「……名前」
つぶやくようなエリオさんの言葉に、私は思わず「へ?」と間抜けな声をもらしてしまう。
「ちゃんと発音できるようになったんだね」
「あ、はい。たぶん術のおかげですね」
エリオさんって、今はしっかり発音できる。
教えてもらったときは、がんばったけどどうしてもぎこちなかった。
こっちの言葉が話せるようになって、やっぱり舌の動かし方が違ったんだってことを実感しました。
まだ完全には慣れていないから、けっこう大変なんだけどね。
「ちょっと、もったいなかったかな。
あの時、たどたどしくてかわいかったから」
エリオさんは思わずといったように笑みをこぼす。
かわいかったって……さらっと言うなぁ。
天然タラシっぷりは健在ですね。
深い意味はないってわかっていてもちょっと照れちゃいますよ。
「私はこっちのほうがうれしいです。
エリオさんって、ちゃんと呼びたいですから」
にっこり、笑顔のお返しです。
美形でも美人でもない私の笑顔じゃお返しにもならないけど、そこは気分の問題。
仏頂面を見せられるよりは笑顔のほうが何倍かマシだろうと思うのです。
「……ねえ、フィーラ」
ふと、エリオさんが真剣な表情に変わる。
「はい?」
「どうして聞かないの?」
「何をですか?」
なんのことだかまったくもってわからない。
何か質問しなきゃいけないことでもあったんだろうか。
それとも「君は話を聞かなさすぎる」とかそういう意味? 違うよね?
「結界のこと。オレの目の色のこと。他にもたくさんある」
結界って……あ、もしかして。
すっかり忘れていたけど、この屋敷の前で寝こけちゃう前、しゃぼん玉みたいな変な膜が見えたんだった。
すごく嫌な感じがして、近づきたくなかったんだけど、エリオさんに抱えられていたからどうしようもなくて。
……そういえば、急に眠くなったのって、あの膜を通りすぎてからだ。
聞かないのかって言うくらいだから、あれがなんだったのかエリオさんは知っているんだ。
「聞いたら、教えてくれるんですか?」
なんだか生意気な言い方になっちゃったけど、こういう聞き方をしたのには理由がある。
エリオさんに話すつもりがないなら、それでいいような気がするから。
こことは違う世界から来た、記憶のない私を頭から信用するなんて無理だと思う。
話せることだけ話してくれれば、それでとりあえずはなんとかなるんじゃないかな。
「今言った二つのことなら教えられるね」
「じゃあ、教えてください」
私がお願いすると、エリオさんは一つまたたきをした。
お日さまみたいな金色の瞳が、心持ち温度を下げたような、そんなふうに見えた。
そういえば目の色のことも言っていたけど、なんのことだろう?
「屋敷の手前で君が急に寝てしまったのは、タクサスの張っていた結界のせいだ。
オレは結界の効果を知っていて、君に何も教えなかった」
「タクサスさんが私を眠らせるために結界を張ってたってことですか?」
「結界自体はいつでも張ってあって、昨日はそれにまた別の術が付加されてたんだけど、まあ似たようなものだね。今はもう解除してあるよ」
常時発動している結界って、この森が人が住めない場所って言ってたことと関係しているのかな。
エリオさんの説明を聞きながら、どうでもいいところが気になってくる。
どう反応したらいいのか、よくわからないっていうのもある。
「理由って、聞いてもいいんでしょうか」
とりあえず、気になったことを確認してみた。
昨日限定で別の術をかけていたなら、偶然とか事故とかじゃなくて、意図的なものだったってことだ。
あのしゃぼん玉、嫌な感じだったから、わざとって聞くとあんまりうれしくないけど。
話せないなら話さなくっても別にいい。
何しろ私を対象にしている術のことなんだから、当事者に話すのはエリオさんたちにとって都合が悪かったりするかもしれない。
「術の理由は、タクサスの術が君に通用するか、君が術に気づくかどうかを確かめるため。
オレが黙ってた理由は、タクサスにも君を信用してもらう必要があったから。
君には悪いことをしたって思ってる。ごめん」
金色の瞳はまっすぐ私に向けられていて、揺らがない。
謝ってるのに、エリオさんは反省も後悔もしてるようには見えなかった。
私“には”悪いことをしたと思ってる、って言った。なら、エリオさんにとっては悪いことでもなんでもないってことなのかな。
だったらどうして謝ったりするんだろう。
エリオさんにはエリオさんなりの考えがあって。でも私の気持ちを無視したことには変わりないからって、そういうこと?
優しくていい人なエリオさん。でも、それだけじゃないらしい。
こんなときに、変かもしれないけれど。
私はなんだかほっとしてしまった。
「わかりました」
そう言うと、エリオさんは何度か目をまたたかせた。
予想外の反応だったのかな。
他に何を言えばいいというのか。
「話してくれてありがとうございます!」
私は笑顔でお礼を告げる。
術のことをずっと隠しておくことだってできたのに、エリオさんはそうしなかった。
確かめるため、とか、信用してもらうため、とか。理由は、実を言うとちゃんと理解できてるか怪しいんだけど。
たぶん、タクサスさんからの依頼に関係していることで。
エリオさんが必要なことだと思ったから、私に術がかかるのを黙認したんだよね。
そのあとでこうして私にごまかさずに教えてくれたんだよね。
タクサスさんが意味もなくそんな術を私にかけたりしないって、ほんの少し話しただけでもなんとなくわかる。
きっとエリオさんは私より強くそれを確信していたから、止めなかったんだ。
たとえ私が嫌な思いをしたとしても、大事の前の小事だって、エリオさんは判断した。
優しい人だけど、甘い人じゃない。
人がよすぎて大変そうだな、なんて森では思ったりしたけど、心配することはなかった。
エリオさんは、広い視界としっかりした判断力を持っている人。
もし、私が悪いことをしようとしたら、ちゃんと注意してくれる人。
もし、私が悪い人だったなら、ちゃんと切り捨ててくれる人。
そのことに、すごくほっとした。
結界の前ではちょっと嫌な感じもしたけど、結果的にはぐっすり眠れて気分爽快だし。
ベッドはふわふわもこもこで、この屋敷は居心地がよさそうで、エリオさんはしっかり筋を通してくれてて。
私が怒るようなことって、ないような気がする。
すっきりさっぱりした私とは反対に、エリオさんはなんとも言えない微妙な顔をした。
怒っているような、困っているような、呆れているような。
複雑で人間味にあふれた表情。
笑顔ばっかりのエリオさんだったから、そんな顔もするんだなぁって、思わず凝視してしまう。
「……心配だ」
エリオさんはそうつぶやくと、うつむいて手で顔をおおう。
あ、金色が隠れちゃった。お日さまに雲がかかったときみたいに寂しい。
なんだか私、エリオさんの目の色に過剰反応しすぎじゃないかな。少しひかえたほうがいいのかな。でもきれいだしなぁ。もう開き直っちゃおうかな!
……ん? 聞き流しちゃってたけど、何が心配なんだろう?
私が反応できないでいると、金色がこっちを向く。
やっぱり、きれいな色だなぁ。
そう思ってると、エリオさんはまたうつむいて、今度はふかーいため息をついた。
え、なんですかその重苦しいため息は。
見すぎると減るとか、そんなご無体なこと言いませんよね。