじさん以外と契る気なんて、ほんの少しもない」
ぎゅっと角を握られて、息が詰まる。
ススメの声の鋭さが、まなざしの強さが、コクヘキの心を直に揺らす。
もう、やめてほしいのに。
ススメは容赦をしてくれない。
「最初に見たときから、おじさんがわたしのつがいなんだって感じてたんだよ。
子どものころはちゃんと理解してなかったけど、おじさんが特別だってことだけはわかってた」
想いをそのまま音にして、コクヘキに語りかける。
ススメの思慕の情を疑う気持ちなんて、今はもうどこにもない。
魔族の、つがいを求める心は、真剣そのもの。
生半可な気持ちで言えるものではないのは、きっと最初からわかっていた。
ただ、コクヘキが目をそらしたかっただけで。
『おじさんはね、わたしのお月さまなんだよ』
ススメを引き取って、まだそれほど経っていないころ。
怖い夢を見たと泣きついてきた時の、ススメの言葉を思い出す。
あの時は、何を言っているのかわからなかった。
けれど今なら、理解できる気がする。
コクヘキの何かが、ススメの本能を刺激するのだろう。
それはきっと、つがいへと向かう想い。つがいを求める本能。
ススメはコクヘキよりもずっと敏く、本能的に察していた。
大人に対して警戒心を持つススメが、コクヘキにだけ懐いたことも、今思うと、そういうことなのだろう。
「わたしはずっと、おじさんに恋してるの。おじさんを愛しているの。
おじさんが、欲しくて欲しくてしょうがないの」
その言葉は、コクヘキの心へとまっすぐ落ちていく。
そうして、心の中心で、ずん、と重みを主張した。
一心に、求められている。
叫ぶように激しく、ささやくように愛情深く。
「おじさんは、わたしに恋できない? わたしが子どもだから?
……わたしをつがいとは、思えない?」
つぅ……っと、ススメの頬に一筋の涙がつたった。
まるで、大切に心の中で育ててきた想いが、身のうちにとどめきれずにあふれ出たように。
コクヘキを想って流された涙が、あまりにもきれいで。
その涙のひとしずくすら、いとおしいと、コクヘキは思った。
ああ、もう、気づかないふりは、できない。
つがいとは、惹き合うものだ。
もしもススメにとってコクヘキがつがいなら、コクヘキにとってもススメがつがいのはずで。
だからコクヘキは、ススメの想いから目をそらそうとしていた。
ただの刷り込み。ただの親愛。もしそうでなかったとしても、ただの一過性の恋なのだと。
ススメとコクヘキはつがいではないのだと。
これは運命ではないのだと。
そう、思っていたかった。
誰よりも、何よりも、自分よりも、彼女以外のすべてと天秤にかけてもススメを選ぶほどに、大切だから。
「俺はもう、若くない」
「わかってるよ、それでも好きなの。
いっぱい年上のおじさんが好きだよ」
ぽつり、とコクヘキがつぶやくと、ススメは涙を流しながらも微笑んだ。
人間よりも寿命の長い種族の多い魔界では、四十や五十の年の差はそこまでめずらしいわけでもない。竜族や吸血鬼などでは、百以上離れていることもままあることだ。
問題は年の差自体にあるわけではなかった。
鬼族は魔界では一般的な寿命。獣人は人間よりも少し長生き、といった程度。
鬼族が、もう少し寿命が長ければ。もしくは、こんなに年が離れていなければ。
コクヘキも悩むことはなかったのだろう。
「……俺は、お前の寿命を縮めるかもしれないぞ」
決して、言うつもりのなかった本音が、こぼれ落ちた。
《つがいの契り》
それは、血と名を交わし、繋ぐ儀式。
お互いを、髪の毛の一本から爪の先にいたるまで、縛り上げる契約。
生を共にし、死をも共にする約定。
コクヘキが死ぬ時、ススメもまた死に倒れるのだ。
鬼族の寿命は獣人のそれよりも長い。けれどコクヘキとススメは、年の差が開きすぎていた。
ススメが寿命をまっとうするよりも先に、コクヘキの命が尽きれば、その時は――。
……それは、受け入れがたい恐怖だった。
「うん、覚悟してる。
それに、そんなに変わんないよ」
くすぐるように指先で角をなでながら、ススメは笑みを深めた。
ささいな問題だと、気にするようなことではないのだと。
ススメの表情は語る。
ずっと、心の奥底にその悩みを沈めていたことが、馬鹿らしくなるほどに。
少女にはいっさいの躊躇も、不安も、恐怖も見えなかった。
「寿命とか、関係ない。
おじさんの傍にいられるなら、それでいいよ」
耳になじむやわらかな声が、コクヘキの凝った悩みも恐怖をも、溶かしていってしまう。
元気が良くて甲高いだけだった声は、いつのまにかしっとりとした艶を含んでいた。
こんな状況だからなのか、今まで気づかないふりをしていただけなのか。
自分がどれだけススメのことを見ていなかったのか、見ないようにしていたのか、思い知らされるようだ。
つがいなんて、一生現れないと思っていた。
魔族の中でも、つがいを得られる者はそう多くはない。
人間のように普通に恋をして、普通に結婚し、時に別れる。それが一般的だ。
運命の出会いは、そう簡単に見つかるものではない。
まして、成り行きで拾った少女がつがいだなんて、思うわけがない。
つがいは魂で選ぶもの。種族も年齢も何も関係はない。
とはいえ子どものススメに、コクヘキは特に運命を感じた記憶はない。
けれど、あの時。
孤児院に援助をすることを決めた時。
ここでススメとの関係を断つことだけは、耐えられなかった。
離れがたいと、傍に置いておきたいと。
無垢な瞳でコクヘキを見上げる少女を、とっさに抱き上げたあの時。
あの瞬間の、あの衝動は、たしかにコクヘキの身のうちから生まれたものだった。
あれが、つがいを求める魔族としての本能だと言うのなら。
コクヘキは知らぬうちに運命をたぐり寄せていて、ススメは紛れもなく己のつがいなのだろう。
「……負けたよ」
コクヘキは苦笑を浮かべて、自分から手を伸ばした。
すべらかな頬へ触れ、雪のような髪を梳き。
今までずっと、触れないようにしていたふわふわの耳を、そっと撫でた。
獣人は自分の認めた人にしか、耳や尻尾に触れさせない。
ススメはきっと触れさせてくれるだろう、と思いつつも、コクヘキは決して触れようとしなかった。
それは、ススメにとって自分が特別なのだと、知りたくなかったからかもしれない。それを知ることで、自分の想いに気づきたくなかったからかもしれない。
毛の流れに沿って優しく触れてやると、ふへへ、とススメは破顔した。
どうしようもなく愛しさが込み上げてきて、コクヘキは少女の華奢な肩を引き寄せた。
「ススメ。ずっと、傍にいてくれ」
ずっと、ススメが必要としている間は、傍にいてあげよう、と思っていた。
けれど、本当に必要としていたのは、コクヘキのほうだった。
ずっと傍にいてほしかった。自分から離れていってほしくなかった。いつか来る別れなど考えたくはなかった。
共に生を終えるなら、それは確かに幸福と呼べるのだろうと。
つがいを求める狂おしいほどの想いは、しっかりとコクヘキにも根づいていたのだと、今になって自覚する。
「ずーっとずっと、一緒だよ!」
コクヘキの背中に手を回し、ぎゅうっと抱きついてきてくれるいとしいぬくもり。
己の身にかかる重みが、大切で、大切なんて言葉では足りなくて。
ああ、こんな時に、あいしている、と告げるのか、と。
ススメを見習って、想いのままに言葉にすれば。
最後の砦が崩壊したかのように、ススメは声を上げて泣き出して。
寝かしつけるのに苦労して、結局コクヘキは朝日を拝む羽目になるのだった。