46話 泥を被る覚悟はすでに

「竜のこともあるしな」
「……そうだね」

 タクサスの言葉に、エリオは表情を固くする。
 竜が来ると事前に聞いてはいたものの、実際に目の当たりにするとどうしても無心ではいられなかった。
 一切の感情を映さない凍った瞳。他者を寄せつけない美貌。淡々とした温度のない声。
 こみ上げた不快感と畏怖の念と、言い表せない複雑な思い。
 そんなものもすべて、白竜にはきっと伝わってしまっていた。
 フィーラに隠し通せていたかも自信はない。

「あまり毛嫌いはしてやるなよ。
 俺たちは、彼らと人とを結びつける存在なんだから」

 諭すような、なだめるような、穏やかな声音。
 タクサスは真面目で、良心的で、だからこそ下手なごまかしは通用しない。

「嫌いではないよ」

 嘘はついていない。本当のことを言っていないだけで。
 素直に自分の未熟さを認められるほど、エリオは人間ができていない。
 苦手ではあるけど、という言外の意味が正確に伝わったのだろう。

「知っている」

 タクサスは、仕方のないやつだ、とでも言いたそうな苦笑を浮かべていた。

「フィーラのことで、これからも世話になることがあるかもしれない。
 それだけは覚えておけよ」
「大丈夫。借りられる手は誰のものだって借りるよ」
「なら、かまわない」

 エリオの竜に対する悪感情は根が深いものだ。
 それをタクサスもわかっているからか、うるさく言ってきたりはしない。
 適度な距離感が心地良くて、甘えてしまう自分がいる。
 タクサスには甘やかしているつもりはないんだろうけれど。

「それよりも、フィーラの睡眠欲、どう思う?」

 これも彼に話そうと思っていたことだ。
 夕食の席で、皿に頭を落としそうになっていたフィーラ。
 起きたのが夜明け前とはいえ、その前に半日以上寝ていたというのに。
 根性でデザートまでは食べていたけれど、気が抜けたのか、その直後に寝落ちてしまった。
 あの眠気は、どこか普通ではない気がした。

「多少、奇妙だとは思ったが」
「さっきちょっと視てみたけど、それはもうぐっすりと寝入ってたよ。
 今なら屋敷が燃えても起きないだろうね」

 部屋を覗いたわけではなく、監視用の紐を通じての情報だ。
 エリオがつけていてほしいと言ったからか、彼女は寝ているときも手首に結んでくれていた。
 そのおかげで、少し意識するだけでエリオはフィーラの様子を探ることができる。
 先ほど視たフィーラは、大きな音や振動でも起きそうにないほどに深い眠りについていた。

 おかしい、とはっきり断じることはできない。
 それでも違和感を覚えるほどには彼女の眠気は異常だった。
 たかが睡眠。されど睡眠。
 人間の三大欲求なのだから、絶対に必要なものではあるけれど、限度というものはある。

「具合でも悪いんだろうか」

 心配そうに眉をひそめるタクサスに、エリオは首を横に振る。

「たぶん、違う。
 想像でしかないけど、世界を越えたことの弊害なんじゃないかな」

 エリオは落ち人についてそれほど知らない。
 エキナセアに聞けば、もしかしたら何かわかるかもしれないが。
 そもそもフィーラは過去の落ち人とは事情が異なるため、同じ症状の記録が残っているかもわからない。

「もしかしたら今日だけのことかもしれないし、オレたちが心配しててもどうにもならないよね」

 まだ、彼女が来てから二日も経っていない。
 今の自分たちにできることは、様子を見ることだけだ。
 これが続くようなら、何かしら考えなくてはいけなくなるかもしれない。
 ただ眠くなるだけならいいが、睡眠時間がだんだんと伸びていって、そのまま……という可能性だってないとは言いきれない。
 心配事は尽きそうになかった。

「じゃ、オレは行くけど、寝れそうなら寝ておきなよ」

 エリオはそう言って、部屋を出て行こうとした。
 この足で森を見回りにでも行こうかと考えながら。

「エリオ、一つだけ言っておく」
「何?」

 扉に手をかけながら、振り返る。
 タクサスの紅々とした瞳が睨むようにエリオに向けられていた。

「一人で泥を被ろうとはするなよ」

 なんのことを言っているのか、すぐにわかった。
 フィーラが敵であった場合。敵とまではいかなくても、この世界にとって害になる存在だった場合のことを言っているんだろう。
 どう返そうか悩むエリオの脳裏に、フィーラのくるくると変わる表情が浮かんできた。

『ありがとうございます! 大切にしますね』

 本当にうれしそうな顔をして見当違いなお礼を言ってきたり。

『えへへ、お役に立てたならよかったです』

 へにゃりと気の抜けた笑顔を浮かべたり。

『あの、はじめまして。フィーラって言います。
 記憶がなかったり、どうやら違う世界から来ちゃったりで、このお屋敷にお世話になることになりました』

 初対面の相手に警戒することなく名乗ったり。

『エリオさんの笑顔が好きなんだなって思ってました』

 無防備すぎる好意をエリオに向けてきたり。

『最初にエリオさんの瞳の色を見たとき、すごくほっとしたんです。
 あたたかくて優しくて、どこか懐かしいような感じがして。
 もしかしたらこの子の色に似てるって思ったのかもしれませんね』

 エリオのことを、そうすることが当然のように信頼しきっていたり。

 どうしてそこまで、と言いたくなるほどに、フィーラは純粋で、無邪気で。
 下手をすると子どもよりも危なっかしく見えて。
 疑うことなく、エリオのことをまっすぐ映すペリドットの瞳から、純粋ではないエリオは目をそらしたくなる。
 そんなに自分を信用するなと、言ってもフィーラは聞こうとしない。
 いずれ彼女を傷つけることになるのかもしれないと思うと、可能性でしかないのに今から気が重い。

 けれどエリオは、もしそうしなければならないとなったなら、ためらうことなく情を捨て去るだろう。
 フィーラを傷つけたとしても、それを致し方ないことだと片づけるだろう。
 そのことを、タクサスは誰よりも知っている。
 進んで泥を被ろうとするエリオを、心配してくれている。

「……善処するよ」

 明言は、できなかった。
 自分が泥を被ることですべて丸く収まるなら、エリオはきっとそうしてしまうから。
 タクサスも、そんなエリオを知っているからこそ、あえて言葉にしたんだろう。
 あきらめたように、小さくため息が吐かれた。


 エリオにできるのは、そうならなければいい、と願うことだけだ。



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