その人が部屋に入ってくるとき、薄ぼんやりとしていた照明がぱっと明るくなった。
……やっぱり、すごく美形さんだ。
エリオさんも美形なんだけど、この人は美人さんに近い美形さん。
チョコレートみたいな髪色と柘榴みたいな目の色はどっちも暖色なのに、雰囲気はすこし冷たい感じ。
細身でスラっと背が高くて、姿勢がいいから偉い人みたいにも見える。
こういうのを、怜悧な美貌っていうのかもしれない。
親しみやすいイケメンのエリオさんとは全然方向性が違う。
「タクサス、起きてきたんだね」
おお、この人が噂のタクサスさんですか。
足音とかなかったんですが……私が鈍いだけ?
「こ、こんにちは」
ペコリと頭を下げます。九十度の礼です。
これからお世話になるんだから、ちゃんと挨拶くらいはしないといけません。
こんな急にご対面とは思わなかったから、めちゃくちゃテンパっちゃってますけどね……!
こんにちはって時間じゃないし、正しい挨拶は初めましてだよ!
反応が怖くて頭を上げられません。
家主さんなのに、嫌われちゃったりしたらどうしよう?
「そうかしこまらなくてもいい。
ちゃんとした顔合わせはローラスたちも交えてしようと思っている。
一つ言わなければいけないことがあったから下りてきただけだ」
言わなきゃいけないこと? なんだろう?
タクサスさんの言葉に顔を上げる。
口調は固めだけど、声はちょっとやさしめな気がする。
怖い人じゃなくてよかった〜。
「三階には来ないように、と。
それだけだ」
三階……タクサスさんのお部屋がある階だったっけ。
警戒されているのかなって、普通だったらそう思うところなんだけど、タクサスさんのまなざしに厳しさはない。
むしろ私のことを心配しているような、優しさすら感じる。
はて、何か心配されるようなことありましたか?
「それって、オレも?」
「いや、違う。
三階には危険なものも置いてある。
何があるかわからないから君は来ないほうがいい」
エリオさんは大丈夫で、私はダメ。
話によるとエリオさんはこの屋敷によく来ているようなので、それは別にいいんだけども。
……いったい何が置いてあるんですか、三階に。
なんだか恐ろしいところなんじゃないかと勝手に想像が働いちゃうじゃないですか。
「わ、わかりました!」
家主さんの言葉に従わないわけにはいかないので、わたしはしっかり返事をした。少し力んじゃったけど。
よくはわからないけど、三階には絶対に行っちゃいけないらしい。うん、理解した。
二階や一階にも入っちゃいけない部屋があるんだし、三階もそれと似たようなものなのかもしれない。
ダメと言われるとやりたくなるのが人間ってものだけど、今回はそんなこと許されません。
しばらくお世話になるんだから、家主さんの言うことは絶対です。
「じゃあ、それだけだから」
「あの、タクサスさん」
応接間から出ていこうとするタクサスさんを、私はあわてて呼び止めた。
よかった、立ち止まってくれた。
「私、フィーラです。
これからよろしくお願いします」
もう一度ペコリと頭を下げてから、しっかり目をあわせて言った。
挨拶のやり直し、です。さっきよりはきちんとご挨拶できたと思います。
タクサスさんは少し驚いたような顔をして、それからエリオさんをちらっと見る。
エリオさんがタクサスさんに視線を返すと、タクサスさんも心得たとばかりにうなずく。
……アイコンタクトですか、仲良しさんですね。
タクサスさんが私に向き直って、ほんの少し表情を和ませた。
「フィーラ、か。
よろしく」
……笑顔です! 美人さんの笑顔です!
笑顔って言っていいのかわからないくらいかすかな違いですが、ちゃんと笑っているように見えます!
うわぁ、これは眼福ものです。
思わずぽへーっと見惚れちゃいそうになっちゃいますね。
タクサスさんは王子さまとか騎士さまよりも、軍師さまとか若き宰相とかがお似合いです。
いつもは冷徹なんだけど、親しい人の前だと雰囲気がやわらかくなるんだよ。素敵だよ!
はっ! いけないいけない、妄想が暴走しだした。
「はい、よろしくお願いします!」
って、おんなじことのくり返しになっちゃった。
だってタクサスさんがすごくいい顔で笑うんだもの。しょうがない。
「いい名だな」
「エリオさんがつけてくれました。
私も気に入ってます!」
名前を褒められた! エリオさんのおかげです。
うれしくてにこにこしながらエリオさんを見上げると、エリオさんも笑い返してくれた。
深い意味がこもっているのか、私にはわからないけど。
文句なしでいい名前だと思いますよ! ひいき目なんかじゃないですよ、たぶん!
あ、もしかしたら、『蝶のような』以外の意味があるかどうか、タクサスさんなら知っているかもしれない。
今度、機会があったら聞いてみようかな。
「それじゃあな」
「タクサス、このまま起きてるなら話したいことがあるんだけど」
「わかった。あとで部屋に来ればいい」
去ろうとするタクサスさんにエリオさんが声をかける。
それに返事をしてから、今度こそタクサスさんは扉の向こうにいなくなった。
たぶん、部屋に戻ったんだと思う。
「じゃ、オレたちもそろそろそろそろ部屋に戻ろうか。
もう見る場所もないしね」
「わかりました」
「下りてきたのとは別の階段を使おう。
フィーラの部屋にはそっちのほうが近いんだ」
そっか、二階の他の部屋も見せてもらいながら一階に下りてきたから、部屋から遠いほうの階段を使ったんだね。
階段が二つあるなんて、さすがは大きなお屋敷ということでしょうか。
先導してくれるエリオさんのあとをぽてぽてとついていく。
なんだかひよこにでもなった気分です。う〜ん、たとえがかわいすぎたかな。
応接室を出て、下りてきた階段とは逆の方向に歩いていく。
キッチンの横を通りすぎて、廊下を曲がると、さっきの階段よりもはばがせまい、まっすぐな階段があった。
「今通りすぎたうち二部屋は使用人の部屋。
厨房に近いほうがローラスとマルバで、階段に近いほうがラピス。
朝にでも紹介されると思うよ」
「ローラスさんとマルバさんは同室なんですか?」
「夫婦だからね。ラピスは二人の娘」
階段を上りながら、引き続き説明を受ける。
家族で住み込みで働いているんですね。
そういえばローラスさんって名前はさっきタクサスさんが言っていたような気がします。
さて、自分の部屋の前まで戻ってきました。
本当にこっちの階段のほうが近かったです。死角になってたけどほぼ目の前です。
「オレはこれからタクサスのところに行くけど、一人でも大丈夫?」
部屋のドアを開けて、エリオさんは私を振り返る。
大丈夫じゃないって言ったら、エリオさんはどうするつもりなんだろう?
タクサスさんとのお話は、きっと私がいたらできないお話。
だったら大丈夫って答えるしかないんじゃないかな。
そんなことを考えてしまうくらいには、たぶんエリオさんと別れるのが寂しいんだと思います。
気がついたら森の中にいて、目の前にはエリオさんがいて。
この部屋で目が覚めてからの少しの時間以外は、ずっとエリオさんがついていてくれたから。
だから私は不安に思うことがあってもどん底まで落ち込まずにすんだ。なんとかなるさって楽観視することができた。
全部、優しい笑顔とあたたかい瞳を持ったエリオさんのおかげだ。
……らしくもなくちょっと感傷的な気分、です。
エリオさんに心配かけたいわけじゃないし、エリオさんの用事を邪魔したいわけでもない。
だから、私が言うことは一つに決まっているのです。
「大丈夫です。ちょっと考え事もしたいですから」
考え事がしたいのは本当。大丈夫っていうのも、本当ってことにしておく。
実際、起きてすぐだって一人で大丈夫だったんだから、無理ってことはないと思う。
これからここで過ごすのに、始終エリオさんにベッタリじゃ困るもんね。
私が答えても、エリオさんはすぐには動かない。
どうしたんだろうって見上げると、エリオさんも私をじーっと見てくる。
「あの、エリオさん?」
そんなに見られると、顔に穴が空いちゃいそうなんですが。