26話 ほんの一時の語らい

 すり……という、微かな布の擦れる音。
 それだけで、タクサスは浅い眠りから覚醒した。

「みどり……?」

 今、この部屋には己ともう一人しかいない。
 タクサスは身じろぎもせず眠っていたのだから、音の発生源は彼女だろう。
 長椅子から起き上がり、寝台で寝入っているはずの少女の元に移動する。
 寝ている間は暗い部屋は、部屋の主の思い一つで簡単に照明がつくようになっている。
 おかげで、少女の瞳がうっすらと開いていることをすぐに確認できた。
 広い空と深い海の双眸に、ゆっくりと意思の光が宿っていく。

「目が、覚めたのか」

 発した声は、自分のものとは思えないほどにかすれていた。
 思わず安堵のため息がこぼれる。
 だが同時に、なぜ、という疑問もわく。
 タクサスの見立てでは、あと数日は起きられる状態ではなかった。
 魔力の働いている事象の分析は自分の得意分野だ。見誤ったとはあまり思えない。

「タク……サス」
「つらいなら話すな。まだ万全ではないはずだ」

 少女を気遣っての言葉に、みどりは首を横に振る。
 細く開かれているだけの瞳は、それでもはっきりとタクサスを映していた。

「わたしは、まだほとんど寝ているの。
 今起きてるのは、一部だけ」
「……そんなこともできるのか」

 いまだ謎の多い《世界の御子》の力に、素直に感嘆の声をもらした。
 十年以上も共に過ごしているとはいえ、まだまだ少女についてはわからないことばかりだ。
 世界とのつながりの深さ。竜との関係性。少女自身の能力。
 研究者としての本能がうずきそうになるが、今はそんな時ではないと抑え込む。
 そういったことは、彼女が元気なときに好きなだけ考えればいい。

「自分でも初めて知ったのよ」

 くすくすと、楽しそうにみどりは笑う。
 それだけ見ればいつも通りなのに、彼女の顔色はすこぶる悪い。
 血が通っていないのでは、と思うほど白い頬に、タクサスは指をすべらせる。

「大丈夫か?」
「うん。心配かけてごめんなさい」

 力なく微笑む少女の言葉を鵜呑みにすることはできない。
 それでも、頬から伝わってくるぬくもりは本物で、確かに今ここにいるのだと教えてくれる。
 みどりが倒れてからずっと心を騒がせていた不安が、静まっていくのを感じる。

 数年前に一度、みどりが人として存在を保てないほどに弱ったことがあった。
 人によって傷つけられた森の動物の命を救うため、力を使いすぎたことが原因だ。
 タクサスがあと少し早く駆けつけていれば、防げたことだった。
 森の奥の泉の上に、ふわんと浮かんだまゆの中。
 みどりは半年間、そこから出てくることはなかった。

 あの時のような思いを、また味わうのは嫌だった。
 いつ、失ってもおかしくない。もう、帰ってはこないかもしれない。
 絶望にも近い不安と恐怖。
 今思えば半年も耐えられたことが不思議なくらいだ。

「今回は、大丈夫よ」

 タクサスの考えを読んだかのように、みどりは言った。
 小動物のようにタクサスの手に頬をすりよせる。

「まだ、起きてはいけないから、寝ているだけ。
 今は少しだけ余裕ができたから、がんばってみたの。
 心配しないでって、タクサスに言いたくて」

 みどりはいつも飾らない心そのままで接してくる。
 嘘をつくことも、適当にごまかすことも知らないとばかりに。
 やっと、本当に大丈夫なのだろうと安堵できた。

「俺のほうが心配をかけていたんだな」
「タクサス、わたしが倒れたら絶対に気にするってわかっていたもの。
 わたしが望んだことなんだから、自分のせいにしないでね」

 その言葉に、タクサスは眉をひそめる。

「やっぱり、望んだのか」

 わかっていたこととはいえ、責めるような口調になってしまったことは仕方ないと思いたい。
 心配させると知っていて、その上でみどりは自ら選択したのだ。
 たとえとっさな判断だったとしても、だからこそ優先順位というものがはっきり出る。
 自分自身よりも、タクサスよりも、優先したのは異界の少女。

「おかげであの子は無事でしょう?」
「彼女はなんなんだ?」

 達成感すら見えるみどりの様子に、タクサスは尋ねずにはいられなかった。
 あの子、とみどりは言った。
 年齢なんて、ずっと眠っていたみどりにはわからないはずなのに。
 偶然かもしれないが、そう思えないのは彼女が《世界の御子》だからだ。
 何があっても、どんな力があっても不思議ではない。

「それは、まだ内緒。
 わたしの大切な存在、とだけ言っておくわ。
 いじめないであげてね」

 ふふっ、とみどりは笑みを深める。
 一見、子どものようにあどけない表情だが、妙齢の女性のような色香をまとっているようにも思える。
 見た目通りではない少女は、本当に手強い。
 稀有な存在だからだけでなく、自分にとって大切な存在だからこそ、逆らえない。

「……お前には何が見えているんだろうな」
「タクサスに見えているものよりも、きっとずっとせまい世界よ」

 独りごちるようなつぶやきに返ってきたのは、とてもそのまま受け取ることはできない答え。
 術士、特に賢者ともなれば、人それぞれ視界が違う。
 エリオと接しているときに特にはっきり理解させられるその常識は、みどりにも適応されるのだろう。

「今はまだ、あの子に会ってはいけないの。
 三階には来させないでね」
「……一応聞くが、危害を加えられないためではないんだな?」
「いじめないであげて、って言ったじゃない」

 むう、と拗ねるように頬をふくらませる。
 どうやらみどりの中では疑うこともいじめに入るらしい。
 すでに彼女の意思を無視して眠りにつかせたことがあるタクサスは、若干の後ろめたさを覚える。
 もしもの時、を想定しているらしいエリオはタクサス以上にいじめていることになるのかもしれないが、口には出さなかった。
 人には人の考え方があるのだから、エリオの理念をタクサスが曲げることなどできない。
 みどりに教えたところでいたずらに気をわずらわせるだけのことだ。

「わかった。ちゃんと言っておくし、結界も張っておく」
「お願いね」

 ほとんど瞑っているのと同じくらいまで目を細めて微笑むみどりに、タクサスはうなずきを返す。
 彼女の“お願い”に弱い自覚は、充分すぎるくらいに持っている。
 叶えられることなら、自分に許されていることなら、なんでもしてやりたくなる。
 加えて、これだけ弱っている今ならなおさら。
 声はしっかりしているが、表情はいつもと比べれば変化にとぼしい。
 じっとしていることが苦手な少女が、起き上がりすらしないこと自体、異常だ。

「他に、言うべきことはあるか?」

 なるべく優しい声で、タクサスは語りかける。
 森の常緑樹よりも深く、野花の萌芽よりも鮮やかな髪をそっと梳く。
 みどりは今この時もほとんど寝ている状態だと言っていた。少し余裕ができたからがんばったのだとも。
 つまり、タクサスに言うべきことを伝え終えれば、また深い眠りに落ちるのだろう。
 そしてそれが少女の意思による眠りなら、自分の見立て通り数日で目覚めることは、きっとない。
 だから今、できる限り優しくしたかった。

「そうね。たぶん今日か明日に白竜が来るわ」
「……白竜が? なぜ?」

 当然の問いは、微笑み一つで黙殺されてしまう。
 すまなそうな空気は感じるから、言いたくても言えないことなのだろう。

「それと、エリオに、その調子でがんばってって伝えておいて」
「ああ」

 なんのことだかタクサスにはわからなかったが、とりあえずうなずいておく。
 その調子、とはみどりは何をどこまで知っているのだか。
 今回巻き込んだ形になってしまったエリオには申し訳ないが、みどりの様子からするとしばらく協力してもらうことになりそうだ。
 彼に面倒を持ち込まれたことは数え切れないほどあるので、それと帳消しになればいいが。

「……最初はね」

 ぽつりと、みどりが小さくつぶやく。
 もっとよく聞こえるようにと身を乗り出したタクサスの頬に、みどりは手を伸ばしてきた。
 あまり力が出ないらしい手に手を添えて、自身の頬に当てる。

「タクサスの夢の中で話すつもりだったんだけど、我慢できなくなっちゃって。
 こうやって、ちゃんと触れられるほうが、やっぱりいいね」

 満足気な笑みをこぼすみどりは、今にも消えてしまうのではと思うほど儚げに見えた。

「もう一度、確認したい。
 みどり。お前も世界も、絶対に無事にすむんだな」

 それは懇願に近かった。
 無事でいてほしい、という願いを言葉を変えただけだった。
 少女は消えたりしないのだと、確証が欲しかった。

「世界は、ほんの少し揺らぐことはあるかもしれないけれど、無事よ。
 わたしは……あの子とエリオとタクサス次第、かな」

 タクサスの焦燥も不安も包み込むような、穏やかな声音。
 頬に当てられている手が、なだめるように微かに動く。

「あの子の名前を、呼んであげてね」
「名前?」
「そう、名前は大切なものだもの」

 謎かけのようなその言葉は、タクサス次第と言ったことに関係しているのだろうか。
 なんであれみどりの望みなら叶えないという選択肢はない。
 それはきっと、意味のあるものなのだろうから。

「頼りにしてるわ」

 思わず、タクサスは苦笑した。
 そうまで言われては、力を尽くすしかないではないか。
 みどりも、世界も、異界の少女も、損なわれることのないように。
 賢者として、森の番人として、最善の道を見つけてみせよう。

「わかった」

 理解して、納得して、覚悟した。


 まずは、みどりの眠りが安らかなものになるようにと。
 彼は少女の額へと、そっと唇を落とした。



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